第57話

 ――――息が……上手く吸えない。

 動悸も激しくて血管が激しく脈打つのも感じるけれど、何より心臓が痛くて痛くて……

 もう何も考えたくはないと逃げそうになる。

 ……否、先程から逃げ続けているのに、一体どこに逃げるというのだろう?

 何かが込み上げてくる。

 はもう何も無いはずなのに、何かがせり上がってきて吐きそうだ。


「もう分かっているんだろう? ”アレ”が…エリザベートが一体誰なのか。前世での君ならば」


 考えないようにしているのに、それを許さないのはギュンターの優しさだと分かっている。

 このまま逃げ続けたら、本当に大切な存在を永久に喪うのだと。

 だから彼はしなくても良い厄介なのに私達に関わってくれている。

 本来しなくても生きていけるのに付き合ってくれているのだ。

 自分が生きづらくなっても助けてくれているのだから。


 ――――ならば、私がこれ以上逃げる訳にはいかない。


 答えはとっくに分かっている。

 けれどそれから逃げて、逃げ続けていたのは――――


 思い出したくないのだ。

 何も思い出したくはない。

 まだ記憶は蘇ってはいないけれど、私は前世で私が死んだ時のことを思い出すのが怖い。

 全ての記憶が詳らかになるのが怖くて仕方がない。

 これを考えたくはないから、思い出したくはないから、エリザベートが誰かという問題から全力で逃げていた。


 ……口に出したら、何が起こったのかを思い出す。


 不思議と確信がある。

 間違いなく全てを思い出す。


 私が今憶えている前世での死に様は、私が私の為に施した偽りの記憶だ。

 ――――勇に内緒で誰かと出掛けた時のことも、連鎖的に思い出すと心が言う。

 それ以外にも私が私を偽っていると心が……否、魂が叫んでいる。

 ――――このままでは勇を救えないと、舞ちゃんに合わせる顔がないと、立ち向かわなければいけないと叫ぶ声が止まない。


 ゆっくり深呼吸を一度。

 目を閉じる事は出来なかった。

 それでも無い勇気を絞り出して言葉を紡ごうとした時、脳裏を過ったのは幼稚園からの友達。

 私は勝手に親友だと、そう思っている相手。


 今なら分かる。

 記憶の霧が晴れていったから。

 伯父が手を差し伸べてくれなかったなら、私は小学校さえいけなかっただろう。

 偽りの記憶で、私は伯父が援助してくれる前も保育園へと通っているという事になっていたのは――――

 前世の両親は私に何もしなかった。

 食事を与える事もオムツを替える事も……話しかける事さえも。

 勿論抱き上げられた事も無い。

 ただ物のように放置されていただけだ。

 ……無視をされて無いモノとされていただけ。


 それを私は記憶を操作した。

 伯父の様子や幼稚園で耳に入る事柄から、両親が悪く思われないように。

 その為だけに記憶を弄った。

 訊かれた時、両親について問題なく話せるように。

 両親に言われた通り、思い込むことにした。

 愚かな私にはそれを疑問に思うだけの知識が無かったのだ。


 ――――バケモノとも言われた。


 確かにそうだろう。

 産まれてから伯父の援助があるまでの数年間、飲まず食わずで排泄さえせず生きている赤ん坊なぞ……悍ましいだけだ。

 ――――殺そうとしたらしいけれど、私は死ななかったらしいと、思い出した前世の両親の言葉で分かってしまった。


 ――――産まなければ良かったと言われ、早く死ねと言われていた。

 普段は居ないモノとして扱うのに、思い出した様に恐ろしい表情で何度も。

 ゴミ屋敷と言える環境で、只々遺棄されていた存在。

 ――――それが私だ。


 そんな人としての在り方が右も左も分からない子供に、同年代とはいえ話しかけてくれた。

 舞ちゃんは本当に人が良くて優しい子だったのに……

 ああそうだ、どこか加奈ちゃんに似ている。

 外見も内面も。

 だから私はすぐに何の迷いも躊躇もなく、加奈ちゃんを信用したのだろう。


「似ているのは当然。君の前世の親友と加奈子だった彼女は遠縁だからね」


 唐突にギュンターの言葉で意識が戻る。

 それで加奈ちゃんが私を心配そうに見ていたのと、やはり彼の言葉で彼女も目を見開いているのが把握できた。

 ……まるで過ぎた時間の映像が遡って再生されたようで戸惑う。


「加奈子だった君の曾祖父の兄弟が曾祖父なんだよ、瑠美だった君の親友の。欅が気に入らない相手と結婚してしまったから、一族との縁が切れてしまっていたんだ。でも瑠美だった君の親友の母親がね、遠くはあるけれど欅の一族の血を引いていて、しかも親友殿は先祖返り。それは似るよ、加奈子だった君とね。……だからこそ狙われたともいえる」


 ギュンターの声は優しい。

 舞ちゃんと佳奈ちゃんは遠縁。

 その言葉は本来なら嬉しく感じるのかもしれない。

 ――――けれど私には……私の罪を突きつけられているように感じる。

 そう思う事さえ二人に対しての侮辱なのかもしれない。

 独り言ちて息も心も整える。


「エリザベートは――――前世での私の母方の従妹。冴木さえき 英里えり


 覚悟を決めて口にした言葉は、驚くほど静かで……不気味なほど部屋に響き渡った。

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