第55話 幕間
夜更け過ぎ、この世界で最も豪奢で絢爛たる宮殿の主は、その宮殿内の執務室の椅子に座り瞑目していた。
その執務室は、只人であればその醸し出す重厚感と威圧感に苛まれ、とても息すら出来ない有様になるだろうことは想像に難くないというのに、ノックの音も軽やかに入ってきた女性は、その雰囲気を気にしないどころか楽しんでさえいる様で、執務室の主は、彼女は相変わらずだと嘆息する。
「どうした、こんな時間に」
彼女が来た理由を知りながら、そう彼は問いを発した。
「この様な時間まで執務とは、相変わらずお兄様は勤勉であられる事」
彼女は彼の問いには答えず、朗らかに、だが瞳は冷たいまま、彼に言葉を発する。
「嫌味かね」
彼女の来訪理由を鑑みれば、すぐさま浮かぶ答えだった。
「ご理解いただけましたら幸いですわ――――それで、お兄様、我が孫が学校へ入学するのですけれど、聞いた話では、何故か罪人が同じ学校へ入学するという話ですけれど、本当でしょうか?」
疑問形を使ってはいるが、確信を込めている妹に、彼は苦笑した。
「本当に耳が良い。それで、どうした?」
彼の問いかけに、今度は妹のマルガレーテが溜め息を吐いた。
「どうした、ではありません。曲がりなりにも帝立の学校へ、何故、罪人を、入学させるのかと、訊いているのです」
彼は苦笑しつつ、白々しく答える。
「エリザベートは罪人ではないだろう。母のドロテーアが色々問題を起こしていただけだ」
それに彼女は完璧な笑顔で答える。
「あら、エリザベートが我が孫に危害を加えたのをお忘れですか? ええ、お忘れなのでしょうね。平民が貴族へ害を与えたら、それはもうどうなるか、分かり切っているでしょうから。ですからお兄様は、自らの息子や甥が平民のエリザベートを罰しようとしたのを、揉み消されたのでしょう?」
それに彼は沈黙で答えた。
それでも、エリザベートやドロテーアの行状が庇いきれるものではなく、帝宮を追い出さざるを得なかったのだ。
一度では無く二度目なのも大きかった。
尤も、これは伯父からの忠告に従うしかなかっただけであり、彼の本心ではない。
だが彼とて分かっていた。
第三皇子であるゲオルグは幻獣がいるというのに、正式な妻ではない女性を妻同然に扱い、その女性との間の娘に特別待遇を与えるのはおかしいのだと。
正式な結婚をしていなければ、その娘も母も立場が無いのは承知の上だった。
それでもゲオルグの子であり、特別な存在だからエリザベートを優遇した。
実際、エリザベートがドロテーアの腹にいた段階で、ゲオルグの幻獣は誓約を解除する旨を上申していたし、それを必死で自分が死ぬまではどうか誓約していて欲しいと、皇帝自らが頼み込んだのである。
それでなくても、ゲオルグの幻獣はゲオルグを産んだ母の幻獣であり、彼女が自分の命が僅かと悟った時、腹にいたゲオルグをどうか頼むと頼んだからこそ、その幻獣はゲオルグと誓約を交わしたのであって、本来ならゲオルグは幻獣とは誓約も出来ないだろうとも知っていた。
それでも何とか立場と寿命は確保したいと、幻獣へ無理を言ったのは彼なのだ。
「兄上の事ですから、当然エリザベートは護衛兼監視はなさっているのでしょう?」
「ああ」
「どなたか近付く方はいらっしゃいました?」
「おらん。そこまで愚かな者はいない事に安堵した」
マルガレーテは呆れた様に嘆息した。
「本来、監視等という処置を取らず、あの親子は早々に処分が妥当でしょうに。兄上は、ゲオルグ関連に甘すぎます」
妹の歯に衣を着せぬ言葉に苦笑する。
彼とて自覚はあるのだ。
だが自覚があるからといって何も変わらないのは、重大な問題だろうとも分かっている。
周囲の者達が妹をはじめ危惧している事も承知だ。
彼は伯父には直接忠告を受けた。
あの、基本こちらに任せて滅多に助言もしない伯父が言う位だ。
自分はかなり皇帝として危険なのだろうとも彼は思う。
伯父ならば、あの飄々とした気さくな態度のまま、ゲオルグ諸とも総て事故死の判断を下すのだろう。
だが、自分にはゲオルグとエリザベートを切り捨てる事がどうしてもできない。
これが長男や次男ならば国の為に可能だ。
だが、三男であるゲオルグとその娘のエリザベートだけは、どう考えても無理なのだ……
これは、贔屓だ。
そう彼は独りごちる。
公正に在らねば、国家の、国民の安寧を脅かすモノを許してはならない立場であるにも関わらず、不安要素を放置している。
一番の問題点は、内心では未来の皇妃をエリザベートにしたいと思っているし、相手は彼女の望み通りにフリードリヒにしようかと考えているのだが、伯父や妹の手前我慢している所だろうか。
それを問題点だと思っている時点で、既に彼は自らへの認識が誤っているのだが、それには一切気付いていない。
間違いなく、妹の方が皇帝に向いていた、そう彼は思っている。
能力が無くなったから、妹は皇帝に慣れなかったのだと、彼は堅く信じている。
自分には不似合いだと、彼は長年思い続けているのだし、自分はルディアスとフリードリヒの、どちらかの繋ぎとしてしか期待されていないと、彼は思い込んでいる。
それを裏付けるように、本来の皇帝候補、否、妻を亡くした伯父の花嫁候補であった妹は、幼少期からこちらの異能を防御する術を習っていた。
無論彼がそれを習ったのは彼女が習得してからだったのも知っている。
ルディアスやフリードリヒには、どちらかがエルザの婚約者にならない限りは教えられない技術だ。
これはいかに二人といえど習得できないように、神々が封じているのだがら安心ではある。
二人の力は近々必要になる。
その時、どちらかが欠けるのは不味いという打算にまみれた汚い選択だと、彼は思っている。
そう、伯父ならば、違う判断をしたのだろうか。
妹の愛する、伯父ならば……
彼は、未だに伯父の判断を理解できないでいる。
だからこそ、常に内心で伯父と自分を比べ続けているのだ。
だから、彼はまた考える。
マルガレーテは、どう考えていたのだろう。
自分の愛する男が、自分を別の男に嫁がせる決定を下したのを。
彼にはそれが分からない。
自分なら、と考える。
自分なら、能力が無くなったぐらいで、彼女を自分以外の男に嫁がせる等という判断は、絶対に下さない――――
「陛下、噂で聞きましたが、エリザベートを入学したと同時に恩赦して、無罪放免にするというのは本当でしょうか?」
「ああ、そのつもりだ」
マルガレーテは絶句した。
その、さも当然で、何も悪い事をしているつもりのない、自らの兄にして皇帝たる男の言葉に、心底、不安を感じた。
皇帝たる男にしてみれば、当然の処置である。
罪人のままでは可哀想ではないか。
彼は心からそう思っているのだ。
平民であれば、年齢関係なく極刑に処されてもおかしくない罪を犯しているにも関わらず、である。
それにこうも思っている。
罪人のままでは入学出来ない。
あの学校へ入学するか否かによって変わってくるものは多いのだ。
だから彼はエリザベートの入学は絶対に譲らない。
彼にとっては、可愛い孫のちょっとした焼きもちや悪戯、そういう認識なのだ。
そう、只々、大切な孫の些細なやんちゃ。
だから帝宮から追い出すのもおかしいと、そう思ってはいたが、彼女の罪が重いのもその時は理解していたし、自戒出来ていた。
平民なのだから、皇族の血を引いているとはいえ処罰しなくてはならないのだ。
それを何故罰せなければならないのだと、そう考える方がおかしいと、段々彼は分からなくなってしまっている。
以前は自戒出来ていたことが、年々難しくなっているのだ。
そう、全ては孫と息子が可愛く只々大切が故。
マルガレーテは気を取り直し、妹として訊ねた。
「お兄様、エルザの婚約相手は、まだお決めにならないのですか?」
過去を彷徨っていた彼の思考が、呼び戻される。
「何分強力な戦力だ。今失うのは問題外だろう」
そう答えただけで、妹は分かったらしい。
ルディアスもフリードリヒも、エルザを失えば正気を保てるか疑問である。
その場合、最悪の障害になりかねず、出来得るならば自分が死ぬギリギリまで決めるのを伸ばしたい程だが、それではエルザの寿命が尽きかねず、彼は頭を痛めている。
かの大陸の民が大侵攻をするのは間近であろうし、その直後に殲滅させるのが良いのではないかと長年の研究結果から出ているのもあり、その為の準備は何代も前からされている。
後はタイミングだろう。
その際、ルディアスもフリードリヒも貴重な戦力となってくれるだろうと彼は確信していた。
最も皇帝に相応しくない自分が、長年の悲願を実行するなど、皮肉に過ぎると彼は自嘲する。
「……分かりました。ですが、今度エリザベートが問題を起こすようなら、陛下、考えて下さいませ」
マルガレーテは強い眼差しで兄を見ると、静かに退出していく。
それを残念だと、彼は思う。
彼女が確かにここにいたと確かめるように目を瞑る。
アンドラングの皇族には、困った特性があるのだと、自分を思い返しつつ、ルディアスとフリードリヒ、エリザベートの事を考える。
彼等とて、その特性を生まれ持ってしまったのだろうことは想像に難くない。
一度心を奪われたら、その相手以外愛せないという、困った特性。
それでも、決められた相手に自分の心を殺して結婚するのが当たり前だ。
それがルディアスの場合は難しいかもしれないと、彼は感じている。
どうやら伯父や妹も同様に考えているらしいが、彼は自分の事を棚に上げ、ルディアスの件は頭が痛いと思っている。
最悪、ルディアスには人工授精も考えておく腹積もりだ。
能力的には劣る可能性も高いが、それでも貴重な遺伝子を残すのは重要だろう。
それ以外での彼のこの特性での心配事は、息子であるゲオルグの事だ。
自分の場合は息子だったから大丈夫だった。
だが、エリザベートは娘だ。
その事に危険を感じ、これでも引き離したのだが、その点については妹は分かっていないだろうと彼は嘆息する。
彼の知る限り、妹は、誰かに好意を持った相手が狂っていた場合の想定が出来ていない。
恋は何を誘発するか分からないという点が、妹は分かっていないのだ。
それは孫のエルザも同様らしく、こちらでも危惧している。
彼なりに、甥のハインも、その娘のエルザも、気に掛けているのだ。
ただ、それ以上に彼にとってゲオルグとエリザベートが大事なだけで。
それに、自分の子供と孫を気に掛けるのが何故いけないのか、その思いが年々強くなっているのだ。
第一皇子や第二皇子も自らの子供であるというのに、彼等にはその考えが及ばないし、ゲオルグとエリザベートには気に掛けている、というレベルをとうに超えている事にも、彼は気が付かない。
そして彼は独りごちる。
例の魔導結晶に類似したモノの件もある。
あれの材料の調査結果は、彼等を滅ぼすには良い口実になるだろう事は間違いない。
大侵攻の前に先制攻撃をするべき、との意見もある。
確かに、あの結晶を使われる前に、何より材料を確保される前に、彼等を全滅させる方が良いだろう。
国民を守るならばなおのこと。
そして攫われた少年から取り出された、我等にとって忌まわしきモノ。
それの恐らくは進化したと思しき品。
時間をかければ危険なのは明らかだ。
国を守るのならば、専守防衛等と甘い事は言っていられない。
先に攻撃されれば被害は出かねず、ならば、やはり先制攻撃だろうと彼は考え、時期について思考を巡らす。
疑問点はいつくもあるが、まず第一に、魔導結晶以上のモノを作成する技術をどうやって手に入れたのか。
第二に、探査装置の目を如何にして誤魔化しているのか。
疑問は後から後から湧いてくるが、全くの謎なのが不気味だ。
やはり異界の存在が関与しているのか。
世界の危機的状況を考えた時、彼等が原因か遠因かは別にして、確かに何か影響を与えているのは確実だ。
それは以前からの統計からも裏付けされている。
問題はタイミングだろう。
幻獣の王にも、異界の者達は分からないというのなら――――
この重要な時に、息子や孫娘の件でごたつくのはよろしくない事も、当初は彼なりに理解はしていた。
それでも、あの子等が、彼にはどうしようもなく大事なのだ。
そう、国よりも他の家族よりも、それこそ何にも、とある一人を除けば勝る程に……
国よりも自分の都合を優先させる時点で、皇帝としては失格だ。
それは分かっていた。
伯父や妹ならば違う事も彼は知っている。
そう、だから自分は早々に帝位を退くべきだとも彼は思っていた。
だがそうすると、ゲオルグやエリザベートは守れない。
そう煩悶とし、妹を思う。
彼女はだから伯父なのだろうか等と埒もない思考に陥り、そして嘆息する。
この皇族の特性は厄介だ、と。
いくつになっても、思い切る事が出来ない。
そう、この特性があるのだから、きっと妹も伯父をまだ好きなのだろうと、分かっている――――
いつもの様に述懐し、重い溜め息を吐き、これ以上考えるのを彼は放棄した。
マルガレーテが退出すると、直ぐに寄り添う影がある。
エドヴァルドの父にして、バーベンベルク公爵家の当主兼この国の暗部を同時に司るフルコである。
「いかがでした?」
問う彼に苦笑する。
「聞いていたのでしょう? 兄にも困った物ね」
そう、この状態こそが問題だと、兄は分かっていない。
彼女はそう独りごち、嘆息する。
ゲオルグとエリザベート関連では、皇帝たる兄の判断は正常ではないと既に思う者がいて、その者等が妹であり降嫁している自分の元に次々に注進に来る時点で、大いに問題なのである。
彼女にしても、大切な息子や孫娘に、ひいては臣下や国民に被害が行きかねない事も含め危惧していたのだが、先程の皇帝にして兄たる男の言葉に、既に危険域だと認識を改めた。
『陛下が上皇陛下に禅譲して頂くのは……?』
脳内に、フルコの声が響く。
彼もマルガレーテ同様、危険だと判断したのだろう。
『それはそれでまた面倒になります……とはいえ、ルディアスとフリードリヒがまだ成人まで間がありますしね。ルディアスかフリードリヒか決めるのは、大侵攻の後が妥当だと、私も思います。でしたら、やはり、上皇陛下に頼むのが一番なのか……内々にお茶でもしましょうか』
脳内で彼女は返し、嘆息する。
この頃溜め息が増えた。
原因は分かっている。
兄だ。
自覚はあるのに是正する気が無いなど、狂ったかと言わざる負えない。
否、既に自覚さえ無くしているのかもしれない。
何の益にもならぬ、むしろ害しか及ぼさない罪人を庇うなど、常軌を逸していると判断されても文句は言えまい。
ドロテーアの正気を喪わせ、病院に隔離したのは評価するが、一番の問題はゲオルグとエリザベートであり、二人に同様の事が出来ない時点で問題だ。
あの二人は帝室の権威や格式に既にひびを入れているというのに、何を考えているのだ。
彼女はそう思い、嘆息する。
信頼さえも失墜しかねない現状、あの二人は即刻消えてもらうべきだ。
大侵攻も近いだろう昨今、危険は出来るだけ除外しておくべきだろうに。
かの大陸の浄化処置もしなければならないのだ。
不安定要素は、取り除くのが一番だ。
先ず大問題として、かの大陸の危険度は今現在跳ね上がっている事がある。
あの魔導結晶よりも強力で危険な物質は、製造方法も含めて重大事だ。
それに加えて、我々の先祖が辛酸を嘗めた要因になった危険なモノの進化版。
可及的速やかに排除しなければならないと、決意せざるを得ない代物。
更に言えば、この世界の危機的状況から鑑みるに、かの大陸の民か、はたまた異界の者のせいでこの事態が起こっているのかも謎のままだ。
そして、どうやって帝宮からエルザ達を誘拐したのかも解明出来ていないというのに……
それに加え、現在の帝国の異常な状態。
彼女には、頭が痛い問題ばかりだ。
現在の帝国には問題が山積みであり、特に名無しの大陸関係は深刻だ。
その状況下で、ゲオルグやエリザベート関連が足を引っ張りかねない。
彼等が何かをしでかし、それが最悪のタイミングだった場合、兄はどんな判断をするか分からないのだ。
これは重大な危機だろう。
兄は分かっているのだろうか。
現在、深刻化している世界中での異常気象に天変地異。
加えて、進化としか言えない名無しの大陸の技術と能力の進歩。
これ以上の不安要素など冗談ではないと、彼女は独りごちた。
こういう時に、彼女はいつも思うのだ。
何故、自分は力を喪失してしまったのかと。
その忸怩たる思いを隠し、彼女は考える。
彼女は兄を大切な家族だと思っているし、昔から優秀な彼を尊敬してきた。
皇帝に相応しいとも思っていた。
それがゲオルグとエリザベートの事になるとおかしくなるのだから、歯がゆいとも彼女は思っている。
今度エリザベートがエルザへ危害を加えたなら、その時、兄がまた正常な判断が出来ないと言うのならば――――
彼女は覚悟を決め、執務室のある方を一瞬視て、この世界で最も美麗な宮殿を後にした。
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