すみれとピエール

夕辺歩

第1話 すみれとピエール

 もうすぐ誕生日だからかもしれない。

 気になって気になって仕方がなかった。

「だからどうして『すみれ』なの?」

 私はテーブルを叩いた。

 朝のキッチンだ。朝食が済んで、母さんは下げた食器を水に浸している。

「どうしてって言われてもねぇ。ほら、何を決めるにも勢いって大事じゃない」

「私の名前、勢いで決まったんだ?」

「深く考えたとは言えないかなぁ。四柱推命やら何やらまるっきりスルーだったし。何ていうか、反骨精神? そんなのに負けてたまるか、みたいなとこあったものねぇ」

 あったものねぇって、そんな――。

「適当に決めたのね。学校で友達にそう教えるからね」

「あ、それはちょっと困るな。クラス担任の柄本先生、割と母さんのタイプなのに」

「関係ないじゃない」

「あるじゃない。先生、未婚でしょ? アバウトな女だなんて私思われたくないし」

「私……、ってちょっと本気?」

「ウソウソ、ないない」

 ケケケ、と母さんは振り向いて笑った。

「アンタの名前はねぇ、あれよほら日英合作。……あれ? 何か違うな。もっとこう足して割った感じの」

「和洋折衷?」

「あ、それそれ。That's right. 四年生なのに難しい言葉知ってるのねぇ」

「和洋折衷。……名前まで?」

 Yes, that's all. と言って母さんは私に背を向けた。

「ちょっと待ってよ、余計に分からないんだけど」

「『いつも笑顔でいて欲しい』ってパパの願いだったのよ」

「はぁ?」

「うわ、鈍い。そんなだから学校でイジメられるのね」

「イジメられてないよ!」

 何だか無性に腹が立った。

 私はキッチンを飛び出してそのまま学校に向かった。



 陰湿なイジメなんて本当に受けていない。

 けれど、クラスの中で自分だけ浮いているような、そんな感覚が少しもないなんて言えなかった。クラス替えが済んだばかりの今はまだいいけれど、と私は暗い気持ちで考える。これから先、私の存在に慣れるにつれて、意地の悪い男子連中の遠回しな攻撃は段々とエスカレートして行くのに違いない。それくらいの予想は簡単につく雰囲気だった。

 私の名前は、すみれ。ファミリー・ネームはスタインベック。イギリス人の父ジョージ・スタインベックと、日本人の母谷村あかねの間に生まれた。

 つまり私はハーフだ。髪の毛は明るい茶色だし、瞳の色だって黒じゃない。

 パパが病気で死んでからこっち、混血だとか純血だとか、そういうことにばかり意識が向くようになってきた。胸がもやもやして落ち着かない毎日は、正直言ってキツい。

 参ったなぁ。と、溜息の私は少し離れた席に座っている彼の横顔を見た。

 クラスメイトの松山一郎。

 一ヶ月くらい前からだろうか、彼のことが気になり始めたのは。

 雨が降ってたっけ、と私はその日のことを思い出す。



 その日、松山は傘を差したまま花壇の側にしゃがみ込んでいた。

 辺りには誰もいなかった。彼だけがそこにじっとしていた。

「何してるの」

 何気なく、本当に何気なく、私は松山に近付いて尋ねた。

「別に」

 彼は葉っぱの上のカタツムリをじっと見つめているらしかった。

 クラスで一番愛想のない、無口な男の子。それが松山一郎だ。何を考えているのか分からないとか、ムッツリ君だとか、女子の間ではいろいろ言われている子だった。

「ねえ松山、みんな教室でトランプしてるよ」

「だから?」

「混ざらないの?」

「別にいい」

 ふぅん、と私は彼の隣にしゃがんだ。

 深い考えがあったわけじゃなかった。

 私と松山を包むのは、傘を打つ雨の音だけ。

 しばらくして、松山がぽつりと言った。

「オレ、こいつに」

「え?」

「名前つけたんだ」

「名前。カタツムリに?」

「ゆっくりだけど、こいつ、あんな遠くから歩いて来たんだぜ」

 松山が指差したのは花壇のずっと端の方だった。

 私は呆れた。アンタそれずっと観察してたの、と。

「お前、偉いよ。ピエール」

 そのセンスはどうよ、という言葉を私は飲み込んだ。



 それからずっと、私は松山のことが気になっている。

 十回の溜息のうち、二回か三回くらいは、松山が原因かもしれない程度に。

「また溜息ついてんぞ、ガイジンが」

 癇に障る声が後ろから聞こえた。ひゃひゃひゃっ、という笑い声も。

「ガイジンじゃないって、何度説明したら解るかな武田」

「見た目ガイジンだろうがよ、ガイジン。バカじゃねぇのガイジン」

 また、ひゃひゃひゃっ。

 ああもう、と私は何度目かの溜息をつく。

 クラスでもずば抜けて体格のいい武田正志が、最近、こうして私にちょっかいをかけてくる。それはもう、うっとうしいの一言では表現できない頻度で。

 本当に嫌だったから、私は一度担任の柄本先生にも相談したのだけれど、武田の言動にはこの通り変化なんか少しもない。

 武田を真正面から見据えて、私はきっぱりと言い返した。

「私は、日本人だよ。イギリス人とのハーフだけど心は日本人」

「でも半分ガイジンだろ体が。見た目はまるっきりガイジン」

「ガイジンガイジン言わないでよ、差別じゃないのそれって」

「いっぺん英語で喋ってみろよ。黙れって。そしたら黙ってやるぜぇ」

 ひゃひゃひゃっと武田はいやらしく笑った。

 言ってやっても良かった。黙れの一言くらい言えた。

 でも言えなかった。

 武田の続けた言葉が、私を怒りで一杯にしたからだ。

「日本人でもイギリス人でもない、この半端モン」

 次の瞬間、武田の体が真横に飛んだ。

 水平に二メートルは飛んで、机や椅子を派手になぎ倒した。

「…………ッてぇな! てめえ何しやがる!」

 松山ァ! と武田が大声で怒鳴る。

 静まり返った教室。

 私だけじゃない。みんな彼を見たまま動けなかった。

 松山だ。

 武田にドロップキックを浴びせた松山は床にうつ伏せだった。

 ゆっくりと起き上がり、服に付いた埃を払って、彼はぽつりと言った。

「足が滑った」

 それがケンカの合図になった。



 カタツムリってさ、と松山が独り言のように呟いた。

 空はきれいな茜色。放課後、保健室からの帰りだった。

 額や頬に擦り傷を作って、鼻にティッシュを詰めて――。

 ボロボロになった松山は、それでもやっぱり、いつもの松山だった。

「カタツムリってのはさ……」

「この前の、ピエールのこと?」

「ピエールだけじゃない。どのカタツムリも、雌雄同体なんだって」

「シユウドウタイ?」

 聞き慣れない響きだった。松山は頷いた。

「オスの機能とメスの機能、どっちも持ってるって図鑑に書いてた」

「そっか。へぇ、そうなんだ」

 雌雄同体――。少し違うけど、私と似てるなと思った。

「半端なんだ、カタツムリも。私と同じで」

「その半端っていうの、違うんじゃない?」

「え?」

 違うと思う、と松山は繰り返した。

「どっちでもないんじゃなくて、どっちでもあるんだ」

「……松山」

「それに、どっちかなんてこと、本当はどうでもいいんだ」

 西日を背にして、立ち止まった松山が強く言い切る。

「ピエールは、ただピエールなんだ。オレにとって」

 私は動けなかった。松山のことが好きだ、と心の底から思った。



「もう一度聞くけどさ」

「何?」

 キッチンで、私は夕飯の支度を続ける母さんに改めて尋ねた。

「どうして私の名前『すみれ』なの?」

「まだ考えてたの。教えたでしょう、パパが」

「『いつも笑顔でいて欲しい』って言ってたんでしょ。他にヒントは?」

 テーブルを叩いて、私は食い下がる。

「ねぇ他にヒントないの? 気になって仕方ないんだってば」

「あとは『和洋折衷』。その二つで充分でしょうに」

 母さんは呆れ顔で振り返った。

「本当に鈍い子。あの人に似たのね」

「悪かったわね」

「スマイルよ」

「は?」

「スペルは知ってる?」

「バカにしないでよ。S、M、I、L、E……。あ」

「ね。読めなくもない」

 得意気にウインクする母さん。

 そのセンスはどうよ、と私は笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

すみれとピエール 夕辺歩 @ayumu_yube

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ