宝木咲耶

 ハロー、みなとくん。

 私は今、アイルランドにいます。


 日本とは遠く離れた、ほとんど地球の反対側。

 そこに私がいるのは、ひとえに大学で勉強したことを実践しようと思ったから。

 比較文化人類学、なんてすごくマイナーなジャンルだけど、世界にはいろんな人がいて、いろんな考え方をして生きてるっていうのは、私にとってすごく新鮮だったから。

 せっかくだから実際に見に行ってみよう、って思って選んだのが、アイルランドだったんだ。


 イギリスのお隣、っていえば分かりやすいかな。

 そんなお土地柄にもれず、ここも見渡す限りの大草原と、青空が広がってる。

 たまに羊とか牛の姿も見えて、のどかで平和な空気だよ。日本とは全然違うね。

 ここには目覚まし時計もカレンダーもなくて、誰にも急かされることはない。


 ケルト文化の発祥の地とは思えないような、のんびりした雰囲気。

 神話の勇猛な戦士たちのイメージがあったから、とってもびっくりした。やっぱり直に見に行ってよかったね。

 お世話になっているお家で出されるお茶は、ティーパックじゃなくていつもお茶っ葉だった。「いちいちポットを片づけるのとか、面倒じゃないですか?」って訊いたら、きょとんとした顔で「どうして? 美味しいんだから、これでいいんじゃないかしら」って言われたよ。

 ここでは時間が、とてもゆっくり流れている。


 でもたまに、新しいものを持ち込んでくる人もいる。

 街に一件、世界のいろんな調理法を学んで、ご飯を出してるお店があるんだ。シェフさんはエールさんっていう名前で、毎日やってくる近所の人に料理を出し続けている。


 エールさんは創作料理が好きで、私はたまに彼の新作の味見を任されたりもするよ。

 牛肉の赤ワイン煮込み、美味しかったなあ。ただ煮込むだけじゃなくていろんな工夫をしてるみたいで、口に入れるといろんな味がするの。

 食感も柔らかくて、どんな秘密があるのか今度訊いてみようと思ってる。お店にはローズマリーとかセージとかのスパイスも置いてあって、やっぱり本格的。色々教わってみたいな。

 日本食にも興味があるみたいで、私も簡単なものだけどエールさんに教えてあげた。

 すごく喜んでくれて、豚肉ってこんな味になるんだ! って大興奮だったよ。お醤油の入手がちょっと難しかったけど、その分アイルランドでできた肉じゃがは特別なものだった。


 そんな風に世界中の料理を作るのが好きなエールさんだけど、彼のお店に来る人が頼むのは、いつもの定食ばかり。

 マッシュポテトとソーダブレッド。羊のお肉とかローストサーモン。

 伝統的なアイリッシュ料理。他のも美味しいのに、と私は思うけどエールさんは「仕方ないさ。彼らも興味はあるみたい。でも踏み出せないんだ」と苦笑している。

 チラチラとメニューの見知らぬ料理の名前を見て、けれども馴染みのものを頼む。

 そんな毎日を繰り返している。昔の私とおんなじ。

 外には自分の知らないものがあって、知らない世界が広がっているっていうのに。

 どこかで諦めていたんだ。どうせ何をしても変わらないって――何をしようが、世界は違う姿を見せることはなくて。

 景色は灰色のまま、自分は朽ちていく。

 そう思ってた。けど、そんなところから私を連れ出してくれたのは、湊くんだったんだよ。


 エールさん曰く、これでも街の人は昔より、他のものに目を向けてくれるようになった方らしい。

 すごくゆっくりと、時間は流れている。

 その中で、彼ら彼女らも、少しずつ変わっていったんだ。

 冒険してくれるようになった、みたい。結局、そういうものなのかな。

 ほんの少し足を延ばして、見える世界を広げていくの。

 そうしていくとたまに、今回の私みたいに全然違う景色に行き当たることがある。

 この間、雨が降った後に大きな虹がかかったときは、すごくびっくりした。

 草原にかかる水滴がキラキラ光っていて、澄んだ風が流れる中で虹を見上げたんだ。

 ちょっと日本にいたときは、想像できない光景だった。

 写真を撮ったから、送るね。あとはそう、エールさんが作ってくれた料理も、すごく美味しそうで――


「サクヤ」


 と。

 メールの文章を打ち込んでいた私に、エールさんが話しかけてきた。

 手には彼の作った料理。野菜ごろごろのアイリッシュシチュー。お手製ソーセージ。ドライフルーツを盛り込んだケーキ。

 他のお客さんのところに料理を運んでいたところに、私が目に入ったらしい。

 きょとんとする私に、エールさんは笑って言ってくる。


「いい顔をしてるね」

「そうですか?」

「ああ、好きな人のことを考えているときの目をしている」


 冗談ぽく言って、彼は注文の品を他のお客さんへと運んでいった。

 そんなに顔に出ていただろうか。苦笑しつつエールさんの後ろ姿を見送る。

 どうも私は、前にもそういう表情をしていたことがあったらしい。以前彼から料理のことを聞いていたとき、同じセリフを言われたことがある。

 だって、ご飯というのは食べる人のことを考えて作るものだろう。

 だったら、湊くんのことを思い浮かべていても、何もおかしくはない。ちょうどそこで運ばれてきた料理に小さな歓声を上げて、舌鼓を打つ彼らのように、その表情を見るとほっこりする。

 教わった料理を作って出したら、あなたもそんな顔をするのだろうか。

 そう思いつつ、やっぱりふふふと笑う。想像しただけで楽しくなってしまうのだから、いい加減私も変わったものだ。

 世界はこんなに広くて、こんなに美しい場所なんだと、私は彼に教わった。

 まだまだ知らない景色がこの先にもあるのだと思うと、ワクワクする。


 この気持ちを一刻も早く伝えたくて、とりあえず手持ちの料理の画像を湊くんに送った。エールさんの作ったご飯はどんなジャンルでも美味しそうで、見るだけでも弾む気持ちになれる。

 日本にいる彼も、この写真を見て喜んでくれるだろうか。

 そう思っていたら――地球の反対側。遠く離れたところから、すぐに返事が送られてきた。


「……『飯テロ画像を送らないでくれ』……?」


 文明の利器ってすごいなあ、と彼岸の距離を越えてやってきた返事に、感心していたのも束の間。謎の文面に私は首を傾げる。

 飯テロ。深夜などに非常に美味しそうな料理の写真を見せる行為だ。

 窓の外は穏やかな日差しに満ちていて、とてもそんな単語が出てきそうな様子はない。

 ならば、なぜ――と考えて。


「あ」


 私は口走る。

 日本とアイルランドの時差は九時間。

 つまりこちらが昼間ならば、向こうはどうしようもなく夜なのだ。

 しまった。こちらののんびりとした雰囲気にあてられたのか、何も考えず撮ってきた写真をたくさん送り付けてしまった。

 慌てて、こうなった理由と経緯を説明する。全然怒ってないだろうけど、さすがにこれはちょっとやりすぎた。謝罪させていただこう。

 遠く海の向こうにいる彼との距離は、まだまだ縮まりそうもないようだけど。

 少しずつ、見える景色を変えていこう。

 たくさんのものを携えて、勇気を出して断絶を飛び越えていこう。

 こんな私を助けてくれた、湊くんの喜ぶ顔を見るために。

 傍にいるために――そう思って、私は再びメールを彼に送った。


 世界には、まだまだ。

 私の知らない景色が広がっている。

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