コロラドのポラリス

Eika・M

コロラドのポラリス

「遅くなりそうかい」

 小さな守衛ボックスに座る大男がクロスワードパズルをしていた手を止めて視線をこちらに向けた。顔を覚えていたらしく彼の瞳には親しみがこめられていた。

「飛行機が遅れてしまってね」私は嘘をつき門衛に上目遣いをした。「できれば日が暮れたあとまで滞在したいのだけれど」それから冗談で「今日がおたくと奥さんとの結婚記念日じゃなければ良いのだが」と付け足した。

 門衛が大きな腹を揺らして笑った。「女房とは十年前に別れたよ。今はテネシーでウェイトレスをしていると聞いた」そして私が署名欄に記載するのを眺めて本当に日本人なのかと確認した。「いや日本人は冗談を言わないと思っていた。差別とかそういう意味じゃないよ。ここを訪れる日本人はみな無口で謙虚という印象があったものだから」

「私は日本では変わり者なんだ」

 また大きな腹が揺れた。

「勤務時間は何時まで」気を使ったつもりだ。

「あんたが帰るまでさ。なに心配はいらない。長居するのは一向にかまわんよ。家に帰ってもお袋と冷えたターキーサンドが待っているだけだから。実は俺も五年前に親爺を亡くしてね。遺族の気持ちはわかるつもりだ。それに今日のクロスワードはやたらと難しいんだ。あんた七文字の言葉で三文字目がL、五文字目がR、ヒントが『北を見上げて』には何が入ると思う」

「ふむ。地下室でじっくり考えてみるとしよう」

「期待してるぜ。エレベーターの脇にコートが掛けてある。持っていったらいい。人が多く出入りしていた頃には地下もそれなりに暖かったんだが最近めっきり減ってね」


 コロラド州の田舎町、牧草地が続く丘陵地帯を車で一時間走ると忽然とフェンスに囲まれたT社敷地が現れる。門衛から許可証を受け取って道なりに歩いてゆく。やがて巨大なかまぼこ型倉庫の手前に にわか作りの小屋が見えてくる。小屋にあるのは簡単なエレベーターと階段のみだ。そのエレベーターか階段で地下五十メートルまで降りるとただ『研究室』とだけ呼ばれている部屋が眼前に拡がった。目的の場所だ。アメリカンフットボールができる面積に申し訳程度の照明が並んでいる。暗くて奥の方まで見渡すことができず、ひょっとするとこの空間には果てなど無いのではないかとさえ思えてくる。この広い地下室に実行犯を含めた乗客一三二名が安置されていた。眼が慣れてくると白い筒状のカプセルがまるでギリシャ神殿の柱みたいに奥の方まで続いているのがわかってくる。北極の棺。誰が言い始めたかは知らないが確かにそれは事実上の棺桶だった。特殊合金の棺桶から冷気が漏れて足元に漂っている。見間違いだろうか。それとも偶然そういった現象が起きる条件がこの研究室で整っていたのだろうか。照明の下の霧溜まりに私は物理の観測で使用される霧箱と同じ現象を見た。白煙を切り裂く軌跡。眼に見えないほどに小さな流れ星。

 コートのボタンを上まで留めると視界の届かない最奥に向かって踏み出した。カプセルには一つひとつ赤いペンキでナンバーが付けられている。104。96。88。減ってゆく数字を頭の中で数えてゆく。途中で何かを踏んで足を滑らせそうになる。眼を凝らすと長さの異なるロウソクが二本転がっていた。目の前のカプセルの遺族が簡易的な儀式を行ったのだ。私は倒れたロウソクを極低温の棺の脇に置き、再び妻のカプセルに向かって歩き始めた。


 冷たい繭に包まれた一三二体の亡骸。それらが今世紀中に蘇生されるとは誰ひとり期待してはいなかった。悲しみの沼から這い出せない遺族でさえもだ。ゴシップ記事はこのプロジェクトをT社会長の狂想曲と揶揄した。私も概ねその意見に賛成だった。T社会長は己の持つ唯一の武器、つまり金を乱射することによって拭えない喪失感から目を逸らしているに過ぎなかった。このひとりの成功者の暴走により遺族全員が振り回されているのが現在の状況だ。だがしかし。そうだとしても。そうだとしてもだ。万が一にも望みがあるのなら。こうした諦めとすがる思いとの間を行ったり来たりしながら我々遺族は終わらない狂想曲を会長と共に踊り続けている。


 012。011。010。最奥の壁に投影された己の影に追い抜かされる。008の前で足が止まった。妻の墓標だ。この数字からも妻の身体が比較的優先的に処置されたことが理解できる。会長の孫娘と似た背格好だった為に医者が検体に適すと判断したのだ。数字の下にはローマ字で名前と生年月日、それに国籍が記されていた。妻の名前はMIKAではない。MITSUKAだ。去年も一昨年もそのことを指摘して、その都度企業側は直すと回答し、そしてまた今年も訂正されずにいた。このままでは妻の名は永遠に間違って記憶されてしまう。

 カプセル内の温度を一定に保つための装置が微かなモーター音を発し始めた。それだけが唯一鼓膜を刺激する音。これといった匂いもなく時間でさえここでは半分止まっていた。私は長めの息を吐くと、まるで透視能力でも備わっているかのように妻の誤植のあたりをじっと眺めた。心を静め。穏やかな気持ちで。


 事件が起きてからしばらくの間は昼となく夜となくひっきりなしに冷たい墓地に人が訪れていた。地上にあがれば報道陣がロッキー山脈のごとくフェンスの外に溢れていた。当時は遺族も記者団も宿泊施設の確保に苦労させられていた。なんせ一番近くのモーテルでさえ車で一時間飛ばした場所だったのだ。遺族のなかで会社の敷地内にテントを張らせてもらえないかと相談した者もいたが軍事機密に関わる研究が多いという理由で断られた。私も一度デンバーの空港に戻ってエイビスでキャンピングカーに借り直し、CVSファーマシーで飲料水と食料品を買い溜めしたのを覚えている。車は近くの牧草地に一日五ドルで駐車させてもらった。私の他にもたくさんの車がそこを駐車場とした。当時牧場主は降って湧いた儲け話に笑いが止まらずにいた。こうしてテロの余波によりコロラドの僻地が一躍世界中から注目されることとなった。私は波打つ遺族の集りから妻と最期を共にしたであろうベッドメイクの家族を探し歩いた。三日後に出会えた時には互いに探し求めていた為にかえって擦れ違いになっていたことを知った。彼女の両親は大切に握っていた写真を私に見せた。若いベッドメイクは事件の翌年にはハワイ大学に入学する予定だったという。両親に謝罪しようと頭をさげると慌てて彼等は私を制止した。むしろ誘ったのは娘のほうだと。付け加えるならば家族の古くからの友人、あの時便宜を図ってくれたホテルの副支配人もたいへん心を痛めていると父親は告げた。両親の寛容さに触れた私の頬に気付かず涙がつたった。相手もハンカチで眼を抑えていた。私達はまるで昔からの友人のように抱き合い肩を叩き合った。


 報道陣の興味がテロからウォール街の株価暴落へと移り建国以来の騒ぎが沈静化してしまうと、コロラドに残った遺族の間に懐疑的な意見が目立つようになっていった。本当に家族が蘇生される日は来るのだろうか。

 エレベーターで一緒になったハワイ在住日系アメリカ人という老紳士はたどたどしい日本語で私の耳元にこう囁いた。

「あんな雑な処置でボディが五年もつと思うかね」

 私は微かにかぶりを振り「わかりません」とやはりくぐもった声で答えた。

 エレベーター内で日本語を解せたのは私と老紳士のふたりだけで、隣で見上げていた夫人でさえ挨拶程度にしか日本語を理解できなかった。だのにその場に居合わせた全員が会話の内容を把握したかのように重い空気で四角い箱が満たされた。

 また別の日には小屋の入口で白人夫妻が遺族に署名を求めているところに出くわした。彼等は二一歳と一九歳の姉妹を失ったという。

「いい加減馬鹿げた遺体安置にノーと言いましょう。家族を我々のもとに返してもらうのです」銀髪の紳士は返事の隙も与えずバインダーとペンを差し出した。「私達夫婦はサンフランシスコからこの地に引っ越してきました。妻が娘達のそばにいてやりたいと言ったものですから。私も妻に同感です。我々の願いは遺体を引き取って西海岸に戻ることです。そしてもとの家に帰り娘達を海の見える墓地に埋葬してあげたい」

 ペンを弄びながら私は言葉を選んだ。「お気持ちはわかります。できれば私も妻を日本に帰したい。ですが解凍すれば細菌が活動を再開すると企業は主張していますが」

「あなたはそのデマを信じるのですか。企業側はあれの孫娘を救うために我々の家族をモルモットにするつもりです。同じ人権を持った市民だというのに。だいたい諸機関の検証が済んだら家族の意思を尊重して遺体を返してくれるというのが最初の約束だったじゃないですか」

 私は夫妻に考える時間がほしいと伝え連絡先を交換した。連絡先には覚えがあった。事件間もなくまだ情報が錯綜していた頃、特にアメリカ人以外は蚊帳の外にされがちだった時期に外国人遺族に緊急ビザを発給するよう尽力をつくしてくれたのはこの夫妻だった。私はあらためてその時のことを話題にし礼を述べた。

 それから三週間牧草地でビーフジャーキーとキャンベルスープを食べる生活が続いた。しかし結局新たな動きは何も無く私はついに帰国することを決意した。


  翌年から私は妻の命日、つまりテロが起きた日よりもずっと早い時期にアメリカに赴き、誰にも邪魔されず妻のカプセルと過ごすようになった。上司は「誕生日を奥さんと過ごしたいのだろう」と余計な詮索をしたが人混みにうんざりしていたというのが本音だった。この頃になると遺族会は遺体の返還を求める派と盲目的に企業のやりかたに従おうとする派が牽制し合うようになっていた。一方日本では既存の遺族会とは別個の日本人遺族会なるものが発足したが活動内容はさっぱり見えてこなかった。またここにきて各国政府は死の定義をどのように定めるかの課題を突き付けられることとなった。ある国ではテロ犠牲者は一度死亡したとされ、蘇生された場合にはあらためて出生届を受け取るという決議がなされた。またある国では犠牲者は生きていると解釈され百歳でも二百歳でもカウントしていくと明言された。死の線引きはとても難しい。例えば分子レベルで肉体が崩壊してしまえばそれはもう生命として存在していないのは明らかだ。だが医者が死亡を確認した後でさえまだ細胞レベルでは活動を維持している部分があるのも事実。死は点から点へのジャンプではなくグラデーションなのだ。とてもじゃないが私に医師は務まりそうにない。人の死をここからここまでなんて決められやしない。線引きする覚悟も勇気も私にはない。


 ふいに寒気を感じてコートの襟を立てる。軍用の重いコートのおかげで体温が内側に封じ込められているのが感じられる。目の前の妻の入ったカプセルは相変わらず何の変化も見せようとはしなかった。時々漏れた冷気が霧となってあたりを漂うのみ。それでも私は飽きることなく白く冷たい蛹を見守り続けた。


 何度目のデートだったかはっきりとは思い出せない。私は背伸びしてレンタカーを借り星空が綺麗だと評判の県境まで彼女をドライブに誘った。車はマツダの真っ赤なオープンカーだった。途中スピード違反でキップを切られ、立ち寄ったファミレスではふたりとも注文したものとは違う料理がテーブルに届いた。私は緊張から腹痛を起こし、助手席の彼女は五分ごとにスマホをいじっていた。会話が途切れると彼女は曲に合わせて鼻歌を唄った。

 噂の駐車場はすでに先客でいっぱいだった。期待したロマンチックな光景は欠片もない。それでも彼女はせっかく借りたのだからと車のフードを開けるよう私にせがんだ。その日良いところがひとつも無かった私は捨て鉢になって乱暴に車の屋根をのけた。次の瞬間、ツーシーターの頭上に天の川が広がった。一瞬だけふたりの周囲に静寂が訪れたような気がした。その静寂を壊したのは彼女のいつもの科白だ。いつのまにか口癖と化してしまったあの言葉。

「これで年下じゃなければなあ」

 彼女は私よりふたつ年上だった。私にとってそれは些細な事。まして精神年齢では私のほうがずっと上という確信があった。しかし彼女からしてみればこれは見過ごすことのできない重大案件だった。

「二歳は大きい」

「いや一歳差だ。たったいま日付が変わった」

「あ、そうか。お誕生日おめでとう」

「ありがとう」

「でもそれでもまだ年下なんだよねえ」

「わかった。じゃあ、努力するよ」

「え」

「年上になれるよう努力する」

 彼女が笑った。その日初めて見せた白い歯だった。彼女が助手席で笑うのをよそに私は大真面目に頭の中で戦略を練った。年上になることは理論上不可能ではない。彼女をロケットに押し込んで亜光速で宇宙へ放り出す。頃合いを見計らって地球に呼び戻せばウラシマ効果で私のほうが二歳上。サンキュー、アインシュタイン。

笑い疲れた彼女がぬるくなったカフェモカをストローで吸い、それから声音を変えて呟いた。

「いいわ。もしあたしの歳を超えることができたら何でも好きな望みを叶えてあげる」

「望み」

「そう。ああ、でも叶えるのは流れ星のほう。一緒にお願いしよう。ほら早く手を合わせるの」

「見えるかな」

「降ってきて。お願い」

 彼女は確かに見えたと主張した。だが私には見えなかった。間違いを認めない意地っ張りなのが彼女の悪いところ。その時も北を見上げた視線の先、明るく輝く星、北極星を見間違えただけなのではと今でも私は疑っている。もちろん時には私のほうが間違っていて彼女のほうが正しいというケースもあるにはあるのだが。いずれにせよ彼女はあの夜流れ星に願い事をしなかったと打ち明けた。隣の困り顔の彼が本当に奇跡を必要とするその時まで持ち越して欲しい。そう彼女は星に祈った。星の願いがキープできるとは知らなかった。


 その後も彼女は私の誕生日を迎えるごとに「歳がひとつに近づいた」とロウソクの火の向こうで白い歯を見せ、それから三か月後には決まって「ああ、また二歳も年上になった」と溜息でロウソクの火を吹き消すのだった。私としても依然JAXAのロケットを強奪できずにいたし、タイムマシン実現のニュースも耳にしていなかった。まあそれでもミツカは結局私の願いを受け入れたのだが。


 何が原因かなんて覚えちゃいない。たぶん思い出すことすらできないほど些細な出来事だったのだ。とにかく私達夫婦は新婚旅行先のハワイのホテルで大喧嘩を始めた。隣の宿泊客が驚いてスタッフを呼んだくらいだ。妻は泣きながら若いベッドメイクに連れられて部屋を出ていき、残った少年みたいなポーターと副支配人が私をベッドに座らせた。副支配人はやたらと机の抽斗を開けてみろと勧めたが私は取り合わず無宗教だと断った。副支配人がやれやれと私の横に腰を降ろすのをベッドの沈みで感じとった。

「なあ兄弟、ここからはホテルマンとしてじゃなく地元の元漁師として話をするぜ。言っとくがあんたは悪くない。もちろんあんたのワイフも悪くない。ただオアフの風があんたらに嫉妬したのさ。ここらではよくあること。この辺の潮風はたまに悪戯をする。俺は伊達に新婚夫婦を見続けてきた訳じゃない。請け負うよ。あんたらは最高のパートナーだ。だからこそ風に目を付けられたのさ」

 少年みたいなポーターが妻と先程のベッドメイクとでナイトクルーズに参加したがっているとの報告を入れた。副支配人はそれは良いと頷き、何も心配いらないと私を説得した。料金は新婚祝いとしてホテル側が持つし同行するベッドメイクは地元の娘でしっかりしている。クルーズはただ他の島を巡って帰ってくるだけ。デッキには酒もあるし音楽もかかっている。大声を出して憂さ晴らしするにはうってつけだ。副支配人はポーターを先に帰すと「あんたもバーで一杯やってくればいいさ。気分が良くなった頃には奥さんも笑顔で帰ってくる」と背中を押した。


 妻からメッセージが届いたのは五本目のコナビールを空けた時だった。『遅くなってゴメン。ホテルの女性と一緒だから心配しないで。あたしはあなたに甘えてしまう。どうしても甘えてしまう。年上なんだけど歯止めがきかないの。それはあなたのせい。さっき船の上を流れ星が横切ったよ。あなたの為に祈ったの。どうか今の分をキープしておいてください。主人が本当に願いを叶えてもらいたい夜にどうかもう一度現れて彼の望みを聞いてあげてくださいって』

 私はどう返信したらいいものか悩み、ばつが悪いのもあってそのまま何もせずスマホをポケットに捻じ込んだ。次の瞬間店のドアが音をたてて開き血相を変えたポーターが私を探した。


「ポラリス」

 守衛ボックスを訪れた際にサインした署名欄、その横に退出を意味するチェックを入れて私は門衛に告げた。門衛は今更遅いよという笑みを浮かべて新聞紙を掲げた。

「今日の答えはT、I、M、E、T、R、I、P。タイムトリップだ」

「すっきりしたみたいだな」

「ああ。すっきりした。これが終わらないと寝付きが悪いんだ」

「遅くなってすまなかった」

「気にすることはない。充実した時間を過ごせたよ。あと数か月経てばまた此処もごった返す。それはそれで気苦労も多いんだぜ。ところでこの時間だと夕飯は高速沿いのダイナーで食べるかガソリンスタンドでスナックを買うかしかないぞ」

「覚悟はできている。去年もそうだった」

「まったく。ここらの夜は何もないんでね。あるのは星だけさ。銀河が横たわり流れ星が引っ掻く。ろくに街灯もないもんだからそれだけが自慢さ」


 門衛の運転するピックアップトラックが先頭を走っていた。道を知っているだけあってどんどん距離を離していく。テールランプがすっかり見えなくなると私はフォードのコンバーチブルを止めてサイドブレーキを引いた。時刻はアメリカの山岳部時間で二十三時五十九分。ミツカ、遂に約束を果たす時が来た。間もなく君の夫は君よりも年上になる。ミツカにもあの夜の約束を果たしてもらおう。私はヘッドライトの消灯スイッチを押し、その手でルーフの開閉スイッチに触れた。

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