片恋
石燕 鴎
第1話
松永智彦は藤堂鏡子に激しい思慕の情を寄ていた。松永は、いつも彼女がいる軍港の片隅に向かっていた。自転車を漕ぐ松永は「俺も馬鹿だなぁ。女なんていくらでもいるのに」と一人考える。そう、彼女が海軍のさる将官の妾である、と知ったのはつい先日のことであった。
松永は小説家を名乗っている。妻や子はなく、既に親もいない。親が遺した幾許かの金を使いながら文筆活動をしている。彼の家は比較的裕福な家庭であり、何人もの女中がいた。彼は極めて早熟な子供で女性に対する憧れを部屋の中で一人夢想することが好きな子供であった。それのみならず、小学校では女教師に声をかけ未熟なアプローチをしてみるなど軟派な一面もあった。そんな彼が女性の他に愛したものが文章であった。彼は文章を読み想像力を膨らませ、口説き文句を考える。その性分は大人になっても変わることがなく、女性好きな軟派な小説家へと成長していったのである。
彼は大学を卒業した頃、親が相次いで亡くなった。そして彼は小さな頃から好きだった海の近くに引っ越しをしたくなった。横須賀には海軍関係者の女性も数多く住んでいる。だから横須賀に引っ越したのだ。彼はこよなく女性を愛した。例えば、海水浴中の日の光を浴びてつやつやとした肌、柔らかな肢体、物腰、農村の日焼けした黒い肌、それらを愛した松永はスケッチと共にその女性たちとの生活を夢見たような小説を大量に書いて文壇に発表する。そんな小説家であった。
そんな彼にも男の友達はいた。織田信彦という男である。織田は新聞記者をやっており、顔が極度に広い男であった。織田はそんな彼の性分をよく知り尽くしており、また彼をよく愛した。度々織田は懇意のとある女性を紹介して羨ましがらせていた。自分も一人の女性を心から愛したい。そんな欲求に日々かられながらも、多数の女性に声をかける。そんな日々が続いていた。
そんなとある日のこと彼は港を散歩していると一人の女性が海を眺めていた。その女は縹色の帽子と、縹色のノースリーブのワンピースを着こなした背の高い女で、衣類から覗くつやつやとした滑らかな肢体が彼の視線を釘付けにした。彼女は突如吹いてきた風のため、帽子を左手で抑える。関節もくっきりとしていて痩せすぎている印象を受けるが、なだらかな身体の曲線がある。そして何よりもすらりとした足だ。白いハイヒールが彼女の姿勢の良さと足の長さを強調している。松永は一眼見て「自分の出会ったことのないタイプの女性」ということを確信した。そしてその優美な後ろ姿を彼はベンチに座り、夕方になり彼女が家路につくまで、海を寂しげに眺めていた様子をスケッチした。
松永はよく見えなかった彼女の顔を想像した。おそらくぱっちりと大きな憂いを帯びた瞳に、小さな口、想像を重ねれば重ねる程彼の中の理想の顔となっていくのだ。-あの美女にもう一度会いたい、そして声をかけたい-彼はくる日もくる日も港のベンチに座り通りすがる人々のスケッチや、小説の構想を考え、彼女との邂逅を待った。しかし、その日以来彼女は港には現れなかった。
そんなとある日のことである。織田が松永のアパートを訪ねてきた。松永は原稿用紙の載った机に突っ伏していた。
「なんだ、君は何をしているんだ。」
「やぁ、織田か」
「今週の原稿の催促をしに来たんだ。前は滞りなく原稿を出していたのに最近は一体どうしたんだ」
「理想の君を見つけたのさ。妄想すら出来ないような、俺の文章力じゃあ書ききれないような美女を俺は見つけてしまったんだ」
「なんだ、いつもの一目惚れか。しかし、珍しいな。いつもならとうに声をかけて振られてるかうまく行きすぎてお前が袖にしてる筈なのに」
「今回は振られてるのが怖いんだ」
そう彼は花瓶に挿してあった青い花を手に取り、溜息をつく。
「まぁとりあえず原稿とっととあげろ。でもって旨いものでも食いに行こうや。紹介したい人がいるんだ」
「またか。んじゃネタをくれ」
「自分で考えろ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます