エルピスの鐘・短編集

鯛めし

しあわせな一日(フロレンシア)



 漆黒から徐々に藍の空に変わり、ゆっくりと昇ってくる太陽に合わせて橙の光が差し込み、空一面が輝くこの時をフロレンシアは待ちわびる。

 この景色の中で、彼女は早朝特有の冷たい空気を吸い込むことが好きだった。なぜなら、深く呼吸をすると冷たくすっきりとした感覚が身体中に巡って、昨日までの自分が新しくなったようにさえ思えるからだ。今の時期、昼夜の寒暖差が大きいフロレンシアの暮らす地方では、早朝の厚着は必需品だ。彼女も羊の毛で織った上着とスカートを着込んで早朝や夜の作業を行う。母が編んでくれた気に入りのマフラーを口元まで上げながら、フロレンシアは飼っている鶏の玉子を取りに行く。


 フロレンシアの家は小さな果樹園と羊から得る毛と肉を売ることで生計を立てている。

 父のクーロは、若い頃に事故で失った左足の代わりに杖をついて、主にオレンジを栽培している果樹園をみている。手塩にかけて育てる娘のように、ひとつひとつ大切に世話をしたクーロの作ったオレンジはフロレンシアの数ある誇りの一つだ。

 父は寡黙だが、フロレンシアが一人で暗い顔をしていると静かに隣にいてくれて、時折頭を撫でてくれる。父の側にいると心が安らぐので、悩みを抱えた時は父の元へ行くのがいつの間にか習慣になっている。

 母のイルマは、羊から取れた毛から糸を紡いだり潰した羊の肉を加工したり、夫と共にオレンジの間引きや出荷も行うなど、仕事の負担が多い。身体があまり丈夫ではないイルマに、働きすぎだからもう休んでとフロレンシアは言うのだが母は決まって白い歯を見せるのだ。


「こんなのへっちゃらだよ」


 この言葉は、フロレンシアにとっては魔法のように思えた。幼い頃、熱を出して涙が出るほど辛かった時も母はそう言って彼女の背中を擦った。フロレンシアの弟妹たちが怪我をしたり悩み事を相談すると、母は決まって魔法の言葉を言って、笑って抱き締める。フロレンシアも時折、弟妹たちにやってみるのだが、母のようには中々上手くいかない。

 母の笑顔はもぎたてのオレンジのように明るく瑞々しい。

 そんな優しい両親の力になりたくて、フロレンシアは物心がつく頃から少しずつ家の仕事を手伝うようになった。すっかり大人になった今は父母の仕事の手伝いの傍ら、家事全般、そしてまだ幼い弟妹たちの面倒を見るのが彼女の主な仕事だ。


 飼っている雄鶏の鳴き声や羊たちの鳴き声、もしくはフロレンシアが起こしに行くのいずれかで子供たちは起きる。フロレンシアが起こしに来る頃になり寝室へと向かうと、何処からかクスクスと笑いが漏れてきて、彼女は感づく。足音をなるべく立てずにドアの隙間から寝室を伺い見る。中では、五つの頭が毛布から覗いており何やらひそひそ話をしていた。そこで彼女が壁をトン、と叩くと五つの頭が勢いよく毛布の中へと引っ込んだ。明らかに何か企まれているのだが、何となくその様子が可愛らしくて、フロレンシアは橙色の瞳を細めながら静かに寝室へと入る。

 そして勢いよく毛布を取り去った。


「アンタたち起きなさーーい!」


 笑いながら足をバタつかせたのは長男のベルナルド。

 目を真ん丸に見開いたまま動かない次男のラミロ。

 きょとんとしてフロレンシアを見たままなのは次女のマリセラ。

 きゃーっと身体を縮こませたのは三女のイサベル。

 一際大きな笑い声をあげてマリセラにしがみつくのは三男にして末っ子のタシト。


「おねえちゃん、いつきづいとったの?」

「ふふっ、声聞こえたのよ。声の高さからいったらタシトかイサベルかな」

 フロレンシアのその言葉で長男のベルナルドがイサベルを睨む。

「イサベル! おめえが笑っちゃったから、姉ちゃんのことびっくりさせる作戦失敗しちゃっただろ!」

「だって我慢出来なかったんだもーん」

 イサベルがベルナルドに向かって舌を出す。

「ほらほら、ベルナルド兄ちゃんとイサベルも喧嘩止めて。ラミロ兄ちゃんのこと見習ってよ、もう着替え始めてる」

 マリセラは寝ぼけ眼のタシトを寝台から立たせると、寝間着のボタンを外し始めている。

「わ、いっけね!」

 それからは各自着替え、軽く朝食を摂ってから自分の仕事の準備をする。主にベルナルドとラミロが羊の放牧と世話、マリセラが末っ子のタシトのお守り、イサベルは果樹園の手伝い……と小さな子供たちでも、フロレンシアの家では立派な戦力になっていた。

 小さくとも頼もしい、そして賑やかなこの弟妹たちを彼女は宝物のように思っていた。



 お昼を過ぎた頃、仕事が一段落したフロレンシアは、村の外れにある水車小屋へと向かう。小屋へと続く小路では行き交う者はおらず、彼女はほっと安堵の息を吐いた。これからあの人に会いに行く自分を何となく人に見られたくない。考えただけで頬に朱みが差す。


 水車小屋に入ると先客がいた。黒髪に緑色の瞳の青年は、フロレンシアの顔を見ると微笑んだ。

「フローラ、仕事お疲れ。疲れてねえ?」

「あなたこそお疲れ様。セシリオに会うのも久しぶりね」

「だね、俺も親父の仕事手伝ってたりしてたから。……そういえば、これ食べね?」

 セシリオは上着から小さな袋を取り出した。中身はレーズンで、フロレンシアは丁度甘いものが食べたかったの、とはにかんだ。


 それからは、レーズンを口に入れながら二人で他愛もない話をした。

 セシリオは積極的に話しかけるよりも、人の話を聞くことを好む気質なので、フロレンシアの話を相づちを打ちながら聞いていた。彼女も彼女で話始めたは良いものの、セシリオの瞳を見るたびに急に話の続きを忘れてしまったり、時折彼の顔を見ては顔を綻ばせたりするので、話が進まない。

 だが、彼らは幸せそうだった。この時を、この瞬間を大切にするように、お互いに見つめ合う。


 唐突に切り出したのはセシリオからだった。

「フローラ、俺たち互いのこと好き合うようになってからもう半年くらい経つだろ?」

「そうね。もうそんなになるのかあ……。小さい時から一緒だけど、セシリオのこと恋愛対象で見ることになるって思わなかった。あなたもびっくりしたでしょ?」

「ああ。フローラから打ち明けられた時は夜も眠れなかったくらい。でも今はすげえ幸せだ。仕事の合間を縫って、二人きりで会えるのが」

 セシリオの浅黒く骨ばった手がフロレンシアの手を握る。握る力が強いのは、伝えたい気持ちの現れなのかもしれない。


「フローラ、俺たちのこと近々親父に話そうと思う」


 セシリオの父親はフロレンシアの村の長だ。

 村長に二人の関係を伝えてしまったら、道は一つ、結婚しかない。

 この村の慣習としては基本的に親同士が結婚相手を決めるのだが、恋愛となると余程の事情……例えば、相手の家族の素行が悪かったり花嫁側が持参金を支払えない場合など、がない限り許されることが多い。その点、フロレンシアの村は比較的大らかだと言える。


「頼りねえ男かもしれねえけど、これからも俺のこと支えて欲しい。そんで、二人で幸せになろう」


 セシリオの緑色の瞳が優しく細められる。強く握られた手から彼の覚悟を感じた。フロレンシアはその手を同じぐらいの強さで握り返した。

「はい、私からも宜しくお願いします」

 そういうとフロレンシアはセシリオにもたれ掛かる。同時に抱き締められることで感じるセシリオのぬくもりが、彼女を落ち着かなくさせた。

 お互いの鼓動が聞こえる中、長い時間二人はそうしていた。


 セシリオとの逢瀬を終え、フロレンシアは自宅への道をゆっくり歩いて帰る。セシリオは去り際に彼女の長い髪を梳きながら、また会える時はいつも通りフロレンシアの家の前に目印を置いておくから、と白い歯を見せた。セシリオからの求婚を受けたフロレンシアは頬を上気させ、あまりの嬉しさから飛んで喜びたい気分でいっぱいだった。幼い頃から憧れていた、親同士が決めるのではない、恋愛からの結婚。

 これからのセシリオとの生活のことを考えるだけで、フロレンシアは喜んで何でも出来る気がした。体力を使う父や母の仕事を手伝うのも、時には面倒に思う家事も、思い通りにいかないことも多々ある幼い弟妹たちの面倒も。


「あら、フロレンシアじゃない、どうもー」

「こんにちは! ダイラさんちの牛どうですか? もしかしてもう生まれちゃいました?」

「それがさ、今朝生まれたのよ! しかも雌でね、うちの父ちゃんの嬉しがりようったら 」

 ダイラは口元を隠すように笑う。ダイラ自身も嬉しかったに違いない。

「元気に育つといいですね!」


 フロレンシアの中の幸せに、ひとつ幸せが上乗せされた。


「おー。ファビオ、今日も元気ねえ。もうすぐ春だけど、そんなに薄着でいいの?」

「走り回るから大丈夫! それはそうと、聞いてくれよフロレンシア姉ちゃん。今月、俺の誕生月なんだよ!」

「あっそういえば! おめでとうファビー!」

 ファビオの巻き毛をくしゃっと撫でてフロレンシアは笑った。

「へへ、ありがとよ。今日は母さんが肉と蜂蜜ケーキ用意してくれるんだ!」

「良かったわね、一年元気に過ごすのよ」


 彼女の中の幸せに、もうひとつ幸せが上乗せされる。


「ロレンソさん、こんにちは」

「おっフロレンシアかい。何だか嬉しそうじゃないか」

「ふふっ、ちょっとね。そういえば家の修理もうすぐ終りですね」

「おう。二、三日中には終わるんじゃないか。ようやく冷たいすきま風ともオサラバだな。なあ、素人にしては中々上手く出来たと思わねえかい」

「うん、とっても綺麗です! うちも外壁壊れたらロレンソさんにやってもらおうかな、なんて!」

「ははっ! 嬉しいこと言ってくれんじゃねえかー」


 出会う人、出会う人、皆笑顔で。

 フロレンシアの心にある幸せに皆の幸せが次々に上乗せされていく。今日も冬の終りにも関わらず、太陽は柔らかい光で村を照らし風も温めで、もうすぐ訪れる春の気配を感じる陽気だ。そんな気持ち良い季節の変わり目も手伝って、フロレンシアはこれ以上ない程の心嬉しさを味わっていた。


「フローラ!」

 フロレンシアが家路に着く途中に横路から出てきたのは、親友のエルバだった。彼女はフロレンシアとは対称的におっとりとした性格で、茶色の長い髪を緩く三つ編みにしている。二人はエルバの方が一歳下で、フロレンシアが何でも話せる人間の一人だ。

「エルバ! 昨日ぶりー!」

 抱きつくフロレンシアを抱き止めるとエルバがふわりと笑う。

「私も今家に帰る所なの。途中まで一緒に帰ろう?」

「もちろん!」

 早速、二人並んで歩き始める。エルバの手荷物が多かったので、半分はフロレンシアが持ってあげた。フロレンシアが先程会った人たちのことを話すと、エルバは目を細めながら相づちを打つ。そして微笑んで皆幸せそうで良かったね、とフロレンシアに笑いかけるのだった。そんな心優しい親友であるエルバにフロレンシアはあのことを話したくてうずうずしていた。心優しい親友のことだから、悪いことは言われないだろうとは思う。ただ、言おうとすると恥ずかしくて言葉が詰まってしまう。


「エルバ。あのね、うーんとね……」

 言葉にならない呟きだけが増えていく。

「言い淀むなんてフローラらしくないね、何かあった?」

「言うのすっっごい恥ずかしいんだけど。いや、嬉しいことなんだけど」

 思わず顔を押さえて表情を隠すフロレンシアを覗き込むエルバは不思議そうな顔をしつつもどことなく楽しそうだ。

「嬉しいことなんだったら教えて? 聞きたいなあフローラの嬉し恥ずかし話」

「うん、ちょっと待ってね……」

 すーはーすーはーと呼吸を整えると、フロレンシアはエルバの目を真っ直ぐ見た。


「今日、セシリオから求婚されました……」


「……ほんと?」

 エルバは琥珀色の大きな目をこれ以上ない程見開いていた。

「今でも心が飛び出しそうなんだけど、うん」

 暫くきょとんとしたエルバは、次の瞬間には満面の笑みに変わっていた。そしてフロレンシアに抱きついた。

「おめでとう!! 一瞬ぽかーんってしちゃったよ、だって今までそんな脈絡なかったよね?」

「それが全く無かったのよ……」

 苦笑いするフロレンシアの両手を、エルバは包み込むように握る。

「フローラ、私自分のことみたいに嬉しい。だって、親友のフローラと幼馴染のセシリオが結婚なんて、こんなに嬉しいってことない!」

「エルバ、まだ予定だからね……!まだセシリオ、村長さんに話してないって言ってたし。だから、今はエルバと私とのナイショ」

 フロレンシアは人差し指を唇に当てると、エルバを真似をして笑った。

「こんなに嬉しい内緒話、そうそうないね」

 それからは互いの家業の話に移ると、これも両家族とも上手くいきそうだというのも二人の笑みを益々深くさせた。

 フロレンシアの家のオレンジももうすぐ収穫であるし、出来も例年通り良さそうだ。エルバの家の家業である馬や駱駝生産も安定しており、今度アンフィポータズ王国南方総督府の騎士の元にエルバの父が育てた馬を贈ることになったとエルバは誇らしげに語った。


「おめでとう! フローラ!」

 去り際に手を振りながらエルバは家へ帰っていった。

 フロレンシアも家へ入ると、すぐさま夕食の準備を始める。幸いにも途中で手の空いたイサベルも手伝ってくれ、早めに出来上がった食事はそれぞれの仕事を終えた家族が笑い声の中平らげていく。

 フロレンシアは自分もパンを口に運びながら、他の家族を覗き見る。


 父が静かだが、時折口元を緩ませてスープを口にする。

 母はスープをパンに浸しながら、ベルナルドの話に耳を傾けている。

 ベルナルドはパンを勢いよく囓りつつ、今日あったことを早口で母に報告している。

 ラミロは父と同じく静かに食事をするが、スープが気に入ったようで、その後二杯もおかわりを要求した。

 マリセラは食後のデザートの干したイチジクが気になってしょうがないようで、終始身体をそわそわさせていた。

 イサベルは珍しくタシトの世話を焼いている。きっと自分が手伝って作った食事だからあれこれ説明をしているのだ。だが肝心のタシトは眠いのか食事中にも関わらず船を漕いでいる。

 家族が全員揃っての夕食も幸せなことのひとつなのだと改めてフロレンシアは感じた。



 五人の弟妹が寝静まった後、フロレンシアも同じ寝床へと身体を潜り込ませる。

 今日あったことを思い出すと、この場で手足をバタバタさせたくなる衝動に駆られるが静かな空間でそれをやってしまうと皆を起こしてしまう。フロレンシアは深呼吸をして、心が落ち着くのを待った。


「今日はびっくりしたけど、幸せな一日だったなあ……」


 フロレンシアは段々と目蓋が重くなっていくのを感じ、そのまま受け入れる。

 今日あったことが走馬灯のように思い出された。

 朝の朝日と冷たい空気、セシリオとの逢瀬、村人たちとの会話、親友エルバとの語らい、そして家族揃っての食卓。


 王都に住む人は自分たちの生活をつまらなく平凡というかもしれない。

 だが何事も起きず、普段通りの生活が日々出来ることが、自分たちの幸せなのだ。そしてその中でおめでたいことがあれば、村をあげて祝う祭りとなる。

 近い未来、セシリオとフロレンシアの婚礼が村をあげて祝われることだろう。

 幸せというものを形に出来るのなら、今日のフロレンシアの幸せは上乗せされた分も含め、かなりの高さに違いない。そして幸せは今日のように他人から貰うことも出来るし、反対に自身の分を他人に分け与えることも出来る。

 またそれらは相乗効果で更に幸せを生むことも彼女は知っている。

 今日は特に幸せが満ち溢れた日だったとフロレンシアは、ほうと息を吐く。


 自分も皆に幸せをあげられているだろうか?

 そして願わくば、今日と同じくらい明日も幸せでありますように。


 フロレンシアは暖かい気持ちのまま、眠りについた。





 END.

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