隣の車両は優しい世界

鏡水たまり

隣の車両は優しい世界

 四月、新しい季節で電車通学に慣れない学生が車内環境を悪化させる。憂鬱な気分で乗り換えのために次のホームへ向かう。五分程で電車が来る地下鉄だから前の電車から降りきた人達とすれ違う。その中に車椅子の彼がいた。こんな通勤の時間に車椅子なんて邪魔だな。そう、その日は思った。

 次の日、一日や二日で学生が電車に適応するかといったらそんなことはない。今日も過密した満員電車から一時の解放と、乗り換え間を歩き、次の駅のホームへ向かう。今日は少し早かったのか、ちょうどいつも使う電車の一本前の電車がホームに止まっていた。せっかくだし、今日は一本早い電車に乗るか。そう思い車両へ歩くと、隣の車両から昨日見た車椅子の人が駅員が持ってきたスロープを使って電車を降りてくるところを見かけた。この車椅子の人は、昨日たまたまこの通勤時間帯に電車を利用した人ではないのかもしれない。そう思った。となると、これから毎日とこの車椅子の人とすれ違うことになるのか。すれ違うだけだからまだマシだけど、もし同じ車両だったら最悪だったな。そう息を吐いた。

 一週間後、車椅子の彼と依然すれ違う日々が続いていた。ところで、彼の車両の乗客は皆マナーがしっかりしていて不思議に思う。俺なんて、たまに降りようとする乗客に突き飛ばされそうになる時があるのに、たまにみる彼の下車の様子ではドアが開いても、駅員がスロープを持ってきて彼が降るまで乗客は誰も降りずにずっと待っている。この、一秒でも無駄にしたくない朝の通勤時間に、そんな乗客ばかりがいつも隣の車両にいるというのか。最近の俺は彼を見るたびにその疑問が浮かんでくる。

 そんなある日、いつもなら彼が下車してから駅員がスロープを片付ける間を待ち、どこかゆとりのある足取りで下車する隣の車両の乗客が、今日は、ドアを占領し時間をかけて下車する彼をいかにも迷惑そうな顔つきで見る人が一人いた。彼の車両の人ならばこんな目つき、仕草はしないだろう。きっと今日たまたまこの車両に乗った人に違いない。そう、分かってしまった。

 次の日から、彼の車両を観察してしまうようになった。そうすると彼が降りてくるのを見た人の中に、彼の車両を避けるように前後の車両に流れる人がいることに気づいた。ある人は電車を待つために列に並んだ後、駅員さんがスロープを持って待機しているのに気づくと、別の車両を待つ列ににわざわざ移る人もいた。その光景を何度か見た後、俺は思い至った。きっと彼を迷惑だと思っている人がこの車両を避けたから、彼の周りには優しい人が残ったんだんだと。

 五月、新しい生活に慣れてきたのか車内環境も随分マシになった。サボることを覚えた大学生たちや部活動なんかで学生の通学時間がばらけたのもあるだのだろう。相変わらず彼の車両はマナーを守るいい人たちばかりだ。俺はいつしか彼の車両に乗るようになっていた。乗るようになってからより実感する。本当にこの彼の周りは優しい世界だ。俺がこの車両に乗るのは彼が電車を降りた後だ。もちろんその次の駅から乗ってくる乗客は彼がこの車両に乗っていたことは知ることもないだろう。新しい乗客が乗り込むたびに、この車両の乗客が降りるたびに、どこか暖かな車内の空気は朝の殺伐とした車内へと回帰していった。

 俺が彼と接するのは駅のホームですれ違う瞬間だけ。毎朝駅員に助けてもらっているが、その通勤は普通の人の何十倍も大変なものだろう。だけどそれを感じさせない彼と彼の周りの優しい人々の姿を見ると、どこか元気をもらえる気がした。

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