第2話 彼女のショパンに惹かれて
※
彼女が弾くピアノを聴いてから、僕の頭の中はクラシックのコンサートホールがすっぽりと入っているように、あのの演奏が鳴り響いていた。
ショパンの《英雄ポロネーズ》この曲だけは題名まで覚えた。
イヤホンを通して聴く流行りの曲は、今の気分にそぐわない。クラシックのピアノ曲に心を打たれたことが、自分は他の高校生より高貴な人間の気持ちになる。
いつもと変わらぬ朝を迎えただけなのに、何故か今日は新鮮に思えた。
赤羽駅から電車に乗った僕は、田端駅で相原奏子が乗ってこないかと待ちわびていた。
電車が田端駅に近づくと、いつもより後部車両の列に、相原奏子が並んでいるのが見えた。少し違う風貌に見えたから見間違えに思ったが、自分が乗っている車両の列に彼女が並んでいないのを確かめると、停車するや否や、飛び出して彼女が並ぶ列まで走った。
三十メートルも無い距離を全力で走ると、降りる乗客を待っている彼女の横顔が見える。昨日までは胸元まで伸びていたソバージュヘア―がバッサリと切られていて、ナチュラルボブのヘアースタイルが人違いに思わせた。
僕が息を切らしながら声を掛けると、彼女は驚いた表情でこちらを見た。束ねていない髪に惑わされたが、やはり相原奏子だ。
「おはよう……いゃ、おはようございます。」
奏子さんは『一体、何?』といった表情で、「おはようございます……」と、僕の言葉に応じていた。
押し込まれた満員電車の中で左右に肩を動かしている奏子さんの姿が、僕から距離を取ろうとしているように見える。
「昨日、行きましたよ、学園祭。凄かったですね。」
多分、何のことだか分かっているのに、「何がですか?……」と誤魔化す奏子さんに、僕が「あれ……ショパンの英雄ポロネーズ」と、曲名を口にしたら、それに驚いた顔をしている。
「いや、崇に誘われて……ピアノの生演奏なんて昨日初めて聴いたんですけど、凄い良かったです。いや、あれは感動しました。後ろのおばちゃんなんて、天才っていっていましたよ。」
奏子さんは照れ臭そうに俯いて「それは、どうも……」と言っている。
どさくさ紛れにも思えたが、何せ上野駅に着くまでには時間が無いものだから、僕は電話番号を教えてくれとお願いすると、家の電話番号なんか教えられないと、あっさり断られた。「違う、PHS」と訊ねれば、そんなものは持っていないとのこと。
「じゃぁ、ポケベルの番号教えて下さい。」
「しつこいですね、第一あなたがポケベルを持っていないのに、教えてどうするんですか……」
奏子さんはそう言って、上野駅で降りて行った。この時、PHSを買った時に浮かれていた自分を思い出して腹が立った。
不思議な気持ちだった。奏子さんに突っ慳貪にされて、距離を置かれていることが切なくてたまらなかった。
彼女のことが好きなのかと思えば、そんなはずはない。顔だって美人のわけでもないし、性格だって現時点で良い印象はない。
ただ、彼女のピアノを聴いて胸を打たれたことだけは確かだ。そして今のような態度とは相反して、微笑みながらピアノを弾いている彼女に惹かれていた。
教室では、ずっとぼんやりしていた。奏子さんのピアノを弾いている顔を、ずっと思い浮かべている。
崇には、あまり根掘り葉掘り聞いて、彼女に興味を持ったと思われるのが恥ずかしいから、「奏子さんって、そんなにピアノ凄いのか?」と、それだけ訊ねた。
「ああ、もう家柄が、うちなんかと比べ物にならないぜ。母親は世界を股にかけたオペラ歌手の相原百合子で、父親も一流ピアニストの相原省吾だ。」
その名を出されても初めて聞く名前だから、『世界を股にかけた』とか『一流』という言葉でしか、凄さを感じられない。
「カナコさんなんて、生まれた時から音楽の道を歩むことが決まっていたのさ。でもなぁ……」
「でもなぁ?」
言葉に詰まった様子の崇は、僕の表情を伺ってから話を続けた。
「二年前に母親は亡くなってるんだよ。夫婦でクリスマス・イヴにコンサートをしたんだ。その時にステージの照明が、母親に落下したんだよ。頭打って即死。それを助けようとした父親も、右手を潰されてピアノは弾けなくなったんだ。」
話を聞かされても、ただ言葉を失うだけだった。奏子さんは会場にいて、その現場を目の当たりにしたこと。一時はピアノを弾くことができなくなっていたこと。父親からの願いで再び弾き始めたことを聞くと、『天才』と呼ばれていた彼女が、何気なく生きている僕とは、背負っているものの違いを感じた。
奏子さんは、それでも微笑みながら楽しそうにピアノを弾いていたと思えば、遣る瀬無い気持ちになる。
あの日、『普通』と言った言葉に、過敏になっていたのを思い出した。奏子さんにとっては、父親がピアノを弾いていて、母親が歌っていること、それが普通なのだろう。
そんな普通の生活が、ある日突然に無くなってしまった。そんな奏子さんを僕は、『特殊』だと言った。つじつまを合わせれば、酷いことを言ってしまったと思う。
奏子さんの弾くピアノに込められた心の傷を考えると、胸が締め付けられる思いになった。
放課後、彼女の麻衣子とカラオケボックスに来た。
ボックスの中で麻衣子は恥じらうこと無く、制服を脱いで私服に着替えようとしている。
白いワイシャツのボタンを外した胸元から、薄いピンクのキャミソールが見えると、僕は視線を逸らして曲本を手に取った。
「ねぇ、脱いだついでに、しちゃおうか。」
僕と麻衣子は幾度となく、この空間でセックスをした。アルバイトの給料が入ると、ラブホテルに入ることもあるが、安く済むからカラオケボックスですることが多い。
特にここは、元々ラブホテルだった場所を改築した場所だから、部屋の作りもそのままで、トイレはユニットバスになっているから、使用禁止と書いてはいるがシャワーもついている。
崇から聞いた奏子さんの話を思い出せば、そんな気分にはなれなかったが、麻衣子が手でさするペニスは、僕の頭の中で考えていることと相反した様子になっていた。
膨らみ上がったペニスを開放するように、麻衣子は僕のズボンとトランクスを足首まで下ろすと、上目遣いで僕の顔を見て微笑む。
口の中に含まれたペニスの先に生暖かいぬめりを感じると、理性を奪われて麻衣子をソファーに押し倒した。
「ちょっとまって、ゴム。」
麻衣子は、床に放り投げられた鞄に手を伸ばすと、そこから小さなポーチを取り出して、さらにそこからコンドームを一つ取り出した。
ピンク色のコンドームを、麻衣子は慣れた手つきで僕のペニスに取り付ける。その間の虚しさは言葉にならない。
気をまぎらわして、いつも考えることがある。そもそも子供をつくるための行為なのに、できないようにするのは人間だけだろう……こんな無意味なことはないと思いながらも、実際に麻衣子が妊娠したと聞けば、僕も気持ちを取り乱してしまうはず。
コンドームを取り付け終えた麻衣子は僕に軽くキスをすると、準備を整えたようにソファーに横たわった。僕は麻衣子の陰部に手を当てて軽く刺激すると、甘い声を出している。ソファーの狭い幅に合わせて彼女の股を開くと、コンドームを付けられたペニスを、彼女の中に押し込んだ。
柔らかな温かさが脳を刺激する。理性を奪われた僕は、羞恥心のないもう一人の僕だ。
閉じ込められた本来の僕が、心の中で呟いている。麻衣子のこの姿を何人の男が見たのだろう……
どうしようもない嫉妬心が表れると、我を失って彼女の首を舐めまわす。ブラジャーのホックを外さぬまま、胸だけを露わにして舐めまわす。それは愛の表現ではなく、彼女を汚らわしいものにしたいと思う行為だった。
彼女を汚したい。自分の色で汚したい。体中に僕の後を残したい。そうすることで彼女を囲いたい。麻衣子はそれを自分が求められていると勘違いしているが、そんな綺麗な感情ではなかった。
行為を済ますと、僕は床に脱ぎ捨てられたトランクスとズボンを穿いて、鞄から煙草を取り出した。学校の近所や、校内のトイレに隠れて吸うようなまねはしないが、カラオケにいる時などは煙草を吸う。
短ランやボンタンの制服を着て、髪型をリーゼントで決めるような不良ではないが、背伸びしたい気持ちがあるのは事実。
煙草に火を点けると、麻衣子はキャミソール姿のままで側に寄って来た。
「ねぇ、私にも一本ちょうだい。」
麻衣子は火のついた煙草を僕の手から取り上げると、煙を口の中に含んで吹かしている。さっきまでは汚してやりたいと思う気持ちでいっぱいだったはずなのに、肌着姿で煙草を吹かす女の姿を見ると、あばずれに見えて汚らわしく思う。
そう感じてしまうのにも理由がある。小学五年生の頃に僕と祖母を置いて出て行った母を思い出すからだ。
父親は物心がついた時からいなかった。僕は、母と祖母の三人で暮らしていた。
母はスナックを経営していて、僕は夕飯をそこで食べることも多かった。
焼きそば、チャーハン、お客に出すための肉じゃが、里芋などの煮物。毎日、スナックで酒を飲みながら食うような物ばかりを食べていた。羽振りのよさそうな男性客が寿司を買ってきてくれる時もあった。
僕が寿司を受け取ると、母がその男に酒をつくり、受け渡す手を男は握り、いやらしい目で母を見ていた。そんな男が一人や二人ではなかった。
母は毎朝、僕が学校に行く時には下着姿のままで寝ていた。学校から帰って来ると、下着姿で煙草を吸っていた。
ある朝から、下着姿で寝ている母の姿を見なくなった。学校から帰ってきても、下着姿で煙草を吸う母の姿は無くなった。
それから僕は祖母と二人で暮らしている。祖母が母と連絡を取り合っているのか、本当に行方知れずかも分からない。
七十二歳の祖母は働いていないから、僕の学費も心配するなと言うだけで、どうやって工面しているのか分からない。
母は六人姉弟の二人目で、上から五人目まで女で、一番下に弟がいる。
そして六人の姉弟には、三人の父親がいた。祖母も若い頃はずいぶんと気が多い女だったようだ。僕は、祖父にあたる三人の誰とも会ったことがない。
そんな祖母の血を受けた母を、僕は不潔に思っているから、今の麻衣子みたいな姿を汚らわしく思う。だが、自分でこの女を選んだのも事実。そして進学校に通う優等生を、このように変えたのも、きっと僕なのだろう。
奏子さんのことを思い浮かべた。いつのまにか僕は、彼女の心にある闇を連想していた。彼女の抱えている闇を、いやしてくれる人は今日までいたのだろうか……それが男だと考えた時、僕の心には奏子さんへの嫉妬心が生まれていることと、麻衣子への気持ちが薄れているのに気がついた。
それから、朝の電車で奏子さんと会えない日が続いた。
期待が外れた火曜日。憂いが募る水曜日。思いを馳せる木曜日。
金曜日にはいつもより三十分早い時間から、三十分遅い時間まで、田端駅で奏子さんを待っていたが、姿を見せることはなかった。
溢れる思いになった土曜日の放課後、僕は上野まで来ていた。
待ち続けることが出来なくなり彼女の学校まで来るが、彼女とは同じ制服の違う顔ばかりが校門からゾロゾロと出てきて、奏子さんの姿は見えない。
待ち続けて知っている顔を見つけたのは、彩乃さんだった。
「あれ?彰君、どうしたの。」
女子ばかりの学校の前に、見知らぬ制服を着た男が立っているだけでも不信なのに、それが知っている人間であれば、不思議に思われるのも当たり前。
僕はいいわけなども思いつかず、率直に奏子さんのことを訊ねた。
「奏子?帰っちゃったんじゃないかなぁ……」
「学校には、毎日来ているんですか?」
「来ているけど、だから何で?」
誤魔化す、誤魔化さないは抜きにして、質問に答えることが出来ずにいた僕を見ていた彩乃さんに、「どっかで話そうか。」と誘われ、駅前のファストフード店に入った。
二人で一つだけ注文したLサイズのポテトを、彩乃さんは手を止めることなくつまみながら、「で、で、どうしたの?」と訊ねてくる。
友達の姉に自分の胸の内を話すべきかどうか、迷う口を誤魔化すようにコーラをストローで吸い続ける。中身が底つきて紙カップの中から『ズズズッ』と音が聞こえると、僕は誤魔化すのを諦めて話をした。
奏子さんと朝の電車で会うこと、ピアノを聴いて心が揺さぶられたこと、崇から奏子さんの家庭事情を聞いたこと、最近は朝見かけないのが気になっていること。
それが好きとかの気持ちではないことだけは強い口調で誤魔化すと、彩乃さんはポテトをつまむ手を止めて笑っていた。
「へぇ……ハハハ、奏子のことがねぇ。彰君も変わり者だねぇ。」
「だから、好きとかそういうのじゃなくて、ただ……」
「ただ?」
彩乃さんは、『ほら、好きなんでしょ?言っちゃいな。』と言っているような顔で僕を見ている。
「わからないです、全然タイプじゃないし。それに、あっちも好かれるような態度じゃないでしょ?でも、奏子さんのことを考えると、モヤモヤした気持ちになるのは確かなんです。」
ペラペラと話してしまう口を止めるように、再びストローを吸い込む。中で溶けた氷がコーラ風味の水になっていて、それを吸いつくすと再び音をたてる。話を誤魔化す小道具に迷うと、ストローの先を噛んで間をしのいだ。
「だから、好きってことでしょ?しょうがないなぁ……」
彩乃さんは鞄から英単語帳を取り出すと、一枚ちぎって、それに書いたメモを僕に渡した。
「これ、奏子のベル番。私に聞いたって言っていいから。悪者になってあげる。勝手に教えたって知られたら、奏子に怒られるからね。頑張りなさいよ。」
そこまで体を張られたら、そのメモを突き返すこともできず、僕は小さく首を動かして受け取った。
帰り道の電気店で、ポケベルを買った。奏子さんと連絡を取り合うためだ。公衆電話から彩乃さんに聞いた番号へ僕の番号とメッセージを送るが、返信のメッセージは無かった。
急いては事を仕損じるのを痛感していた日曜日が過ぎて、後悔だけが残った月曜日の朝、僕はいつも通りの通学時間に電車に乗った。
田端駅に着くと、奏子さんがホームに立っているのが見えた。目が合うと彼女は、僕を蔑むような目つきで見ている。そんな彼女の表情はそちらにして、僕は笑顔になった。
車両の扉が開くと、奏子さんは外れクジでも引いた表情をして、列から身を外すのが見えた。
隣にいる気だるそうにしたサラリーマンや、後ろにいる香水の匂いがきついOLらしき女性は、僕の顔を見て気味が悪いと思うだろう。
迷路の出口を見付けたように微笑んでいたと思えば、行き止まりに差しあたったように、険しい顔をしているのだから、傍からは情緒不安定な少年に見えるはず。
だが、今の僕はそんなことを気にもせず、去っていく奏子さんを追い駆けた。
「ちょっと、ちょっと!」
奏子さんの背中に向かって声を掛けても、立ち止まることはなく、二車両ほど離れた距離を追い駆けると、電車に乗ろうとする奏子さんの腕を慌てて掴んだ。
「ちょっと、何するの!」
いつもは年下の僕にも敬語を使い、それが距離を置いているようにも聞こえる奏子さんだが、いきなり腕を掴まれたことを尻でも撫でられたように大声を上げている。
人がすし詰めにされた車両の扉が閉まると、窓越しから僕を見る人々の視線が軽蔑の眼差しに見えた。
「離して……」
おもわず力を入れて握ってしまった腕を離すと、奏子さんは手首をさすりながら、「痛い……」と呟いていた。
「急にごめんなさい。でも、何で避ける必要があるんですか?」
僕の質問に奏子さんは、溜息を吐いて応える。
「あなたこそ、何で私に付きまとうの?勝手にポケベルの番号聞いたりして……どうせ彩乃から聞いたんでしょ。」
返信が無かったから、何処の誰かに間違ってメッセージを送ってしまったか、彩乃さんの悪戯かと不安だったが、ちゃんと奏子さんに届いていたことだけは確認できた。
ただ、その番号を彩乃さんに聞いたとは言えずに、「ごめんなさい。」と、謝るだけ。
「何なの……私が年下扱いしたりしたから、腹を立てているの?だったら謝るわよ、ごめんなさい。だから、もう付きまとわないで。」
奏子さんは勘違いをしている。腹を立てているどころか、あなたのことを知りたいと思っているのだ。だが、そんなことを率直に言うことはできず、今の状況に当てはまる言葉を探していた。
「違うんです。だから、その、ピアノ……ピアノを聴かせてほしいだけなんです。」
「ピアノ?」
奏子さんは、首を傾げて僕を見ている。その後に話した言葉は、天から台詞が下りてきたように、僕の口がペラペラと喋り出す。
「そう、そうなんです。本当にピアノが凄いと思ったんです。僕なんてピアノのこと分からないから、彩乃さんの聴いても、崇の聴いても何とも思わなかったけど、奏子さんのピアノだけ、なんか、こう……そう、心に雷が落ちたようで……」
奏子さんは相変わらずの表情で、自分でも何を言っているのか分からない僕の話を聞いている。
「カミナリ?」
「そう、雷が……あ。」
落ちるという言葉を口に出して、奏子さんのお母さんが舞台照明の落下事故で亡くなったのを思い出した。
「普通。」とか、禁止用語が多そうだから、この言葉が奏子さんの、心にある地雷を踏んでしまったのではと不安に思いながら顔色を窺うが、特に変わった様子がないのを安心する。
「そうだ、これPHS。今日の夜これに電話しますから、出て下さい。そしてピアノを聴かせて下さい。」
僕はポケットから取り出したPHSを無理やり奏子さんの手に握らせると、PHSを突き返される前に走り去った。
授業中は、ずっと自分に驚いていた。僕は自分探しみたいなまねをしたことがないが、この自分は新発見だった。
自分がこんなにも積極的な人間だと、知らなかったからだ。
頭の中ではいくつかの言葉だけが、ぐるぐると駆け巡っている。
爽快、満足、達成感。
後悔、不安、羞恥心。
頭の中で言葉が選択される度に、心がそれに合わせた感情になる。
そして、全ての言葉には霧がかかっているように、モヤモヤとした気持ちだった。
崇と何か話したようだが、覚えていない。今日の授業内容も、昼飯は何を食べたのかも覚えていない。ポケベルには麻衣子からのメッセージが入っているが返信せぬまま。帰りの電車の中でも、頭の中では言葉のルーレットが回っていた。
夜も更けた一九時頃、コンビニで五十度数のテレホンカードを買うと、公衆電話から奏子さんのポケベルにメッセージを入れた。
(※2※2 1271219144040301327133##)
ダイヤルボタンを押してメッセージを入力する。
『イマカラデンワシマス』
無理やり渡されたPHSなど持ち歩いてるはずがないと思ったから、先に連絡を入れておいた。
団地が立て並ぶ住宅街に昼間は老婦が営む雑貨店があり、そこはもう店仕舞いの時間。その店頭には公衆電話が一台備えてある。
誰に見られると気まずいわけでもないが、人けのない場所を選んだ。
『あなたのおかけになった電話番号は、電話のかかりにくい所におられるか、電源が入ってないため、かかりません。』
PHSに電話すると、受話器から音声アナウンスが聞こえた。がっかりしたのと、思うようにいかない苛立ちが入り交じる。
諦めずに再度電話を掛けると、今度は呼び出し音が聞こえる。『プルルルルル』と三コール繰り返して、「もしもし」と言う、奏子さんの声が聞こえた。
「あ、奏子さん。僕です、彰です。電話、出てくれないかと思った。」
おもわず大きくなってしまった僕の声が、夜の一本道に響いている。
「さっきから電話鳴りっぱなしで、出たら女の人だったから、人違いですと伝えて切りました。」
きっと麻衣子からだ。ポケベルの返信もしていなかったし、今日一日、音信不通にしていたから電話を掛けたんだ……勢いにまかせて渡したPHSは、厄介なことになったなと思ったが、今は奏子さんが電話に出てくれた喜びの方が増している。
「彼女?まずかったんじゃない。でも勝手に渡してきたのは、あなたなんで。」
「いや、違います!彼女とか、そういうのじゃないんで。大丈夫です、気にしないでください。」
僕は咄嗟に嘘をついていた。奏子さんのことが好きだとか、彼女にしたいだとか、自分の気持ちがどうなのか分からない。ただ、麻衣子のことは知られたくないと、反射神経のようなものが働いた。
「とにかく、明日の朝、この電話返しますので。じゃあ。」
「待って!あ、その、ピアノ。」
「ピアノ?」
奏子さんが切ろうとする電話を食い止めなければと、必死になって会話を繋げた。
「そう、ピアノ聴かせてほしいから。」
「あなたの家、ピアノある?」
「いや、ピアノは無いですけど……」
「ピアノって、一般家庭に普通にあるもの?」
音楽専門の高校に通っているくらいだから、ピアノも家にあるものだと思う先入観であったが、考えてみれば、工業高校に通う者の家が必ずしも工場ではないし、商業高校に通う者が商売人の跡取りだとはかぎらない。
「そうですね。あんな大きな物、さすがに無いですよね……」
「ありますけど。」
「え、あるの?なんだよ……」
意地悪だと思ったが、そんな言葉を聞けるのを距離を縮めたことに思えば、奏子さんなりの愛嬌に思える。
「じゃあ、聴かせて下さいよ。」
「あなたは、こんな夜に隣の家でピアノを弾いていたら、どう思う?」
「そうか、それは近所迷惑か……」
「そんなの、防音室にきまってるでしょ。」
「何なんだよ!というより、防音室にきまってないし。それこそ一般家庭に無いし。金持ちかよ。」
クスクスと笑う声が聞こえた。僕を揶揄って笑っているのは癪に障るが、奏子さんの笑い声を初めて聞いた。
僕の頬が自然に緩んだ。笑っている奏子さんの顔を思い浮かべた。
今までの僕が、好みだと言っていた女性の顔ではない。奏子さんを好みではないと言っていたが、そもそも麻衣子も自分の好みではなく、他人を基準に選んだ女だ。
奏子さんの声は、キャッキャキャッキャと笑う女の子の甲高い声と比べれば、少し低い声なのかもしれない。
楽しいことがあれば、甲高い声で笑うことがあるのだろうか……そんなことを考えていたら、人が表す感情はピアノの鍵盤に似ていると思った。
受話器の向こうから穏やかなメロディーが流れ始めた。どこかで聴いたことのある曲だ……いつだったかを思い出せば、中学の卒業式……卒業証書を受け取る時に流れていた。
数年前のことを思い出していた。奏子さんのピアノに合わせて、思い出が回想する。途中、心を取り乱したようなメロディーが流れると、少し苦いことも思い出したが、メロディーが落ち着きを戻すと、再び和やかな気持ちになれた。
やはり、この人が弾くピアノは凄い。人の気持ちにすんなりと入ってしまう。
受話器の向こう側、奏子さんはどんな表情でピアノを弾いているのだろう。それが見えないのは残念だが、きっと穏やかに笑みを浮かべて弾いているのが想像できる。
ピアノの音が止まると、「満足した?」と、訊ねる奏子さんの声が聞こえた。
「はい、いい曲ですね。なんだか優しくて、どこか切なくて……中学の卒業式を思い出しました。」
「そう、これもショパンの曲。」
「へぇ、そうなんだ。すばらしい作曲家だったんですね。」
「そう、ショパンの《別れの曲》。」
「へぇ、《別れの曲》かぁ……って、酷い!何でそんなの聴かせるんですか!」
また奏子さんの笑い声が聞こえた。さっきよりも少し高い声で笑っている気がする。気が付けばテレホンカードの度数が少なくなっている。
PHSは公衆電話から掛けると、自宅に電話するよりも料金がかさむ。僕は友達にこんな事をさせていたのだろうか……自分の身勝手な性格を痛感させられた。
「奏子さん、すみません。電話切れちゃいそうなので、明日また。あ、それ返さなくていいですからね、また掛けるんで。」
そう言うと、『それじゃあ』や『おやすみ』など、何かしら電話を切るための合図のような言葉はなく、奏子さんの方から無言で電話を切られた。
至って変わらず愛想の良い会話に思えなかったが、今の奏子さんからは愛嬌を感じられた。
僕は何故、彼女に惹かれているのか分からない。だが、この電話で彼女への想いは一層に増していた。
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