第6-2話 憧れの和シフォン山桜(2/4)

 「あれー、ミントさん、指輪してる」

 コウさんが、明るい声で呟いた。「ミントさん」と呼ばれたのは、アラフォーと思しき女性だ。シニョンにまとめた髪と柔らかい素材の淡いカナリア色のブラウスが優しい雰囲気を醸し出している。

「もしかして、ご結婚されました?」

「ええ、まあ。今更感もありつつ…」

「素敵ですね。おめでとうございます」

「おめでとうございます。今更感なんて、まだまだこれからじゃないですか」

 優しいまなざしで、KIKIさんが言う。


 「+シフォン」の受講生はハンドルネームで自己紹介しあっている。本名は知らない。本名からハンドルネームを決めている人もいれば、好きなものの名前をハンドルネームにしている人もいる。ちなみに「KIKI」というハンドルネームは、KIKIさんが好きなアニメの主人公から取った名前だそうだ。早都のハンドルネームは、そのまま「さと」。

 KIKIさんは60歳を過ぎてから「+シフォン」に通い始めたという人生の先輩だ。

「上達には若い人の2倍、時間がかかっていますよ」

 KIKIさんはそう言うけれど、早都がお教室のブログを見るようになった時からKIKIさんのシフォンの完成度はすでに高かった。

「お教室に来ると、こんなにおいしいシフォンが焼けるのよ。あなたもいらっしゃい」

 写真の中のKIKIさんの笑顔は早都を誘っていた。

(ああ、早く上手になってKIKIさんと一緒にレッスンを受けてみたいな)

 早都はKIKIさんの笑顔を見つけるたびにそう思っていた。上級コースのレッスンを一緒に受講できた時には、さらに上を目指しているその探求心に感服した。

「できないことが、少しずつできるようになるのって、素敵じゃない?」

「できるようになるのは素敵ですけど、なかなかできるようにならないんです……」

 早都が落ち込んでいると、KIKIさんはあの笑顔で励ましてくれる。

「大丈夫。下川先生に習っていれば、必ず上達しますよ」


 「おめでとうございます」

 ミントさんとは今日が初対面の早都も祝福する。

「ありがとうございます。みなさんに祝ってもらえて嬉しいです」

「しばらくお会いできなかったのは、ご結婚でお忙しかったからですか?」

 コウさんが聞く。

「式は親族だけで挙げたんですけど、それでも、その準備とか引っ越しとかそれなりにやらなければならないことがあって。直前まで日程がはっきり決まらないところも多くて、半年くらいレッスンの申し込みは見合わせていました。まだ落ち着かないんですが『山桜』だけはどうしても受けたくて」

「『山桜』、私も念願だったんです」

 ミントさんと同じ思いだったことがわかって、早都も弾んだ声を出す。

「下川先生のレッスンは数が多いから、見つけた時に申し込まないと受講のチャンスを逃しちゃいますもんね」

「『山桜』、絶品ですよね。私もリバイバル開講をリクエストしていたんです」

 みんなで「和シフォン山桜」への思い入れを語り合っているところへ

「おはようございます」

 バタバタともう一人の受講生がやってきた。レオくんだ。レオくんは、20代の男性。お教室に通う男性は少数派だが、少数派は「精鋭」と相場が決まっている。レオくんも、もちろん「精鋭」の一人だ。

「ギリ、間に合いましたね」

 レオくんがシンクで手を洗う。

「もう時間だよ。ほらほら奥へ入って」

 KIKIさんがレオくんのお尻を叩くように言葉を発する。

「はい、はい」

 促されたレオくんは表面上、面倒くさそうに返事をしながらも、口もとを緩め、軽い足取りで一番奥の席に座る。

「KIKIさんとレオくん、仲いいですね」

 ナカっちが呟く。

「孫みたいなものですよ~」

 KIKIさんもまんざらでもなさそうだ。


 「そろったかな」

 下川先生がレッスンルームのドアを開けた。いつもと変わらない雰囲気の下川先生が姿を見せた瞬間、空気が変わった。レッスンルームの中が一瞬にして緊張感あふれる空間になった。

 定位置に立って、下川先生がレッスンをスタートさせる。

「おはようございます。みんな揃ってるね。時間がないから、すぐ始めるよ。まずは、自己紹介から。近況報告も聞かせて」

 下川先生お決まりのフレーズからレッスンが始まった。

 近況報告と言っても、「結婚しました」とか「転職しました」とか「体調をくず崩していました」とか、下川先生はそういう報告を求めているのではない。下川先生が聞きたいのは、シフォンケーキ作りについての近況報告だ。下川先生の左前に座っているKIKIさんから近況報告が始まった。

「昨日、柚シフォンを作ってみました」

「うまくできた?」

「少し焼き縮んだ感じがしましたけど」

「KIKIさんのは、焼き縮みって言わないレベルのものじゃない?問題ないよ。次、ミント」

「日曜日に久しぶりにバニラシフォンを作ってみました。ちょっと製作時間がかかってしまいましたが、味・食感ともまあまあでした」

「立ち上がりは?」

「いい感じでした」

「底上げは?」

「なかったです」

「なら、よかったじゃん。コツがつかめてきたんじゃない?いい感じじゃん。はい、次」

(ああ、このスピード感。短いセンテンス、アレグロの速さ。最近シフォンケーキも作っていないし、なんて言おうかな?ぼやぼやしていると順番がきちゃう……)

 コウさんの話を聞いている余裕はなかった。レオくんの近況報告が始まっている。

「前回、お豆腐シフォンを習った後、2台焼いたんですけど、1台は底上げしてしまいました。何が原因でしょうか?」

「底上げする要因は、一概には言えない。写真ある?」

「これなんですけど…」

「あぁ~」

 レオくんのスマートフォンの写真を見るや、下川先生は何かわかったような表情で頷く。

「メレンゲの作り方、もう一度確認して帰って。たぶん、メレンゲが緩めになっていたんじゃないかと思う。今日のレッスンでメレンゲを確認して。確認したメレンゲの状態で作ったら今度はうまくいくと思うよ。はい、次」

 早都の番だ。ここは、正直に言う。

「シフォンはしばらく作っていません。今日のレッスンをきっかけに、また作り始めたいと思います」

「しっかり見させてもらうよ。頑張って」

「はい」

「最後、ナカっち」

「はい。最近は爽やか系のシフォンを試作中です。初夏の新商品としてお店に出そうと考えているんですがちょっと苦戦しています」

「例えば、どんなのを考えてる?」

「柑橘かベリー。ヨーグルトもいいかな、と考えています」

「単体でもいいけど、柑橘とヨーグルト、ベリーとヨーグルトっていう組み合わせもアリだよ」

「そうですね。爽やかさがアップしそうですね。ありがとうございます。ただ、そうするとなかなか原価が厳しそうで……」

「そうだね……材料増やすと原価に跳ね返る」

「そうなんです。低い単価設定でやり始めたので……」

「まあ、いろいろ試してみるといいよ」

 ナカっちの近況を聞く下川先生の目は優しい。ピシッとした厳しさが薄れ、若干表情が緩む。下川先生のちょっとした面持ちの変化にも気づけるようになった早都は確信する。

(下川先生はとっても思いやりがあるんだよね。パッと見ではわかりにくいけど……)

 ナカっちの近況報告で、ひととおり自己紹介が終わった。


 「挨拶は以上かな。じゃあ、早速始めるよ」

 いよいよ、本編のスタートだ。

「まずは、シフォンの説明から。「和シフォン山桜」は季節感のある和風のシフォン。毎年春になると作りたくなる、和シフォンの中では定番の位置づけのシフォンだね」

 下川先生の話を聞きながら、早都はレシピの右上に「春の定番」とメモする。メモを取っている間も、話は先へ進んでいる。

「『山桜』は「餡」そのものを楽しむ生地のシフォンになっている。一口食べれば、そのこだわりがすぐにわかると思う」

 早都は「春の定番」というメモ書きの下に、「あん、そのものの味わい」と走り書き。

「その生地に桜の塩気をアクセントに加える。そうすることで、まるで和菓子を食べてるようなシフォンになる」

 さらに、「+桜のしょっぱさがアクセント」と書き加える。

(和菓子のようなシフォン。粒餡と桜のコラボレーション。あ~、試食が楽しみ)

 メモを取りながら、これから待ち構えている試練を忘れ、試食に思いを巡らした早都はついうっとりとしてしまった。

 シフォンの説明が終わったところで一呼吸。すぐに材料の説明に入った。

「材料は、レシピどおり。粉、牛乳、油分、卵黄、卵白、グラニュー糖、レモン汁、粒餡、桜の花の塩漬け」

「こだわりの生地は、グラニュー糖を抑えめにして粒餡の上質な甘さを楽しめるように調整してある。このレシピ、あんこ好きにはたまらないと思うよ」

 材料説明はあっさり終わった。ここから作業開始だ。

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