… 36



玄関には男性ものの靴が揃えられてあったので、どなたかが来ているのはすぐにわかった。


「おかえり」


手を洗ってリビングを覗くと、キッチンにいるママがにこやかに迎えてくれる。


「加世子ちゃーん」


続けざまに父、理眞と共にくつろいでいた男性に名前を呼ばれた。


「春さん! いらっしゃい」


北内俊春さん、パパのお気に入りの部下。歳は9コ上で、入社されてまだ1年目の頃から、ちょくちょくうちに来られている。なのでわたしが中学生の頃から知っていて、お年玉なんかも頂いたりして、大人の素敵なお兄さんという感じだ。始めこそ名字で呼んでいたのが、堅苦しいから名前で良いと言われ、何となく呼びやすいのでもう何年もそう呼ばせてもらっている。そんな風な事があっさりと出来る中学生のあどけなさってやっぱり何物にも変え難い。日曜日にいらっしゃる場合、ゴルフの帰りに寄られるという流れが多い中、今朝わたしがアルバイトに向かう時、パパは部屋に居たので、単に遊びに来られただけかなと推測していた。


「加世子が晩御飯いらないって言うから、僕が呼んだんだよ」


きっと一番最初に顔が浮かんだのは裕泰くんのはずだけれど、試験を1週間後に控えているので遠慮したのだろう。


「助かります。独り身の日曜の夜なんて淋しいもんですから」


「北内は仕事命だからな。真面目にやってくれるのは助かるけど、もう少しプライベートも大事にしろよ」


ずっとお付き合いをされていた彼女さんがいたのは知っているけれど、ここ2、3回会った中での言動から、どうもお別れしたっぽい。


「まだお若いから。色々考えがおありなのでしょうね」


お茶を入れながらママが柔和な雰囲気を作り出す。


「加世子、これ、お出ししてくれる?」


二人の前にお茶とお菓子を置いて、ママとわたしも加わり、大学の話とかママの習い事の話をする。パパ達が家で仕事の話をするのはあまり聞いたことがない。もちろん明日も朝早くから仕事なので、1時間も経たない内に春さんは解放されて、家の中は人が帰った後の、あの急に静まりかえる感じになり、パパは部屋へ、ママは片付け、わたしは明日の準備に取りかかった。




土曜日、予備試験前日。裕泰くんとは電話で少し話をした。体調は悪くないようなので安心する。要領が良いのもあるかも知れないけれど、ここまでの本人の努力は大きなものだったと思うので、普段通りに落ち着けば実力は発揮できるはずだし、頑張って欲しい。試験日の夜はお友達と食べに行く約束を大分と前からしていたようなので、我が家で開催するお疲れさま会は、翌週の日曜日に行われた。


「裕泰くん、お疲れさま」


自分が早く飲みたいのか二人でグラスを合わせた後、パパは早速ビールをグッと飲み干す。


「勝功さんも来れば良かったのにね」


「……付き合いの多い人なので」


「仕事柄仕方ないか……。ところで試験の手応えはどうだった?」


「まあまあだと思います」


「まあまあって言えるって事は、それなりに自信あるな?」


「いやぁ……結果はわからないですけど……。勉強はしてきましたから。……もし受かったとしてもこれで終わりじゃないので何とも言えませんけど」


裕泰くんの言う通り、今回の試験をクリアしたとしても7月には論文式の試験があり、最終的には口述試験というのにも受からないといけない。現役大学生が1回の受験でパスするというのは、なかなか一筋縄では行かないように思える。


「弁護士になって、うちの顧問弁護士に加わってくれれば嬉しいんだけどな」


お酒が進んでどんどんと饒舌になる。


「弁護士になるとは決めてないから。ね?裕泰くん」


「あぁ……まぁ……」


「検事さんも良いし、公的な機関で働くのにも興味あるんだもんね?」


「そうなのか。二人でそんな話もしてるんだな」


ママが一生懸命に揚げてくれた天ぷらをたくさん食べて、お腹いっぱいそうにして話している。そして少し一服したパパは、


「……試験、ひと通り受かったら、婚約でもするか?」


と口走った。


「ちょっとパパ、何言い出してるのよ。わたしまだ二十歳にもなってないのに」


とうとう放たれたその一言に思わず語気が強まる。


「結婚とは言ってないだろ、婚約だよ」


「裕泰くんみたいな子は繋ぎ止めておかないと、油断してる間に他の人に持ってかれるぞ」


「な、ダメかな? 裕泰くん」


背もたれから身体を離し、両腕をテーブルに付けて前のめりになっている。


「ちょっとぉ」

 

左側から身を乗り出して、裕泰くんの目の前で広げた手をパパの視線を遮るようにして動かし、「気にしないで良いからね」と忠言する。


「理眞さん、飲みすぎかしら?」


「純香もそう思わないか?」


にこにこしながら、ママ特製の鯛茶漬けをパパと裕泰くんの前へ運び、


「どうなのかしらね?……ちょっと気が早いかな。裕泰くんだって、プレッシャーだわよね、そんな風に言われたら」


と軽く牽制球を投げかけた。


「さすがママだ」と胸を撫で下ろした後は、キッチンに戻るママを追って、腕に引っ付いて甘えた。


そして、わたしも大好きなママの鯛茶漬けをパパ達がリビングのソファへ移動して、簡単にテーブルの上を片付けてから、ママが座るのを待って一緒に食べる幸せを味わう。


 

下井家では日曜日慣例の二人だけの食事時間を終え、下井はスマホを眺めていた。



  何も連絡来ないな……



2週間前の河川敷で会った翌晩に、お礼のメールが加世子から来た際に2、3やり取りをしただけで、その後は音沙汰が無い。


一方寺田家では、夕方にサモサの散歩を終えているので、皆が22時近くまでゆっくり過ごして裕泰くんを見送った。


部屋に上がると暗闇で充電中のスマホの着信ランプを確認した、有陽ちゃんからだった。


 『明日バイト一緒だね♪よろしくね』


 『こちらこそ 楽しみ』


『元気にしてる?』たったこれだけを送るのも悩んだ末に止めた下井は、今日もスマホを横に置いた。






  それにしても驚いたな……


  わたしたちの事をそういう願望を持って

  見ているんだろうな、と何となく感づい

  てはいたけど、まさか本当に口にすると

  は思わなかった……



入浴中に夜ごはんの時の事を思い出し、自分の中の “結婚観” というものを模索しようとしたけれど、いくら考えても結局は、 “いつかはしたい” という、愚答しか導き出せないでいた。


この話に関して、翌日早速有陽に報告をする。聞かされた時、有陽が最初に思ったのは、



  婚約をしてくれた方が私は嬉しいかも知

  れない……



という事だった。


加世子と下井との関係が、これ以上深まらなければ良いのにという密かな感情は、有陽自身も気がつかない程に、常に心の何処かに住み着いている。


「本当に彼氏さんとの結婚って、思い描いたりしないの?」


「んー……そこまでは無いなぁ。自分の事で精一杯だし、やっと大学生するのも慣れたくらいなのに」


「好きは好き?」


どさくさ紛れというか、加世子の本心を聞きたくなって間髪置かずに問いかける。


「……好き…………かな」


ストレートに聞かれて、相手が有陽ちゃんだし、嘘はつきたくない一心で、間を開けてしまった。


「今、ちょっと考えた?」


「好き」という気持ちに間違いはないのだけれど、どこか言い切れない心のモヤモヤがあるのも確かなところだ。


「……考えた」


少しふざけた顔をして有陽ちゃんを見つめる。


一緒にいて楽しいし、もちろん嫌いなんかじゃない。なのに、「好き!いつかは裕泰くんと結婚したい!」と語れないのは、わたしの素直さが不足しているのかなと、帰り道々考え込んでいた。




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