5.デジュプリ温泉(マナス王国西部州モルラニオン地方)


 世界には様々な絶景がある。切り立つような断崖であったり、どこまでも続く平原であったり、風や水に浸食された林立する巨岩群であったり。


 王国西部のモルラニオン地方で見られるのは広大な干潟ひがたである。ワッデンジーと呼ばれるこの干潟は、長さは海岸線沿いにおよそ500キロ、幅は岸から平均で50キロという広さで、まさに世界でここでしか見られない絶景である。


 年中荒れている北海だけれど、干潟との境には砂が集まってできた細長い島があって、その境界線が干潟を守っているらしい。

 満潮時には深いところで水深わずか4メートル、干潮時には海底の泥が露わになった干潟となるわけで大きな船は通行できない不便さがあるそうだけれど、生物にとっては外敵から守られた安全地帯なのだそうだ。


 ロナウドと私がそんなワッデンジー干潟にあるデジュプリ温泉に来たのは、風の薫る5月のことだった。

 1年じゅう西風が吹き、かつ西岸の沖合には暖流が流れているため、北の方にあるとはいえど、この地方はそれなりに暖かい。

 乗合馬車のほろから外をのぞくと、澄んだ青い空に糸を引くような細い雲が、まるで刷毛でなでつけたように広がっていた。


 乗客の中に若い男性の研究者がいた。ここから東部にある学芸都市マールから来た生物学者らしく、デジュプリのさらに先に向かっているという。

 ニックと名前を教えてくれた彼から聞いたところによると、ワッデンジーには彼の所属する研究者グループがあるらしく、大きなイカダに家を建てて干潟を観察しながら暮らしているのだそうだ。

 満潮時には海に浮かび、干潮時には広い干潟の上に降り立つ。常識をくつがえすような家だけれど、なんだか楽しそうと思ってしまった。


 デジュプリ温泉に到着し、ニックと別れて私とロナウドは降りた。

 風が強いからか、どの建物も石造りの平屋建てでドッシリした作りのようだ。それほど大きな町ではないようで、どことなく漁師町の風情がある。気候が良いせいか、なんだかのんびりした空気が漂っていた。


 この町で私たちが泊まったのは、ニックに教わったお薦めの温泉宿「ノル・ド・オーグ」である。

 他の建物と同じく平屋建てのこのホテルは、ニックに言わせれば所謂「知る人ぞ知る隠れ宿」ってやつらしい。部屋数はなんとたったの2つだという。


 さっそく部屋に入るとなかなか広く、北国の宿の風情があった。部屋の中央には鉄でできたダルマストーブがあり、煙突がまっすぐ上に伸びて天井付近で横に曲がり、そのまま壁の向こうに繋がっている。

 窓は二重になっていて、ガーネット暗めの赤色のカーテンもしっかりした布地のものだった。木製のロッキングチェアが2つ。――冬場にはストーブを前にしてロッキングチェアに座り、ワインを片手に談笑するのも雰囲気があって良さそうだ。

 時間は午前の早い時間だったので、2人でワッデンジーの干潟を見に行くことにした。


 踏み固められた道がいつしか砂の道となり、草の生えた堤防を乗り越えると、そこがワッテンジーだ。ちょうど満潮に近い時間だったらしく海になっている。この日は温かく水温もそれなりにあるようで、子供たちが水着を着て海で遊んでいた。


 ずっと遠くを見ると凪いだように穏やかな海が広がっていて、遠くの海面から時おりアザラシが顔を出していた。なんだか気持ちよさそうで、海に入りたくなってくるけれど、あいにく近くに着替えるような場所は見当たらない。


 仕方なく、ロナウドと2人で堤防沿いに少し歩くことに。

 少し海を覗きこむと小さな魚が泳いでいるのが見えた。底の方にはハゼもいる。海鳥も多く生息しているようで、生き物にとっての楽園と呼べるような場所なのだろう。


 しばらく行くと一軒のレストランがあったので、昼食がてら寄ることに。

 テラスのテーブル席につき、広い海を眺めながら特産だというリンゴ酒を頼んだ。


 細長いグラスに爽やかなリンゴ果汁に似た色のお酒。グラスの底の方から小さな泡がのぼっている。

 乾杯をしてから口を付けると、シャンパンに似たすっきりするような酸味と炭酸の刺激が喉を通っていく。……おいしい。素直にそう思えた。


 ワッデンジーの名産品は、(なんとアザラシの肉もあるようだけれど)ムール貝や牡蠣かきだという。そこで私はムール貝のパスタを注文。ロナウドは牡蠣のガーリックオイルソテーだ。


 黒い殻付きのムール貝がまるでパスタを囲むように配置され、黄色い麺とむき身のムール貝、そしてトマトがその中央で絡み合っていた。パセリとパン粉、そしてチーズが削って降りかけてある。

 さっそくフォークでクルクルと巻き取って口にする。質の良いオリーブオイルを使用しているようで、ぷりぷりのパスタとトマトが実に良くマッチしている。いで口に入れたむき身のムール貝もガーリックの風味が効いていて旨い。

 ピリッと唐辛子がアクセントになっているのがまた良い。豊かな味わいに思わずニッコリとしてしまう。


 目の前のロナウドはロナウドで、スライスしたバゲットに牡蠣を載せてパクリ。次の瞬間、その口角が上がっているのを見るとおいしかったのだろう。


 食事が終わってからも、なんとなくダラダラとそのテラスから海を眺めていると、干潮になって水が引いていき、干潟が姿をあらわした。

 空の青さが干潟に映り込んでいる。海鳥が舞い降りてはくちばしを泥の中に突っ込んでいた。今までにない、穏やかな時間がゆっくりと流れていく。


「1日に4回。こうやって満潮と干潮を繰り返すのさ」

 店員の男性がそう教えてくれた。

「朝には朝の景色、夕には夕の景色がある。俺たちには見慣れた光景だが、あんたら旅人には珍しいみたいだね」


 たしかにこれだけ広い干潟は初めて見るから、不思議ではある。それよりもこうして何もせずにいる、それだけで楽しめるのが良いんだと思う。


 目の前には広い空に、どこまでも続く干潟。そして、その干潟は刻一刻とその表情を変えていく。吹き抜ける風が潮の匂いを運んできて、雄大な自然を感じさせる。


 なんだかこの町だけ時の流れが違うような、そんな気がした。


◇◇◇◇

 ホテルのお風呂は部屋付きの浴室であった。


 石壁に囲まれた、四角い浴槽。壁には魔道具のランプが灯っていて、本当にどこかの隠れ家のお風呂のようだ。

 これで外の景色を眺めることができれば大満足なんだけれどね。明かり取りの窓こそ小さいのが天井にあるけれど、どこか密室風。

 足を踏み入れて初めて気がついたけれど、床や壁の石はじんわりと暖かくなっていた。身体を冷やさないためだと思う。


 お湯はつるっとしていて、肌に掛けるとぷるんとしてくるような気がする。なんでも塩分が強いらしく、冷え性や肌の乾燥に良いとか。飲むとしょっぱいそうで便秘や胃炎に効くという。

 それより何より、肌がいつもよりもお湯を弾いているようで、見ていてうれしくなる。ニマニマしながら自分の腕を突っついたりしていると、ロナウドから「なにやってんの?」と突っ込まれたり……。「いや、肌がさ」「そんなに気にする年でもないだろう」

 う~ん。この気持ち、男性にはわからないかなぁ。


 湯温はぬるめ。なので、ゆっくりとお風呂に浸かりながら、ロナウドとおしゃべりに興じることができる。内緒話をするような、そんな距離感。

 そうか。自然の空気を楽しめる露天風呂もいいけれど、こういう隠れ家風のお風呂は2人の仲をより近づけてくれる効能があるんだ。


 その日の夜は2人でロッキングチェアに座り、ルームサービスで持って来てもらった蒸留酒を開けた。


 大振りなグラスに琥珀こはく色のお酒。魔法で氷を作って入れて冷やして飲む。グラスを傾けると、その独特の芳醇でスモーキーな香りが鼻こうに広がる。その香りに満たされながら、私はロナウドとゆったりとした時間を過ごしたのだった。



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