オクターヴ上げて奏でる
堀切政人
第1話 出会いのポロネーズ
僕等はいつも、音の中で生きている。
そよ風の吹く音、川のせせらぎ、雨の滴。
鳥のさえずり、虫の鳴く声、犬の遠吠え。
目覚ましのアラーム、駅へ急ぐ人達の足音、車のクラクション。
僕等はいつも五線譜の上を歩いていて、そこでは色々な音が流れている。
そんな音に囲まれながら毎日を過ごしていると、ある日突然、聴こえてくる音があった。
それは僕が歩いている場所よりも、もっと空の上から流れてくる音……
なんて、そんなことを思ったのは、きっと彼女に出会ったからだ。
※
真昼の空にぽかんと雲が浮かんでる。真っ青な空に、幼い子供が書いた絵のように小さな綿あめ雲が一つ、ぷかぷかと空を泳いでいる。
最新機種のPHSを手に入れた僕も、そんな雲みたいに浮かれた気分だった。
本来こんな物を持っていても周りの友達が持っているのはポケットベルだから、連絡を取り合うのは不便なはず。だが、そんなことはどうでもよかった。
友達がわざわざ公衆電話を探して、僕に電話を掛ける。その連絡先がPHSであること。
僕が彼女の家に電話を掛ける。「うん、そう、今、ピッチ(PHS)から掛けてる。」と言いたいだけだ。
相手の都合や便利性など、どうでもよかった。むしろ彼女の友達の前で、僕がポケットからPHSを取り出す。これが彼女にとってもセンスの良い彼氏がいるというステータスになると思ってる。
彼女は、僕が通う高校の隣町にある女子高校の二年生で、僕と同い年。一年生の時に彼女の高校で行われた学園祭で知り合った。
彼女の高校は偏差値の高い進学校であり、おまけに可愛い娘も多く通っているということで有名だったから、僕等みたいな男子高校生はその学園祭へ、傷ついた獲物に集るハイエナのように群がった。
とくに僕等の同い年には、人気女優の森末広子が通学していると騒がれていたから、高校生だけでなく、中学生や大学生まで大勢来ていて、てんやわんやになっていた。
無論、大騒ぎになると分かっているのに、森末広子が学園祭に参加するわけがない。
そんな期待外れだった気分の時に、僕は彼女と出会った。
出会ったと言うよりも、森末広子から目的を変更した僕等が彼女達のグループに声を掛けたのだから、寄って行ったと言う方が正しいのだろう。
その三日後に僕は彼女とデートをして、お見合い番組のような拍子で付き合うことになった。
彼女が好きだとか、愛おしいだとかの問題ではなく、学園祭で見かけた女子の中では群を抜いて可愛かったから、付き合うとなれば迷うことはなかった。
そんな彼女とも付き合ってまもなく一年になる。だが、今の僕にとって彼女の存在は、着ている洋服や今日買ったPHSと同じで、他人が羨ましく思えばそれでいいと思うだけの存在だ。
渋谷でPHSを買ったその足で僕は原宿へ向かい、高校のクラスメイトである原田崇と待ち合わせている場所へ向かった。
夏の間はサーフブランドの洋服を着ていた崇だが、秋になってアメカジの洋服が欲しいから買い物へ行こうと誘われた。
洋風の外観に造られた木造の駅舎から押し出されるように人が出ていくと、ケヤキ並木の続く表参道に向かって人の流れができる。
僕はその流れに混ざりながら待ち合わせた歩道橋の袂まで歩くと、サーフブランドTシャツの上から、赤いギンガムチェックのポロシャツを羽織った崇の姿を見つけた。
隣を見ると三人の女性が立っている。一人は崇の姉、彩乃さんだった。
「よう」と、手を挙げて僕に声を掛ける崇の隣で、彩乃さんがにこやかに笑いながら、「彰君、久しぶり。」と言ってきたので、僕は軽く頭を下げた。
肩まで伸ばした髪を茶色く染めて、夏の間にこんがりと日焼けした弟とは相反して、姉は黒くて長い艶やかな髪と、白い粉でも塗っているような肌の色。
彩乃さんは僕の一つ年上だが、とても大人びていて二十歳くらいには見える。
その横にいる二人は、若者の街と言われている場所には、どこか不釣り合いの姿に見えた。
一人は彩乃さんのように長い黒髪だが、髪に艶は無く、面長な顔立ちに、一般的な金属製フレームの眼鏡を掛けている。
もう一人は、毎日、手洗い石鹸で洗っているのかと思わせるほどに、傷んだバサバサの髪をポニーテールに束ねていて、何のブランドかも分からぬ細見のジーンズと、白いシャツの上から、焦げ茶色の地味なカーディガンを羽織っている。
この二人を見て彩乃さんには、僕の思う女の特性を感じた。
『類は友を呼ぶ』とも意味は違う気もするが、男が友達をつくるならば、真面目な奴は、真面目な友達を。見た目を意識した奴はファッションセンスの良い友達を選ぶ。
お洒落だと思う奴、顔が二枚目だと思う奴と友達になり、地味で不細工な奴が友達だと、自分の価値まで下がるような気がしてしまう。
しかし、僕が知るかぎりでは、美人という生き物が美人の集団で群れているところなど見たことが無い。外見が自分よりも劣っている女性を連れて歩くことで、自分を引き立てているように見えてしまう。
そして美人の友達になった者は、その女といることで自分のマイナスをカバーしているのだろうか。
彩乃さんは流行りのファッションをするような女性ではないが、誰が見ても美人だと思うから、この二人もきっと引き立て役なのだろう。
「ねぇ、折角だから一緒にご飯食べようよ。」
彩乃さんの誘いを受けると、崇は照れ臭そうに「嫌だよ、彰、行こうぜ。」と言って、逃げるようにその場を離れた。
「彰君、またね。」
僕が頭を下げると、彩乃さんと眼鏡の女は微笑みながら手を振っていたが、もう一人の女はケヤキ並木に目を向けていた。
一夜明けた朝、僕はいつものように通学電車に乗った。JR京浜東北線で、赤羽から蒲田まで向かう僕は、通勤ラッシュの満員電車で約四十分の時間を過ごす。
私鉄と乗り換えのある駅に着くと、それは最悪だ。たたでさえ混んでいた車両には倍に増えたと思うくらいの人が乗ってきて、車内はすし詰めになる。
綺麗なお姉さんと押し合うのであれば、洗いたてのような髪の匂いに僅かな喜びを感じるが、中年男性と向き合うのは最悪だ。汗と整髪料の匂いが、三十年後の自分を絶望に突き落とす。
僕には、この車両で座席に座れるなど、よほど強運の持ち主だと思えた。
そんなことを考えているうちに、電車は東十条、王子、上中里の三駅を停発車して、田端駅に着く。ここで山手線に乗り換える為に大勢の人が下りる。
鍵の開いた牢獄から一斉に脱走する囚人達のように人が出ていくと、向かい側のプラットホームを背景にして、昨日、彩乃さんと一緒にいた女の姿が見えた。
紺色のブレザーに、灰色のスカート。首元に蝶ネクタイを付けた彼女は、普段であれば気にも掛けないほど地味な女子高校生だが、バサバサに傷んだ髪を見れば、誰だか直ぐに分かった。
顔を見て僕が思わず、「あ……」と声を出すと、彼女は何も言わずに、ぽかんと口を開けて僕を見たが、目が合うと口を閉じて視線を逸らした。
そんな彼女を、後ろから乗り込んでくる乗客の群れが僕の体に押し寄せた。頭一つ分くらい低い背丈の彼女の頬が僕の二の腕に当たると、彼女は気まずそうにして顔を横に向けた。
彩乃さんと同じ高校の制服を着ているから、学校の友達か後輩なのは分かった。それならば挨拶くらいはするのが礼儀。ましてやこの至近距離で、面識がある人間と無言で過ごすのも気が引ける。
「どうも。」と声を掛けると、彼女は目も合わせようとせずに、口から洩れたような声量で「どうも……」と言っていた。折角気を遣って声を掛けたのに、感じの悪い返答だ。
「君も音楽科の高校に通っているの?」
彩乃さんは、上野にある高校の音楽科へ通っているのを知っていたから、とりあえず社交辞令のような会話で切り出すと、彼女は小さく首を傾げて、「そうですけど……あと、その、多分ですけど、私、あなたの一つ年上ですから、女だからって立場を低く見るの、やめてもらえますか。」と言ってきた。
よくも初めての会話で、そんな返答ができるもんだと驚いた。
普段なら癇に障る態度だが、今は呆気にとられてしまい、無意識に「すみません……」と、言葉が出るだけ。
このまま会話を続ける必要もなかったのだが、横柄な奴と思われるのは癪なので、「でも凄いですね、音楽科なんて。僕なんて普通科だから、何の取り柄もないですよ。」と、次の会話を切り出したら、彼女は「普通?」と言いながら、また首を傾げた。
「何の取り柄もないのが普通なんですか?」
「あ、いや……そういう訳じゃないけど。ほら、特殊なことはやらないから。」
彼女との会話に戸惑っていると、今度は「特殊?」と言いながら、その言葉にも首を傾げている。
「ほら、普通科って国語とか、英語とか、普通の授業ばっかりだから。」
癇に障ることを言ったつもりは全くなかったが、僕の言うことは気に食わないのが表情を見て分かる。
「それが普通。へぇ……私にとっては音楽を演奏することも、聴くことも、普通だと思うけど。」
彼女はそう言いながら、イヤホンを付けて音楽を聴いている男性の姿を見ると、人混みに押し出されながら、上野駅で降りて行った。
僕は、しばらく唖然としていたが、時間が経つと頭の中を針でつつかれるように、チクチクと苛立ちが募った。
たかが一つ年上なだけで女に子供扱いされるのは、男として癪に障る。それに、あの上から目線の態度は、それだけでも自分のことを人よりも特殊だと思っている証拠だ。
『それが普通。へぇ……』なんて言っているあの女の顔を思い出すと、蟀谷のあたりで脈打ちが速くなるのを感じた。
学校に着くと、僕はすぐさまに苛立ちを崇に当て付けた。
「おい、何なんだよ、あの女!」
「あの女?」
「あのモップみたいな髪の毛の女だよ!」
崇は口を開けてきょとんとした顔をしていたが、誰のことか検討が付くと腹を抱えて笑い出した。
「ハハハ、カナコさんのことか。モップ……そりゃぁ、いいや。」
崇の大笑いが止むと、彼女は誰なのかを訊いた。
相原奏子と言う名前。彩乃さんと同級生で、学校ではピアノを専攻していること。崇の家に遊びに来ることもあり、その時は特に変わった様子もないこと。
ちなみに彼氏はいないよと崇から聞いて僕は、「そりゃあ、そうだろ。」と応えた。
「あ、そうだ。今週の土曜日、姉貴の学校、学園祭なんだよ。一緒に行こうぜ。」
僕は、崇からの誘いに気乗しないのを溜め息を吐いて示す。
「姉貴の友達はいまいちなんだけど、お嬢様みたいな女の子もいいぜ。目の保養になるからよ。」
チャラチャラとした言い方であったが、崇もそのような音楽に詳しいのは知っていた。
崇の家は両親共に教師で、音楽に携わっている。父親は中学校の国語教師だが、吹奏楽部の顧問。母親も中学校の音楽教師。
崇と僕は高校に入ってからの付き合いだが、中学一年まではピアノを習っていたことを聞いたことがある。彼はその話をすると、恥ずかしい過去の話だと嫌がる。まあ、僕も男がピアノを弾けるのを格好いいと思えるのは、ウイスキーをロックで飲むジャズバーにでも行くようになったらだと思う。
崇は今、軽音部に所属してベースを弾いている。中学の頃に弾き始めると、母親はピアノを弾けと煩かったらしい。
翌日、翌々日と、僕は田端駅で彼女を見かけたが、声を掛けなかった。相性の悪い人間と距離を縮めることは、穴のない針に糸を通そうとすることと同じに思えたからだ。
木曜日は彼女がいつもと車両を変えて乗るのを見付けた。金曜日は姿すら見かけなかった。
土曜日の午後、渋々であったが崇と上野駅で待ち合わせた。
『北の玄関口』と言われた駅は、中央改札を出ると高い天井に列車の停発車を知らせるう案内放送、自動改札から鳴る電子音、ざわめく人々の声が響いている。
駅から出て目の前に見えるデパートの入り口で待ち合わせると、十分ほど待たされて崇が来た。白地のシャツを着て、インディゴブルーのジーンズに、サンスエードのワラビーを履いている。これは彼なりに正装のつもりなのだろう。
そんな僕も音楽学校の学園祭というから、ベージュ色のニットセーターに細身のパンツと、落ち着いた雰囲気の服装を意識した。
崇はニコニコと笑いながら、ガムをクチャクチャと噛んでいる。僕はその音を隣で聞きながら目的地まで歩いた。
彩乃さんが通う高校に辿り着くと、芸術的な分野に重きを置いていることが、門構えから伝わった。
「あの、ピアノの演奏ってどこでやってますか?」
崇が校門の前で立ち話をしていた三人組の女子高生に訊ねると、「あぁ、それなら、メモリアルホールで行われますよ。」と応えるのを聞いて、渋い顔をしている。
「やっべ、間に合うかな……」
何に慌てているのか分からないが、急ぎ足になる崇について歩くと、女子高の学園祭に来たはずの僕が連れてこられたのは、コンサートホールだった。
「おい、ちょっと……学園祭に来たんだろ?」
崇に訊くと、「そうだよ。」と言って、何の変哲もない様子だが、僕がイメージするような学生が法被を着て、焼きそばだの、フランクフルトだの、あっちの広場でバンドの演奏をしているなどの様子はない。
来客の服装だって、制服自慢の男子高生がズボンを腰で履いている姿や、ダボついた洋服にキャップを被っている人影などはなく、学校案内のパンフレットでモデルになりそうな制服姿の高校生達や、結婚式か何かのパーティーかに参加するような服装の大人達ばかり。
僕は、自分と崇の服装を見て、中途半端に綺麗に見せようとしているが余計に恥ずかしくなった。
「おい、帰ろうぜ……こんなの聴いたことないし。」
慌てた僕の様子を見て崇は笑いながら、「駄目だよ、姉貴に行くって言っちまったもん。」と言って歩き出すが、僕は崇の腕を掴んで引き止めた。
「ほら、それに金持ってないし。」
「金?」崇は不思議そうに首を傾げながら、僕を見ている。
「ほら、こういうのって、高いんだろ?今、三千円くらいしか持ってないよ。」
すると、崇はまた笑って、「大丈夫、タダだよ、タダ。」と言いながら歩き出した。
受付には、多分、僕と同じ高校生なのだろう。落ち着いた様子で「ありがとうございます。」と、会釈をする女の子が二人いる。
僕は一週間前にあった自分達の学園祭を思い出した。僕と言えば……黒いマントを羽織り、口元に血のりを付けてお化け屋敷の受付をしていた……そんな自分を思い出すと、顔から火が出る気持ちなった。
崇は噛んでいたガムをティッシュに吐き出してポケットに仕舞うと、受付の女の子に向かってニコリと笑っていた。
「すみません、原田彩乃の家族です。」
崇につられて僕も会釈をすると、女の子は「ありがとうございます。」と言いながら、プログラムの印刷された紙を僕達に手渡した。
ロビーを歩く僕達を、周囲は冷ややかな目で見ている気がしてならない。
エントランスからホールへ移る重い扉を開けると、僕は高い天井を見上げて驚いたが、崇は場の空気に慣れた様子であり、何かを探しているのかキョロキョロと辺りを見回している。
「駄目だな、来るの遅かったから、前の方しか空いてねぇや。」
「駄目なのか?」
「ロックバンドのコンサートなら超特等席だけど、こういう時は駄目なんだよ。音がもろに聴こえちまうから。」
そんなことを言ったら、イヤホンで音楽を聴くのはどんなことか……と、僕にはさっぱり意味が分からなかった。
「ま、いいか。別にプロオケのコンサートでもねぇし。」
崇が独り言をつぶやきながら最前列の席に座ると、僕も隣に腰掛けた。
椅子は決して座り心地が良いとは言えなかった。舞台には大きなピアノが一台、どっしりと構えて置いてある。
他の来客が背筋を伸ばして座っている中、崇はハンモックに寝そべるような姿勢で、足を組んで座っている。こういう場が初めての僕にも、これはマナーがなっていないことは分かった。
僕は周囲の素振り真似て背筋を伸ばし、興味のないプログラムに目をやった。十二組の出演順と演奏曲が書いていて、バイオリン演奏、チェロ演奏、フルート演奏と書いている。ピアノ演奏には、彩乃さんと、あの相原奏子という女の名前が書いてあった。
「相原奏子……」
僕が呟くと、崇はだらしない姿勢のまま、「あぁ、奏子さん、ピアノ上手いんだぜ。よかったなぁ姉貴、奏子さんの前で。あの人の後だったら、場の空気に負けて弾けねぇよ。」と、かなり彼女のことを持ち上げて話している。
会場の証明がゆっくりと落とされて辺りが薄暗くなると、スポットライトが舞台に向けられた。
上品にドレスアップした女性がバイオリンを持ってステージの袖から出てくると、気立ての良い拍手の音がホールに鳴り響いている。続いてもう一人女性が表れると、客席にお辞儀をしてピアノ椅子に座った。
舞台の真向かいにいるものだから、バイオリンの女性が真剣な面持ちになるのが良くわかる。
演奏が始まると、崇の言っていた音がもろに聴こえるの意味は分からないが、目の前で演奏を聴くのは、こちらも緊張してしまう。
そもそも何の曲なのかも分からないから、この空気をどう過ごせばよいのかに戸惑った。寝てしまうには、あまりにも無礼な席だ。
隣の崇は相変わらずの恰好で、口元に無意味な動きをさせながら視線を演奏者に向けている。
ピアノを伴奏にして、『どうぞお眠り下さい。』と言わんばかりに緩やかに鳴り響くバイオリンの音は、一体何という曲だろう……と思いながらプログラムを見ると、《眠れる森の美女より『いつか夢で』》と書いてある。
彼女の思考では、学園祭に来る観客に合わせたポピュラーミュージックを選んだつもりなのだろう……しかし、僕には題名に相応しい子守歌にしか聴こえなが、とにかく眠気眼が閉じぬように、息を吸ったり吐いたりを繰り返して気を紛らわせた。
チェロの演奏もフルートの演奏も、僕にとっては退屈にすぎなかったが、彩乃さんが舞台に出てくると、知っている人を見ればそれだけで目が覚めた。
肩を見せた紺色のドレスを着て、すらりと背の高い姿が更に大人びて見える。目が合うと、彩乃さんは僕に向かってニコリと微笑んだ。
鍵盤に向かい一呼吸するのが見えると、そっと左手を鍵盤に添えている。それを、おしとやかな様子に見ていれば、ホールには相反した力強い音が鳴り響いた。
僕には、ただ無造作に鍵盤を押していると思うほど、テンポの速いメロディーが流れている。何という曲なのか気になってプログラムを見ると、《幻想即興曲・フレデリック・ショパン》と書いてある。
音楽室以外でピアノの生演奏を聴くのも初めてだし、彩乃さんがピアノを弾く姿を見るのも初めてだ。
演奏が上手いのか、どうなのかも分からず、ただ、その雰囲気に圧倒されていると、嵐の中を駆け回るようなメロディーから変わり、雨上がりに迎えた朝を思わせる穏やかなメロディーに会場が包まれていた。
そんな雰囲気の中、僕は次のプログラムが気になった。
《英雄ポロネーズ・フレデリック・ショパン》と書いている。演奏者は相原奏子。
この曲と同じ作曲者だ。題名は聴いたこともない曲だが、崇は彩乃さんの演奏が相原奏子の前で良かったと言っていたから、同じ作曲家の曲を演奏していることが、僕には彩乃さんが奏子という女に対して、負けん気になっているように思えた。
彩乃さんがピアノを弾く指先が、音楽というよりも技の披露に見えた。だが、そんなことを考えているのは、きっと僕だけであり、演奏が終わると彩乃さん称える拍手の音が鳴り響いていた。
拍手が鳴りやむと彩乃さんは袖に引き下がり、続いて相原奏子が姿を見せた。
「あの子?凄いの。」
「そう、天才。」
振り返って顔を見ることはできないが、ヒソヒソと話している中年女性の声が聞こえる。隣の崇にも聞こえたのか、ニヤニヤと笑っている。
黒いドレス姿に、この前は結んであった髪が解かれていて、傷んでいると思っていた髪は、胸元まで下ろされたソバージュのロングヘア―になっている。
彼女は会場の観客に目を配ることはなく、真っ直ぐな眼差しのまま一礼すると、落ち着いた様子で、ピアノ椅子に腰を掛けた。何やら口ずさんでいる様子。鍵盤に指を添えると、彼女が勢いよく首を振るのを合図に、落雷のような重低音が客席に鳴り響いた。
ピアノを弾く手が鍵盤の上を軽やかに走り回っているようだが、指先は音に合わせて奇妙な動きを見せている。
客席に響く音が次第に大きくなり軽やかな曲調に変わると、それは僕も聴いたことのあるメロディーだった。
飛び跳ねるようなテンポのメロディーを聴いていると、僕はその音に引き込まれていた。彼女の顔を見ると、微笑みながら音に合わせて口ずさんでいる様子。
彩乃さんの演奏とは全く違うことが、素人の僕にも分かった。技術の違いが分かったというよりも、彩乃さんが弾くピアノは技の披露に見えたが、彼女の弾くピアノは指が鍵盤の上で遊んでいるようだ。
そして何よりも違うのは表情だ。彩乃さんはピアノを弾き出すと、とても険しい顔つきを見せていたが、相原奏子の表情は常に穏やかで、メロディーに合わせて揺れ動く仕草は、体全体で演奏を楽しんでいるのが伝わってくる。
こういう人たちには当たり前のことかもしれないが、楽譜など見ている様子がない。たまに天井を見上げているのが、彼女には音が形になって見えていて、宙に舞うのを眺めているように見える。その音は、僕の体にも入り込むように伝わっていた。
とにかく僕は圧倒されていた。何に圧倒されているのか分からないが、このような音楽の生演奏を初めて聴いたからではないだろう。
彩乃さんの演奏だって、その前の人達だって聴いたところで驚きもなかったが、この演奏だけに心が頷いた。このホールに響き渡っているはずの音が、僕だけに鳴り響いているようだ。そんな彼女の演奏は、芸術というよりも人の心を虜にする奇術に思えた。
演奏が終わると、拍手の音に紛れて、あちらこちらから、「ブラボー」と声が聞こえる。彼女は立ち上がり一礼すると、毅然とした態度で舞台袖に消えていった。
ピアノの演奏などまともに聴いたことのない僕でも、彼女が傑出した人間であるのが分かった。
彼女のピアノを聴いてから、僕の心はすっかりと音楽に馴染んでいて、その後のプログラムも興味を持って聴くことができた。
全ての演奏を聴き終えてロビーにいると、ドレス姿から制服に着替えた彩乃さんが、僕達の所へ駆け寄って来た。
「崇、丁度いい所にいた。ピアノ動かすの手伝って。」
崇は姉の言うことに渋い顔をするが、逆らいもせず、僕も彩乃さんに連れられてホールに戻った。
観客の立ち去ったコンサートホールは先程よりも広く感じて、人の熱気を失うと冷たい空気が頬に当たる。舞台上には彩乃さんと同じ制服を着た二人の女の子が立っていて、僕達を見ている。
「ごめん、ごめん、弟連れて来たから、さあ動かそう。」
女子二人は、唖然として崇を見ていた。それはそうだろう、弟だと言っても似つかぬほどに、崇は彩乃さんと系統の違う人間だ。
崇はコンサートホールよりも、クラブの方がお似合いの風貌だから、姉弟だと言われても鵜呑みにできないはず。
共通点と言えば、崇も、まぁ男前であるから、美男美女と言ったところだろう。
「この人、原田先輩の弟さんですか?」
「そう、こう見えても中学まではピアノやっていて、私よりも上手かったんだから。そうだ、弾いてみなさいよ。」
いやだ、いやだと言いながらも、崇は姉の圧力に負けてピアノの前に立つと、彩乃さんの顔を見ながら、「なんだよ、何を弾くんだよ……」と、嫌そうにしている。
「何でもいいわよ。ほら、早く。」
崇は鍵盤に指を添えると、流行りの歌謡曲のメロディーを単調に弾き始めた。
崇がピアノを弾いている姿を初めて見たから、僕には新鮮な光景であったが、彩乃さんは不服そうな顔をしながら、「ちょっと、ふざけないで、ちゃんとしなさいよ。」と、言っている。
崇は溜息を吐くと、堪忍したかと思えば弾き始めたのは《きらきら星》だった。
これは姉に対する崇の反抗だと思って焦ったが、彩乃さんの顔を見ると先程よりも納得した様子。僕には理解し難く思えていると、崇の指使いが速くなり、軽やかなテンポのきらきら星がホールに鳴り響いた。
僕が知っているきらきら星とは、ちょっと違うメロディーに驚いていると、彩乃さんが「子供の頃、よく弾いていたのよ。モーツアルトの《きらきら星変奏曲》」と言ったことで、崇が勝手にアレンジした曲ではないのが分かった。
「おい、もういいだろ。これ以上弾いてたらボロが出る。」
崇は中途半端な所で曲を止めて、彩乃さんに訴えかけている。
「なにがボロ出るよ、とっくにダメ。右手が走りすぎ。」
姉のダメ出しに、崇は不貞腐れているようであった。僕は彩乃さんの指摘することは分からないが、崇のピアノを聴いても奏子という女の演奏が頭から離れないのは、彼女が相当な腕前であるのを比較できた。
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