純情の、また純情でない。
灰出崇文
純情の、また純情でない。
──「ねえ、何をしているの?」
耳の奥でまた、彼女の声が蘇った。見れば電車は目と鼻の先まで迫っている。雨粒のひとつひとつが、ぼんやりと霞んだ運転手の泣くような顔が、不意に鮮やかな色彩を伴って見え、私は目を瞑った。
激しい衝撃──そして、汽笛の音が通り過ぎていく。
Ⅰ
「ねえ、何をしているの?」
あれは今日のような小雨の日、垂れ込める雲の間から紫の夕日が漏れていた日のことだった。馬の合わない数人の同級生に詰め寄られ、ひどく困惑していたのを覚えている。どうしてそんなことになったのだっけか。今となっては何も思い出せない。
✯
「何をしているの?」
彼女はじれったいようにそう繰り返した。学年の姫様の声は三度目にしてようやく私を囲む少女たちの耳に届いたようだ。彼女たちは弾かれたように顔を上げた。私も遅れて、恐る恐る顔を上げる。
彼女の顔は薄紫に染まっていて、表情は見えない。
「海夜……さん、何か用ですか?」
少女の一人が声を上げた。骨ばった手が小刻みに震えている。
「別に。その子に用があるだけだけど」
リーダー格の少女が、私の顔と海夜さんの顔を交互に見、「帰ろ」と一言鞄を持ち上げた。白々しく談笑しながら教室を出ていく。
それを冷めた顔で見送った海夜は、細く息を吐いた。いつの間にか太陽はすっかり沈んでいた。目の前の少女は薄闇に沈み、軽く伏せられた眼は何処かを見ていた。空虚な微笑みを浮かべているようにも見える冷たい顔は、校舎の所々にある聖母の像のようでもあった。
私の視線に気がついたのか、海夜は目を瞬かせた。
「私の顔に、何かついてる?」
先程の女王のような態度とはまるで違う、少し困ったような風で首を傾げる。
「あ、違うの。マリア様のようだと思って」
彼女は更に困ったような顔をした。
「サラ、だよ」
「え?」
「洗礼名。アブラハムの妻、サラ」
私は訳がわからなくなった。
「洗礼名の話をしているんじゃなかったの?」
海夜は真面目な顔で私を見る。笑えばいいのか、呆れればいいのか分からなくなった私は、
「えっと、サラ、と呼べばいいの?」
と尋ねた。海夜はハッとして頬を赤らめた。顔の前で指を絡め、小さく言う。
「駄目。これは、内緒、だから」
✯
電車のフロントライトの下は、一面の闇、だった。自分の体だけが仄白く浮かび、昨日塗った足の爪の青が星のように見える。体はバラバラにでもなったかのように痛むが、記憶の中の海夜の姿を見るほうが数倍痛い。私は体が動くのをいいことにうずくまり、膝に顔を埋めた。腕が冷たい。雨に濡れたからだ。
Ⅱ
「──ねえ、海夜はどうして私を助けたの?」
「助けた? 何時?」
海夜は白々しく言うと、大きく口を開けてサンドイッチにかぶりついた。彼女のサンドイッチはいつも美味しそうだ。巻いてある油紙の間から見えるものから察するに、本日の具はコロッケとチーズ、ごく少ないレタス──そんなところか。
可愛くもない都会のカラスがバサバサと騒々しい羽音を立てて足元におりてくる。海夜はパンを千切って投げた。カラスは恐れることもせずにそれを突くと、くつくつと飲み込んだ。硝子玉のような目がじっと見てくる。私は追い払おうか迷いつつ、海夜に目をやった。海夜は珍しく笑顔だった。
「私、カラスに好かれてるの」
「モリガンみたいね」
「モリガン?」
「あ……カラスの魔女」
私たちは親友と言っても差し支えないような仲だったが、その興味の向く方向は大きく違っている。歌ばかり歌っている海夜と、本ばかり読んでいる私。噛み合わないたびに少し恥ずかしくなる。
「雲雀の次はカラスなの?」
そういえば、彼女が歌っているさまを見て雲雀と呼んだこともあった気がする。気障ったらしくて嫌になる。私は頬が熱くなるのを感じながら頭を振った。カラスが飛んでいく。
「今はなかったことにしてね。えっと、ほら。私が千聖さんたちに絡まれていたとき、あったでしょう?」
「……そんなことあったっけ」
「ほら、テストが終わった日だってば」
海夜は満面の笑みでこちらを見た。どうやら私をからかっていたらしい。カラスを驚かせてしまったから、その仕返しかもしれない。
「もう、」
「前に、北原白秋の本を読んでいたことがあったでしょ」
相変わらず脈絡のないように聞こえる返しに、私は記憶の糸を辿り、恐る恐る答えた。
「……あったかもしれない」
「白と赤の本だったと思うけど──ほら、ダンボールの函が付いた」
これくらいの、と手で示して見せてくる。記憶がふっと蘇る。
「あ……じゃあ、邪宗門だね」
そうだ、年度が始まった頃に数冊買った覚えがある。その中の一冊だったはずだ。家で読み切ることが出来ずに、函に入れたまま持ってきた日があった。
「それかもしれない……その時、あの、母さんが北原白秋の歌が好きで、それで気になってて」
歯切れ悪く言葉を繋ぐ海夜。耳まで真っ赤になって、照れながら語る様子が余りにかわいらしいので、むらむらと悪戯な心が沸き上がってくる。
「でも、気になっているのと実際助けるのじゃ、それはやっぱり違うでしょう?」
Ⅲ
大きな窓から射し込む夕日が空を赤く染める。ビルが光を反射して海の中にいるようだ。遠くのざわめきは潮騒だ。陳腐な考えにため息が出る。
「どうしたの」
私は取り繕うように笑い、海夜の黒髪を梳いてやりながら囁いた。
「下へ行かなくてもいいの?」
「うん」
海夜は機嫌よく頷いた。長い髪が私の手からこぼれてはらはらと落ちる。誕生日にあげた練り香水の、茉莉花の香りに混じってかすかに生暖かい香りがする。
「最後の文化祭じゃないの」
ここを離れないという返事を期待しながら言ってみる。彼女は私の手に頬をあてて上目遣いでこちらを見た。
「でも、あなたもここにいる」
心臓が跳ね上がった。何もかも見透かすような瞳に、思わず目をそらす。
「私はもうすぐ下に行かなきゃいけないもの」
「じゃあ、髪触ってるだけじゃなくって、思いっきり素敵にアレンジしてよ」
小花柄のポーチから細いゴムと数本のヘアピンを出して私の手に置く。これも、と重ねられた細い折りたたみ櫛を恐る恐る開いた。
「……私、何もできないよ」
「なんでもいいよ」
「そう言われても……」
所在なく黒い髪を梳る。いつか読んだ物語で、少女がサテンのリボンで髪を結わえるシーンがあったのを、ふと思い出した。私はドギマギしながら胸元のリボンを解いた。三年に上がってから買い直した、綺麗なリボンだ。。口に咥え、丁寧に彼女の髪を一つに結わえる。後れ毛を留めてしまうと、白いうなじが際立って見えた。燕が尾を引くような、綺麗な生え際だ。結び目の上にリボンを落とし、そのうなじに口づけをしたらどうなるだろう、海夜は驚くだろうかと考え、そのあまりの生生しさに手が止まった。
「……どうしたの?」
海夜はこの考えに感づいたのだろうか。それともただ静止する私を不審に思ったのだろうか。ガラス越しに目があった海夜はいつかのように空虚な笑みを浮かべている。はっと我にかえる。──馬鹿だ、私は何を考えているんだろう。頭を振って笑顔を作った。
Ⅳ
私の席からは海夜の様子がよく見える。私は上の空でページを捲り、ため息を吐いた。海夜は静かに机に向かっている。何をしているんだろう。消しゴムを取るのに腕を伸ばした、その下に見えたのは可愛らしい便箋と、几帳面に並んだ小さな文字だった。
文通相手がいるのだろうか。僅かな嫉妬と好奇心に駆られて立ち上がりかけた、その時。
「おはよう海夜。こないだ誘ってくれたジェラート、今日だったら行けるんだけど、どう?」
「あ……行こう」
「おっけー、じゃ、また」
「うん」
海夜には友達がいなかった。孤高の女王だった。私だけの少女だった。いや──そのはずだった。そう、初めて話したときからわかっていたじゃないか。彼女は
ああ、目眩がするようだ。頭が締め付けられるように痛く熱いのに、指先は冷たく震えている。今日の海夜はどこか薄ら寒い色をしている。
海夜は難しい表情で便箋を埋めては消し、埋めては消しして、消しかすの山を積み上げている。その幸せな手紙を受け取るのはどこの誰だろう。私は手元の本に目を落とした。ダンボールの函には尖った字で『月に吠える』と印刷されている。いつかこの本について話した、その記憶までもが私を苛む。繊細な詩篇は逆さまに網膜を滑って行く。復讐、その二文字が目に飛び込んできて、はっと我に返った。そして私は本を閉じた。
Ⅴ
その日は朝から寒かった。暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだ。昨日まで夏のようだった空はすっかり白んで秋らしい高さを見せていた。無理矢理に編みこんでヘアピンで止めたはねる髪を触り、携帯の黒い画面に顔を写した。好きなようにはね散らかしている。全く嫌になる。
「おはよう、今日は寒いね」
普段より肌の白い海夜が、携帯の影からひょっこりと顔を覗かせた。冷たい指を私の手に当て、携帯を鞄に押し込む。
「お、お早う」
お嬢様結びに真っ赤なリボンを巻いた海夜は、それと同じくらい紅い唇を持ち上げた。
「どう?」
寄せた顔からほのかに香料の匂いがする。私が持っているパウダーと同じ香りだ。この間書いていた手紙が脳裏をよぎった。あの手紙は誰に出すのだろう。もしや。
「どう、って?」
好きな人が出来たのではと疑いかける心を隠すように目をそらして嘯くと、海夜は頬をふくらせて普段より高い靴の踵をカツカツと鳴らした。
「前に、化粧をしないのは勿体ないと言ってたでしょ、見て」
少し顎を上げてこちらを見る海夜の顔は、どことなく沈んだ色に見える。艶のない真っ赤な唇だけが目に眩しい。
「チークとリップの色を合わせたらどうだろう」
「……もう!」
白い肌にさっと朱が差す。いつも眠たげな目を大きく開いて、詰るように私を見る。私は彼女が怒ったという事実よりも、その怒った顔の美しさに、雷に打たれたかのような心地がした。それは暗い喜びだった。
「……嘘。すごく、綺麗だと思う」
ため息のようにそう囁く。海夜は本気で傷ついたらしく、目を潤ませながらこちらを一瞥して固い笑みを浮かべた。
「本当なら、許す」
「真実の心から出た言葉でございます」
おどけて大仰に礼をすると、海夜はふっと笑った。口元に当てた爪に色が塗ってある。ムラだらけで、ガタガタだ。それを指摘すれば、海夜はまた怒るだろうか、と考えて身震いした。
「……もう」
呆れるような言葉の後に、行こう、と一言、海夜はアスファルトを叩いて軽快に歩き出した。重くて滑らかな生地のワンピースが、秋の風に吹かれてふわりと揺れた。
Ⅵ
ぼんやりとホームで電車を待っていると、私の名を呼ぶ人がいる。持っていた小説から目を上げて後ろを見ると、ブレザーの青年が笑っていた。
「やあ、久しぶり」
彼の手にある本は今をときめくミステリ作家の新作。そこまで確認して、彼が小学校のときの同級生だと思い出す。皆が外へ行ってしまって教室に誰もいないとき、いつも二人で本を読んでいた。
「えっと、亮……くん?」
「そう。5年ぶり、くらいかな」
「いや、2年ぶり。ほら……お祭りで」
「そうだっけ」
亮は肩を竦めてはにかんだ。変わらない。亮は相手に反論されるといつもこうして、相手にそれ以上反論させなかった。久しぶりにその仕草を見て少し苛立つ。
「……ごめん」
亮は私の目を見ると露骨に悲しそうな顔をして言った。勘付かれたか、といたたまれない気持ちになる。
「いや、私こそ」
語尾をかき消すように電車が滑り込んでくる。私達は無言のまま、いつの間にか後ろにずらりと並んでいた制服とスーツに押されるように電車に乗り込んだ。亮は壁際がいい、と私の背を軽く押した。つり革に捕まり並ぶと、つんのめるように体をぶつけてくる。ぶつかってきたらしいサラリーマンをじろりと見ると、わずかに肩を竦めた。
「ごめんな。学校、何処だっけ」
「聖キキリア女子」
「東町駅?」
「うん」
電車が動き出す。窓の外で鮮烈な色彩を持った景色が飛んでいく。耳が痛くなるような沈黙が車内に流れる。
「静かだね」
「うん」
沈黙に気後れしたのか、ため息と変わらないような声が降ってくる。亮は随分背が伸びた。昔は私のほうがずっと背が高かったが、今は亮の肩に私の頭がある。ちょうど目のあたりに、青い表紙の文庫が所在無げに揺れている。電車に乗ってからずっと文庫本に指を挟んだままだ。
「栞、ないの」
「忘れちゃって」
かばんから一本取り出して差し込むと、亮は驚いたようだった。
「これ、まだ持ってたんだ」
一瞬、なんのことかわからずに亮を見上げた。彼は顔の前に塗装の剥げかけた赤金色の羽の栞を掲げて丹念に見ていた。どこで手に入れたものだか、全く覚えていない。ずっと幼い頃から気に入って持っているものだ。
「まあね」
肩をすくめて愛想笑いをする。亮はその栞をまたページの間に挟むと、また窓の外に視線を投げかけた
「これあげた頃……赤毛のアンの話をしたよね」
ランドセルを投げ捨てて、小さい本棚にこっそり腰掛けて本を読んでいた幼い自分、隣にはクラスで一番小さな亮の姿。そんな光景が脳裏に浮かぶ。
「……そうだっけ」
──アンは、わたし、ってどういうこと?
亮はページを捲る手を止めてこっちを見た。早く読みたい私は手を伸ばしてページを繰った。亮はムッとしたようにページを戻す。
「うん。アンも、君も早く大人になりたがってた」
──そのまま。大人になったら難しい言葉だっていっぱい使えるよ。私いっぱい喋るけど、大人になったらきっと先生にも怒られない。
「……覚えてないよ」
まっすぐ前を見たままそう言うと、亮は知ってか知らずか、ふっと笑った。
「そっか。もうだいぶ大人になっちゃったもんね」
「……そうだね」
Ⅶ
「昨日の朝、誰と話してたの?」
ちりとりでゴミを集めながら、海夜は言った。
「見ていたの?」
「うん」
海夜は顔を上げ、ぼんやりとした顔で私を見た。近頃、彼女はどんどん綺麗になる。ほんの数週間ほどの間に化粧の腕も随分上がった。どう見せれば美しいか、どう振る舞えば美しいか。己の美しさに気づいた少女こそ厄介だ。このように気を抜いた表情でさえ憂いを帯びた美神のように見える。目をそらし難く、しかし見つめるのも気が引けて、彼女の手からちりとりを取り上げてゴミ箱を覗いた。時期外れの制汗シートが臭う。
「彼氏?」
からかっているようには思えない声が飛んでくる。なぜそうも真剣に問うのだろう。男というのが女子校には居ない生き物だからか。それとも。
私は振り返って海夜をじっと見た。秋の低い日に照らされた頬は夕焼けに沈んでいる。不安げに私をみる海夜の瞳の奥に、アンバランスに手足の長い青年に戯れかかる少女の姿を見たような気がして──それを、努めて見まいとしながら、
「そんなことより、ね、掃除も終わったし」
彼女に鞄を押し付けて、白いドアに鍵をかけた。
Ⅵ
「明日はなんの日でしょうか」
海夜は重苦しく沈んだ空気の流れる教室を泳ぐようにやってきた。ここ数日落ち込んだ様子だったが、今日は機嫌がいいようだ。私は海夜に渡された飴を口の中に放り込んだ。今日はハロウィーン。教室の雰囲気もどことなく浮足立っているように思う。
「テストだね。それから──萩原朔太郎の誕生日」
「もう、わかってるくせに」
私の手を取り唇を寄せて、誕生日じゃないの、と重大な秘密を打ち明けでもするように、そして嬉しそうに囁いた。その頬は急に冬の色を帯びる空気を感じさせない薔薇の色。私は近頃感じていた余所余所しさをすっかり忘れてしまった。細い指を握り返して囁き返す。
「だって、なんだか気恥ずかしいんだもの」
「明後日は国語だけでしょ、だからね、ちょっとお茶でもしていかない?」
喜んで、そう返そうとすると、
「海夜ちゃん、おはよう」
干からびた声が邪魔をした。大きなマスクをしたショートカットの少女が、何かを期待するようにかぼちゃのバケツを持って立っていた。
「わ、すごいねえ……」
海夜が指を解いてそちらへ顔を向けたので、私の幸せな気持ちは針でつついたようにどこかへ行ってしまった。申し訳程度の愛想笑いを浮かべて頬杖をつくと、側においてあった携帯がちかちか光っているのに気がついた。
開くと、やはり亮からのメッセージだった。
「珍しいね、誰から?」
海夜は先程貰ったらしいチョコレート菓子をもぐもぐしながら、いつになく明るい調子で聞いた。私はその幸せそうな表情を浮かべる彼女が、彼女にその表情を浮かべさせるものが憎らしくてたまらなくなった。復讐の二文字が目にちらつく。復讐、いや、違うのだ。彼女はどんどん私の知らない彼女になる。私だって彼女の知らない私を装ったっていいじゃないか。ああ、でもそんなことで彼女を裏切るのはいいことじゃない。彼女は私の親友だ。親友には誠実であらなければ、でも。
私の言葉は私の理性よりも素直だった。私はささやかな復讐心によって彼女を偽ることを決める前に、息を吐くよりも自然に言った。
「ん、彼氏……」
私はそれを聞いたときの彼女の顔を忘れることができない。一瞬の驚愕、そして疑うような顔をし、嫌悪、嫉妬、疑問、もっと他の何か計り知れない感情、それらが入り混じった、いやそれよりもなおひどい──絶望、そうだ、絶望という言葉が相応しいような顔をした。私は彼女のその顔を見た瞬間、私の言葉が間違いだったことを理解した。彼女は目を見開いて、唇までを蒼白にして私を見ていた。私は彼女に酷い偽りをしたことを理解していた。理解した上で、自分の一言が彼女のぼんやりとした表情を変えることに暗い喜びを感じた。そして、まったく不実なことではあるが──かすかにふるえる彼女は美しかった。
私は今度は本心から彼女を動揺させてやろうと思った。なんでもないように、それどころか若干の笑みさえ含んで
「どうしたの?」
彼女は動揺を隠しきれないまま、口だけを弓形に曲げた。彼女はもう私の顔を見なかった。私のリボンに痛いほど視線が注がれているのがわかった。若干の罪悪感が私を襲う。冗談だよ、ごめんね──私が思わずそう口走ろうとすると、海夜は一瞬早く口を開いた。海夜が頭を振る。風が強く吹いて、季節外れの茉莉花の匂いが鼻をよぎった。
「……ううん、なんでもない」
Ⅶ
早々に海夜と別れ、5分早く待ちあわせ場所に着くと、亮はもうとっくに着いていたようで、寒そうにしながら片手をあげた。
「やあ」
「早いね。待った?」
「ううん」
沈黙が流れる。亮は文庫本を持ち上げ、下ろし、かばんの中に入れた。
「その、制服……リボンがないと俺の学校のと変わんないんだね」
「ああ、失くしちゃって。確かにそうかも」
答えながら、亮の顔をじっと見ると彼は赤くなって、あの、と大きな声で言った。そしてそれを恥じるように肩をすくめると、
「栞、ありがとう。助かったし……それに、持っててくれて、嬉しかった」
「どういたしまして、じゃ」
受け取った栞を鞄に仕舞い、踵を返そうとすると亮は小さく
「待って」
と言った。足を止め、どうしたの、と二の句を促すと、亮は決心の付き兼ねるような顔をするのを止めて、恐る恐る言った。
「付き合って……ください」
最初に感じたのは、身震いするほどのおぞましさだった。彼は今、私のことを幼い頃の友人としてではなく、一人の女として見ている。成長してから片手で数えられるほどしか言葉を交わしていない私に、理想の偶像を重ねて見ている。撥ねつけようと口を開いたが、海夜とのことを思って口を閉じた。彼氏……彼氏。私は亮を彼氏と称した。これが罰なのか。不実の友情と、友情への不実の報いなのか。思わず天を仰いだ、その頬に冷たいものが落ちてくる。
「その、明日……誕生日だろ。だから、コーヒーでもと思って」
沈黙に耐えきれなくなったのか、亮は言い訳がましく言った。彼の顔は真っ赤だった。私は海夜の薔薇色の頬を考えた。そして、別れるときまで蒼白だった唇を考えた。そして、この気持ちの悪い男と女の話を考えた。謝らなければいけない、今すぐにでも。私は彼女への不実を激しく後悔した。そして亮に栞を貸したことも後悔した。自分の行動を全て後悔した。海夜はこの気持ちの悪さを知ったのだ。私の安直な復讐によって。誰もいなければ頭を掻きむしりたいくらいの気分だった。
「ごめんね。降ってきたから、私、帰る」
男はもう私を呼び止めなかった。駅に向かいながら、海夜にメッセージを入れる。返事は返ってこなかった。
Ⅶ
私は一輪の花を持って、十字架の前に佇んだ。
白い祭壇、白い花に包まれ、白い布団で微笑んでいる、何より色の白い、白い──少女。いつかの復活を願うパンのかけらも、見知らぬ老人の声も、響く低い聖歌も、何もかも知らないものだった。私はその少女のことを何一つ知らなかった。その少女にも、わかっていなかったようにすら思えてくる。しかし、それはきっと正解ではない。唇を噛んで立っていたブルネットの婦人。私は彼女が何者なのかすら知らないのだ。彼女はなぜ棺の中にいるのか、それもわからない。あなたを偽ったことはたくさんあった。その一つ一つがあなたの首を絞めたのか。それとも暗い喜びが、彼女の心臓を突いたのか。考えの及ばない何かのせいか。あの気持ちの悪い言葉のせいか。もし、私と出会わなければ、あなたは今も笑っていたか。
少女の細い頸は、白いリボンで隠されていた。わずかに朱が透けるほどの透ける丁寧な化粧、そして首元に被さる白い花が彼女の首元を飾っていた。その花は何より雄弁だった。髪には癖がついていた。少女の首か、それとも私の首を締めていた赤いリボンを、そのやわらかい髪に締めて死んだからだ。彼女は──彼女はひどい悪趣味だ。当てつけのようだ。いや、当てつけだ。いや、幸せな思い出の印だったのか。あの夕暮れは彼女の幸せだったのか。昨日の日暮れから降り続く雨が私の制服を灰色にしていく。あの棺はどこへ行くのだ。少女は、どこへ行くのだ。
他人事みたいな灰色の文章が私の頭を流れる。実感を伴わぬ言葉が流れている理由を知っていたので、強いてその言葉から逃れようとは思わなかった。これも私の罪だ、報いなのだ。ぼんやり思った。
✯
気がつけば、全く知らない道に立っていた。踏切が狂ったように鳴っている。赤い光が目に映る。私の前と後ろで黄色い旗がはためいている。濡れた黒い鉄がフロントライトに輝いている。
「……何も、してないよ」
雨が、降っている。
純情の、また純情でない。 灰出崇文 @Heide_T
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