第430話 後悔しない選択肢

『学校祭、私も見に行きますね、みなとさん!』


 湊鍵太郎みなとけんたろうの携帯の向こうで言ったのは、他校の吹奏楽部の元部長、柳橋葵やなぎはしあおいだった。

 先日彼女の学校に楽器を借りた際、引退したとはいえ葵にも学校祭だということは伝わったらしい。

 近所の学校で、以前合同バンドを組んで一緒の舞台に乗った生徒。

 そんな人間からの申し出を断ったりしない。むしろ見に来てほしいといった心持ちで、鍵太郎は言う。


「ありがとうございます。土日とあるんですけど、二日目の日曜日の方が楽しめるかと思います。そっちは、OBOGを交えての演奏もあるので」

『すごいですね! そういうの、うちの学校でもやればよかったな。るり子先生絶対張り切りそう』


 では、日曜日に伺いますね――と、葵は弾んだ声で言ってきた。

 彼女の学校は既に県大会でコンクールの挑戦を終え、その時点で葵も部長からは退しりぞいている。

 だからなのか、他校の吹奏楽部の元部長は、気負いというものがなくなっているようだった。

 以前より明るくなっているように感じる。そんな声音に首を傾げ、鍵太郎は葵に言った。


「なんか、柳橋さん楽しそうですね。そんなに楽しみにしてくれるっていうんなら、こちらとしてもやりがいがあるんですけど」

『えっ、そ、そうでふね、がんばってくらはい!』


 噛んだ。

 その辺りはこちらの知っている彼女と変わらないらしい。

 だとしても、ちょっと不自然なくらい携帯の向こうの葵は張り切っているように思える。それは久しぶりに自らになじみの深い舞台を見られるからか、受験勉強というものから一時でも解放されるからか。

 それとも、他校のコンサートだから気楽に足を運べるということなのか――または。


「柳橋さん」


 純粋に部長という役割から解き放たれたからか。

 未だそうでない身である鍵太郎は、携帯の向こうの他校の元部長に問う。


「部長を辞めて、どうなりましたか。引退するって――どんな感じですか」

『え、どんな感じって……うーんと、ですねえ』


 下手をすれば、怒りを買う可能性のある質問だった。自分より早く引退したということは、コンクールの成績としては下位――つまり、「おまえの学校はこちらの学校より劣っていた」という意味に取られかねない発言ではあったのだが。

 彼女はもう、あの学校の部活を背負っていない。

 加えて、葵自身の人柄も合同バンドで把握している。鍵太郎が予測したとおり、真面目な彼女は今の言葉を悪意にまみれた形で受け取らなかった。

 だからこそ、信頼に足ると思ってこうして、ふとした疑問を投げかけてみたわけだが。

 もうお互い、それぞれの学校を背負ってバチバチやるようなライバル関係ではない。片方はもう引退し、もう片方も棺桶に片足を突っ込んでいる状態である。

 そんな彼岸の彼方から、葵は『あ、そっか。湊さんはこれから引退なんですもんね』と納得したように言ってきた。


『まあ、なんというか。肩の荷が下りたという感じですかね。身体が物理的に軽くなった気もしました。振り返れば、やり残したこともあったなあって気がするんですけど――それでも、どうしてか不満はありませんでした』

「肩の荷が、下りた」

『はい。あのときはやっちゃったなあ、失敗したなあっていう思い出はあるにはあるんですけど、不思議と後悔はないんです』


 そういう、引きずるというか、べったりした感情は案外となかったですね――と。

 かつての他校の部長は、明るさすら感じる口調で言い切った。

 これから部長を降りる鍵太郎にとって、彼女の言葉はある意味で、一筋の光明のようでもある。

 行く当てのない自分が、たどって行ける細い糸のようでもある――そんな先達である葵は、自身でもその糸をたぐるように記憶を寄せているのだろう。

 少し間を置いて、考えをまとめながら彼女は言う。


『県大会でダメ金だったことも、最後に楽器を音楽室に置いていった日も。終わったなあ、という感じでした。それ以上は何もないというか。やりきったなあ――という印象で』

「やりきった、ですか」

『そうですね。結果は最上のものでなかったから、それはそれで悔しいんですけど。でもそれ以上に、自分の中で手は尽くしたから、よかったという気持ちが強くて』


 考えられる手段は全部取ったし、周りの人間と協力もできた。

 部長として過ごした最後の一年を、駆け抜けることができた。

 それまではオドオドうじうじしていた、柳橋葵が。


『でも、そんな風に思えたのって、湊さんのおかげなんですよ』


 合同バンドで出会ったときは、ずっと困ったように笑っていた彼女が。

 今は携帯の向こうで、そんな顔をしていないんだろうなということが、手に取るように分かる。

 だが葵は、そうなったのはこちらのおかげだと言った。

 手を尽くしたのは彼女の方で、別にこちらは何もしてないのに。

 そう言うと、葵はふふ、と笑ってそのまま続ける。


『合同バンドで湊さんを見たから、私はがんばれたんです。私ひとりじゃ、金賞はおろか去年と同じくらいの成績を残せたかどうかも怪しいですし、なによりみんなと正面から向き合えなかった。手を尽くすこともできないまま、後悔まみれで今を過ごしていたと思います』


 だから、と彼女は言う。

 心より、次の舞台を楽しみにしているといった声で。


『今度のステージ、すごく見たいんです。きっと湊さんだったら、私よりも上手くやりきってくれると思うから。ここまでやってきた湊さんなら、できるって信じてます』


 そう、心中の不安を見透かされたのだろうか。

 他校の元部長は励ますように言ってきた。

 一足早く先に行ってしまった彼女は、『肩の荷が下りた感覚』がまだないこちらを気遣っている。

 同じ部長として、心境が理解できるからこそ響く言葉。

 後悔はなく、不満もない。

 ただ、やりきったという気持ちだけがあるからそのまま進め――

 そう言ってくるもうひとりの部長だった人物に、鍵太郎は震えそうになる声を抑え、ようやく感謝を口にする。


「分かり、ました。ありがとう、ございます……」

『ま、まあ私だって! 偉そうなこと言えた身分ではないので! あんまり気にしないでいてくれたら、いいかなーって!』


 こちらが小声になったからだろう。葵は気分を害したと勘違いをしたのだろうか、慌てた様子でそう言ってきた。

 そういうところは、以前と変わっていない。

 思わず顔をほころばせると、他校の元部長はそのまま、心のままを口走る。


『だ、大体、やりきったとか言ってますけど、私もいっこやり残したことはあって! だから今度こそ、それを果たしに行きたいんです!』


 後悔はないと言い切った彼女が、そうまでして成し遂げたかったことというのは、一体なんなのだろうか。

 肩の荷が下りて、身体が軽くなった。

 そんなことを言っていた彼女は。次に会うときは、きっと見たこともないような晴れやかな顔を見せてくれるだろう葵は。

 あきらめずに手を伸ばす。

 最後まで、後悔などないように。

 やりたいことのために全力を尽くせ、と――


『待っててくださいね。今度こそ胸を張って「楽しかった」って私、言いに行きますから!』

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