第448話 船の向かう場所

「やれやれ、あの調子ならなんとかなりそうか」


 教室から出ていく、明日から部長になる後輩を見送って、湊鍵太郎みなとけんたろうは息をついた。

 先ほど演奏がらみでトラブルになりかけた写真部だが、あの三つ編みお下げが上手くやってくれれば問題ない。

 学校祭が終わっても、支障なく吹奏楽部は活動をすることができるだろう。さらにあの後輩に、同じ部長としての付き合いができれば願ってもないことではある。

 自分だって他の部活の部長には、何かと助けられたのだから――と、同じクラスでおにぎりを売っている、野球部の元キャプテンを見ていると。

 次期部長と入れ替わるようにして、見知った顔が教室に入ってきた。


「やあ、湊くん」

桐生きりゅうさん!」


 鍵太郎に手を振ってきたのは、以前オーケストラを見に行ったとき、バイオリンを弾いていた桐生嘉秀きりゅうよしひでだ。

 彼の他にも、そこには同じ楽団に所属するメンバーがいる。


「おう、けんたろう。げんきか」

「あらボウヤ、メガネかけたのね。これはこれで……じゅるり」

「ほっほっほ。息災で何より」

「みなさんも、お元気そうでよかったです」


 コルネット吹きのちびっこ、オーボエ吹きの美女、指揮者の老人と、まさに老若男女といった組み合わせ。

 去年の学校祭以来となる再会に、鍵太郎の顔が自然とほころぶ。みな変わりなさそうで、いつもどおりのやり取りを交わせることに安心した。

 普通に生活しているとなかなか接点がないこの四人だが、それでも本番となるとこうして足を運んできてくれる。

 年に一度、舞台を通してつながっているようなものだった。知り合いと久しぶりに会えるのは嬉しい――今も「年増」「ちんちくりん!」とののしり合うちびっこと美女を眺めていると、この人たちも相変わらずだなあとおかしくて笑ってしまう。

 そんな四人にとりあえず席を勧めて、メニューを渡し――

 ふと思うところがあって、鍵太郎は桐生に質問した。


「そういえば、桐生さん。そちらの団ってトランペットの団員を募集してたりします?」

「ん? なんだい藪から棒に」


 鍵太郎の担当はチューバなので、別の楽器の名前が出てくることは意外だったらしい。

 毛むくじゃらの顔の奥の瞳を、桐生はぱちくりと瞬かせた。風体はごつい彼だが、その指は非常に繊細に弦の間を動く。

 性格的にも穏やかで真面目であり、相談相手としては申し分なかった。若干ジャンルは違うが、同じ音楽系の団体に長く所属している桐生の意見は、大いに参考にしたい。

 あのトランペットのOG、そして自分は、今後どんな形で楽器を吹き続ければいいか――。

 その答えを探し、鍵太郎は幅広い人種の集まる、楽団の大人に言う。


「実は――」



 ###



「ふむ。おおよその事情は分かった」


 鍵太郎が事のあらましを説明すると、桐生は髭で覆われた顎をじょりりと撫でた。

 トランペットのOGが、吹ける場所を探していること。

 そして自分も、卒業後どんな風に楽器を続けるか、考えていること――そのために周りとも、話し合ったりしていること。

 大体の事情を打ち明け終えると、バイオリニストはふうむと考えつつ言ってくる。


「まず最初に楽器のことだが、うちの団にも備品はない。入団するなら自分の楽器を持ってからになるな。あと練習場所まで自力で来られるようになってから」

「あー。やっぱりそうなりますよねえ」


 半ば予想していた返事に、鍵太郎も苦笑いする。

 楽器を自分で用意すること、練習場所を確保すること。

 それは今朝、OBの打楽器の先輩とも話したことではある。

 ただ、最後の『一緒に吹く人間がいること』――これについて桐生は、一定の理解を示す。


「けれどそれさえクリアできれば、うちの団に来てもらって全然構わない。むしろ大歓迎だ。ちゃんと団費を払って、ちゃんと練習に来てくれれば」

「ああ、そうですよね、そこからもお金かかるんですもんね……」

「たまに、団費を払わず雲隠れする人間がいるものでね……こればっかりは、きちんとさせておかないとならないんだ」


 何やら嫌な思い出があるのか、桐生はやや遠い目で渋面になった。

 楽団の運営に関しても、色々あるということなのだろう。

 不特定多数の人間が集まる以上、何かしらのトラブルは生じる。ただ、あのOGであればそんな心配はなさそうではあった。

 であれば、今後の行く先として彼の所属するオーケストラも候補に入る。そして聞く限りでは、どこの一般団体もさほど条件的には変わりなさそうである。

 楽器と、場所と、人。

 それさえ揃えば、あとは個人の好みと予算と腕に相談して、という感じだ。その好みについて、「なにせオケの管楽器は暇だからなあ」と昔、鍵太郎も思ったことをバイオリニストは言う。


「チューバほどじゃないけどね。トランペットもガ―っと吹いてずーっと休み、を繰り返すし。吹いてるときは死にそうだけど、楽章まるまる休みとかあるし。基本的には弦楽器のクオリティがある程度になったら管楽器に入ってもらうことになるし……。そういう面を考えると、常に吹き続けていたい、っていうその子の希望には添えない気がするなあ」

「えんえん吹いていたいなら、うちのブラスバンドもあるぞ!」

「つばさちゃんとこもそれはそれで、死にそうだけどね。まあ、そんなわけでどこの団もわりと、吹き手は引く手あまただよ。用意ができればあとは好きなところを選べばいいと思う」

「なるほど、細かいところは本人次第ってことですね」


 それこそ以前に桐生も言っていたとおり、『団内の心地よい張り具合』というのもあるだろう。

 口を突っ込んできた指揮者の孫の例もあり、視野を広げてみれば案外と、結構な数の選択肢が広がっていそうだった。

 あとはそれから、どれが自分に合っているかを考えればいい。

 どんな服が似合うか、サイズは身の丈なのかを見るように。

 あるいは――と、その先に思考が及びかけたところで。

 桐生は言う。


「楽器と、場所と、人ね。湊くん、それは確かに、演奏をするにあたって確実に必要なものだろうけど――もうひとつ、肝心なものが抜けていると思うんだ」

「なんでしょう?」

「『機会』だよ。演奏を披露する場所。本番の舞台というか」


 演奏会なり、コンクールなり。

 そういう『目標』も、決めておいた方がいいよ――と、長年楽器をやっている人間は、言った。


「ただ楽器を吹くだけだったら、三つがそろっていればできるだろう。けど何に向けて練習するか、っていうものがあった方が、はるかに張り合いはあるんじゃないかな。今度、ニューイヤーコンサートがあるからがんばろう、幼稚園で演奏するからがんばろう、みたいなね。

 話によると、そのトランペットの子はとりあえず学校の楽器を借りて、音楽室で吹くみたいじゃないか。でも、具体的な舞台は設定しておいた方がいいだろうなあと思ってね。ただ吹いてるだけはいずれ飽きる」

「ああ、そうか。なんか本番があることって当たり前すぎて、抜けてました……」

「そりゃそうだよ。部活でもなんでも、どこかの団体に所属すれば、そこの目的が個人の目標にもなるわけだし」


 けど、今後きみが演奏を続けていくにあたって、この『機会』っていうのは考えた方がいいと思うよ――そう、桐生は言った。


「OGの子に関しても、湊くん自身に関しても。誰だってそうだ。『何をしたいか』が個人レベルではっきりしていた方が、いいんじゃないかな。どこの団に行くにしても、選ぶ明確な基準になる」

「何を、したいか……」


 それは。

 ずっとずっと前から言われてきた、自らの心を問う言葉ではなかったか。

 いつまでも、ついて回る影のように、己の形を訊く質問。

 たぶん、その問答をずっと繰り返してきた大人は――こちらに。

 のんびりと微笑んで、見守るように語り掛けてくる。


「楽器と場所と、人か。言いえて妙だね。この三つが船だとしたら、『目標』はコンパスみたいなものかな。自分の方向性のようなものだ。

 立派なものでなくてもいいから、自分が演奏でどんなことをしたいのか、考えてみるといいよ。そうすれば自ずと、どんな団に入ってどんなことをしたいか、イメージできるようになると思うから」


 この先、自分が『何をしたいか』。

 船を作って、星を詠んだら、どこに行こうか。

 どんな舞台に向かおうか――『機会』へと。

 寄せては返す波の音を聞いて。

 宝島を。

 求めに、行くのか――そこまで考えて。

 鍵太郎はゆっくりと、首を振った。


「……すみません、今すぐは分かりません。でも、お話を聞いて少し、考えが進んだ気がします」

「謝ることはないさ。遭難することもあるし、漂流することもある。長く楽器を続けていれば、色々なことがあるもんだよ」


 けどまあ、案外となんとかなるもんさ――と、桐生は一緒にやってきた、同じ団の面子を見て笑った。

 クセのある人間に囲まれて、それでもやっていけている彼が言うとなかなかに説得力がある。

 まあ、そこの老指揮者は運ばれてきた水を飲もうとして、盛大にむせているのだけど――それを孫娘と妖艶な熟女が、慌てて介抱していた。

 この人たちはきっとこの先も、こうして進んでいくのだろう。

 鍵太郎が隣を行く船を見るような心地で彼ら彼女らを見ていれば、船頭たるバイオリニストはそんなこちらに言った。


「まあ、どんな道を行くことしたとしても、そのときはまた知らせてくれたら嬉しいな。うちの団に入ってくれるということであれば、もちろん歓迎するし」


 そしてこちらのこともひとりの奏者として認め――桐生は、鍵太郎に向かって言う。


「そういう楽しい機会があったら私たちもまた、観客としてやって来るからさ」

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