… 26


小山田晶は、すぐには動かなかった。この貴重な映像は、いざという時に使えるよう計画的に温存して、当分は手元に置いておこうと決めていた。裕泰からの連絡がぱったり途絶えた後も初めの頃こそは1日に何度もメールを送っていたが、今ではそれも止め、変わらず抱く裕泰への想いを封印して、ものわかりの良い女性になったと錯覚を起こさせるため、今だけ気持ちをよそに向け、我慢を重ねていた。





「圧力かけて!」


普段は冷静沈着、もの静かな先生が、指導中急にスイッチが入ったように熱くなる時がある。「音を大きく!」と言われる事もあったりして、いまいちその違いがよくわかっていない。もらったお年玉でバイオリンの弦を変えようかと前々から思っていて、パパも援助してくれると言うので4本とも変えて、ちょっと重みが出たというか少し指先の触れる感覚が違った風に感じている。


長期のお休みに突入する前まで、10日程触っていないとやっぱり手の動きに鈍った感がある。練習後は先生とママとでティータイムを楽しむことが多い。先生は言葉数は少ないけれど、フィナンシェの袋をうまく開けられなかったり、紅茶に砂糖を入れる仕草が特徴的で滑稽というか、それに眼鏡が湯気で曇ってから外すいつものパターンも、年上ながら面白くて思わず笑ってしまいママに怒られる、というお決まりの流れも結構気に入っていて、先生といる時間は好きで楽しい。この日は先生が帰られた後、2時間位ずっと練習をして、首元と肩が凝ってきたので夕食までの間に運動がてらサモサの散歩へ出掛けた。


試験が終わって早1週間、肩の力が抜けた頃、週末にはもうバレンタインデーが迫っている。去年は一人でチョコを作って裕泰くんとパパと、たまたま家に立ち寄られた笹本さんに食べてもらった。笹本さんはパパの知り合いで、サモサを譲渡して下さった方だ。





 「加世子はやっぱり彼氏さんに渡すんだよね、チョコ」


「そうだね……。どうして?」


「ううん……どんなのあげるのかなと思って」


有陽が探りたかったのは、もしかすると本命として下井に渡す可能性もあるのではないかという事だった。半日にも満たないとはいえ、あの日帰り旅行の後からは、以前より二人が親密になっているのを目の当たりにしていたからだ。

  

「今年はロールケーキを作ろうと思ってるの、チョコの。有陽ちゃんは誰かにあげる?」


「わたしかぁ……」


アイスのケースを閉める横顔が少し照れているように見えた。


「え?! もしかして好きな人、出来た?」


お節介度満載の顔をして、有陽をまじまじと見つめる加世子のキラキラとした無垢な目に、有陽は何も言えなくなる。下井が気にかけているのは加世子だと以前感じた直感をいまだに信じていて、何かある度にそれが頭の中をちらついていく。


「残念ながらそれは無いなぁ」


話題は義理チョコへと移り、そうなると自然と下井家の二人の名前が上がって、一緒に用意することにした。お菓子作りが好きな有陽ちゃんは手作りのものにしたいと話したので、前日に有陽ちゃんの家で作る約束をする。




「ここ、狭くて……」


12月にお邪魔出来ていなかったまま今日初めて伺う有陽ちゃんのお宅はキッチンだけが独立したタイプになっていて、小さなテーブルと椅子が一脚だけ壁際に置かれている。簡単な食事だとここで済ませることが多いらしい。


クッキー作りはお昼過ぎに始まった。と言ってもわたしがお邪魔した頃にはもう2種類の生地を捏ねるのが終わって寝かされている途中で、あとは型抜きをして絵を描いたり小さなお菓子を埋め込んだりする作業だけだった。焼き上がりまでの20分弱の間に有陽ちゃんは片付けを済まそうとしている。


「なんか勝手に進めちゃっててごめんね。面倒な分量を計る所を先にしておこうとしたら手が止まらなくなっちゃって……」


リビング兼有陽ちゃんママのお部屋のようにもなっているという隣室で待っていると、洗い物をしている有陽ちゃんの謝る声が聞こえてきた。


「全然良いよ。というか、その方が助かる」


工程を見てみたかったとは思うけれど、『わたしも始めから作りたかった』等とは絶対にならないので、もしかするとその辺りも有陽ちゃんなりに多少は考えた上でとった行動なのだと思う。


いよいよ焼き上がりが近づくと有陽ちゃんは慣れた様子でオーブンの中をじっと見ている。そして取り出すと、お皿に2枚乗せて触れられるまで冷めるのを待ってから、先に試食を勧めてくれたので、まずはノーマルなバター風味のもの、それからココアパウダーが混ぜられたものという順に食べてみる。


「ふわっとしてる。美味しい!」


「本当に? 今ふわっとしてたら完全に冷めた後はサクッとなって良いかも知れない」


そう言って有陽ちゃんも手にとって口にする。


箱詰めやラッピングは有陽ちゃん、そして明日のバレンタイン当日もアルバイトが休みのわたしは抜きで、手渡すのも有陽ちゃんにお願いをしている。




バレンタイン当日、午前中からロールケーキ作りに取りかかる。ボウルを用意したり小麦粉をふるいにかけたりという下準備は既に行われていて、わたしはまず卵黄と卵白を分ける、なんていう高度な技に、ママのお手本に続いて恐々と幾つか挑んでいく。


手を洗っている隙に、ママは卵白を泡立て始めていて、わたしは言われた通りオーブンを温める設定をし、泡立ての続きを任される。その後もママの指示通りに進み、生地を巻いていく所まで来ているけれど、わたしはミキサーやらゴムベラで、基本何かを混ぜていた記憶しか残っていない。


仕上げは殆ど任せっきりで、チョコクリームを伸ばす所は少しだけさせてもらい、冷蔵庫で冷やして完成となった。


「ママ、ありがとう……。でも来年はもういいや」


苦笑いをしているママの隣でもう少し残っていた道具を洗う。去年の、確か “チョコを溶かして生クリームを加えてまた固める” というだけの動きからはレベルアップしすぎて、疲れてしまった。パパが聞いていたら呆れると思うのでリビングに居なくて良かったと少しほっとする。


17時頃には裕泰くんが迎えに来てくれて、近くのカフェで軽食を取った後は、前から決めていた通り、二人で今日作ったチョコのロールケーキを食べに裕泰くんの家へ向かう。今日くらいはわたしがコーヒーを入れれば良いのにと自分でも思いながらも、結局は甘えてしまい裕泰くんだけが動いている。


「そう言えばクリスマス前にお粥作ってくれたよな。あの時はありがとな」


キッチンの方から声がする。裕泰くんが風邪を引いた日のことだ。とにかく炊飯器に感謝をして必死だったのを覚えている。


今年はプレゼント的な “物” はいらないとあらかじめ言われていたので、ロールケーキだけを出して早速箱を開けると、わたしは1度見ているんだけれど、やっぱり美味しそうに出来上がった見た目に感動していると、裕泰くんも「おぉ~」と小さく歓声を上げてくれる。


「想像がつくとは思うけど、わたしひとりじゃ絶対作れない。今日もママにいっぱい手伝ってもらったし」


「そうなんだ……」


軽く笑って、わたしに切るサイズを確認しながらナイフを入れて取り分けてくれている。行動がスムースでやっぱり格好良い人だと感じながら客観的に眺めていた。


「今年はチョコ何個貰った?」


いたずら半分に尋ねてみた。1年前は紙袋から幾つかはみ出して、車のシートの下に隠しきれていないのを見つけた記憶がある。当時裕泰くんは、何かと面倒だから周りに聞かれたら「彼女はいない」と答えていたせいだと説明をしていたけれど、どう考えても裕泰くんみたいな人を女子達は放っておくわけは無いとわかる。高校生の時から、裕泰くんが大学生になったら他に好きな人ができて、きっとわたしは振られる羽目になると陰で話す同級生もいたし、実際に、裕泰くんは自分に言い寄って来た人の中の数人と遊びに行ったりしていた事も、裕泰くんは気付いていないだろうけれど、噂とは怖いもので、嫌でもわたしの耳に届いていた。






「貰ってないよ、他には」



学校が休みだからかな……けどそれは去年だって同じだしな……嘘を言っているようには思えないけど……受け取ってないだけ……?



先に紅茶を飲みながら色んな事を考えている内にケーキは取り分けられ、きれいな断面が前に向けられている。


「先に食べてみて」


ちょこっとクリームを舐めたりしていたのでその味はわかるけれど、全体としては食べておらず、味が気になる。


「うん、美味しい」


頷きながら美味しそうに食べて、わたしにも勧めてくれたので口にしてみると、裕泰くん好みの甘すぎず、洋酒も少し効いていてなかなかの出来具合だと満足していた。そして恥ずかしいことに、わたしの方が食べる範囲が広くなっている状態に気付き、バツの悪い顔で裕泰くんを見る。


「付いてるよ、ここ」


微笑みながら裕泰くんは自分の口元を指差す。


「えっ、うそっ」


膝の上で抱えていたお皿を慌ててガラステーブルの上に置き直し、「こっち?」と聞きながら左手でぬぐおうとした時、裕泰くんの右手が瞬発的にわたしのその手を掴んで、左手は頭の後ろを支えるようにしながらパクっと付いていたケーキを食べた。


「ほら、取れた」


驚いたのと照れとで、はにかんだように笑い、下を向いて何秒か経っても、裕泰くんの気配をごく近い距離に感じる。視線を元に戻すと、裕泰くんの綺麗な顔がすぐ側で真っ直ぐわたしに向けられていて、少しの間見つめ合う。恥ずかしくなってきて瞬きの回数が増えると、自然に優しく裕泰くんはわたしにキスをし始めた。時々薄目を開けた時に見える裕泰くんの顔は以前とは違い随分と大人びた感じになっていて、わたしはその雰囲気に徐々に吸い込まれていく。裕泰くんがくれた長文メールの内容も脳裏に浮かび、裕泰くんの想いに応えたい気持ちが溢れ出してくる。その内に裕泰くんの右手はわたしのニットとキャミソールを捲り上げ、お腹にもキスをし始めたので、わたしが戸惑いを見せると、「あの人はこの時間には帰ってこないから」と言って照明を暗くして、わたしを少し引きずるようにしてソファへ寝かし、ニットを脱がせて髪を整えるように触れた後、身体全体を覆っていった。





その日の夜、裕泰くんに家まで送ってもらい、パパには市販のチョコレートを手渡して、ママと3人でそれぞれの味を言い合いながら楽しんだ。お風呂に入る前にスマホを触ろうとしたら、有陽ちゃんから無事に渡せたという報告メールが入っている。どんな風に箱に詰めてラッピングをしたかという画像付きで送ってきてくれていた。そのメールの数時間前の18時半くらいには、何かメールを打って削除された形跡があったので、少しそれが気になったものの、ママがまだお風呂に入っていないので、急いで次は裕泰くんにメッセージを流して携帯を置いた。


 『下井くんに本命チョコを渡しても良いかな…………どう思う?』


これが有陽が削除したメールだった。裕泰の前ではあまりスマホを触らない加世子が、そのメールに気付くことは無かった。


初めて会った時からずっと気になっていて、折に触れ下井と接触がある度に下井に対する関心は強まっていたが、どこかで自分の想いをセーブしてしまっている有陽がいた。昨日クッキーを焼いて加世子が帰った後は、渡すかどうか決めないままに、下井へのチョコレート作りに励んでいた。一応は家から持ち出し、自転車だと割れてしまったり中身がぐちゃぐちゃになるのが嫌だったので手にしっかりと握りアルバイト先までこの日は電車で通ったが、大事に運ばれてきたその渾身の想いが込められたチョコレートが下井の元へ渡ることは無かった。




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