第429話 ある日の幸せな姉弟の会話
「おはよう」
「……おはよう」
学校祭も間近に迫ってきた、秋の日の朝。
リンネは既に社会人であり、この時間はもう家にはいないはずなのだが――珍しいことに、今日は休みらしい。
部屋着のままくつろいでいる。ソファに寝そべった姉を尻目に、トーストを食べるべく鍵太郎が席に座ると。
その様子を、横からリンネがじーっと見つめてきた。
「……何」
「いやあ、高校に入学した頃と比べて、あんた凛々しくなったなあって」
社会人になっても実家にいる姉は、もちろん生まれたときからこの家にいる。
なので、もちろん鍵太郎のこともずっと見てきている。そのリンネが言うのだから、外見上はそれなりに変わってきているのだろう。
中身はともかく。そう考えて鍵太郎がトーストにいちごジャムを塗ってもしゃもしゃと食べていると、姉は続けてきた。
「高校に入ったときは幽霊みたいな顔してたけど、今はそうでもないなって。吹奏楽部だっけ。部活そんなに楽しいのかなって思ってさ」
「……まあ、それなりにね」
姉の発言に色々と思うことがあって、鍵太郎は曖昧に答えた。
まずひとつが、部活が楽しいかということについて。楽しくか楽しくないかでいったら、そりゃ楽しい。
けれど目を輝かせて「楽しかった」と言うには、この二年半は辛いこともありすぎる気がしたからだ。
何もかもひっくるめて無邪気に笑うといった対応は、嘘が含まれているように思える。身内相手とはいえ、そんな態度は取りたくなかった。
そしてもうひとつが、この姉にはあまり部活の詳しい内情を知られたくなかったという、極めて弟的な理由――
「彼女できた?」
「なんでだよ⁉」
プライベートにずかずかと入り込んできたリンネに、鍵太郎はトーストを噴き出しそうになりながら反論した。
昔からそうなのだが、この姉は弟を体のいいおもちゃだと思っている節がある。
寝ているこちらの口にプリンをぷっちんしてきたり、金属バットを持って追いかけ回されたり。
それはもう、ありとあらゆる悪戯を小さい頃から受けまくってきたのだった。
おかげで『女性に逆らわない』という不文律が、鍵太郎の中には遺伝子レベルで刻まれてしまっている。まあ、それが女性だらけの吹奏楽部において役に立ってきたといえるのだけれども――
だからこそ姉はいつまでも傍若無人だった。
顔を赤くして泣きそうになりながら鍵太郎が突っ込むと、リンネは不満そうに言ってくる。
「えー⁉ 彼女いないのー⁉ ウソ、吹奏楽部って女の子いっぱいいるんでしょ⁉ なんで彼女のひとりやふたりできないのよー⁉」
「ふたりいたらおかしいだろ⁉ 大体、うちの部のやつらってそんなんじゃないからな⁉ そろいもそろって音楽のことしか頭にない、アマゾネスみたいなやつらなんだからな⁉」
当の本人たちが聞いたら串刺しにされそうなことを、家なので思う存分ぶちまける。
まあ、若干一名こちらに告白してきた後輩はいるのだが、アレはアレで呪いの藁人形とか持っていそうなのでさて置いて。
女だらけとはいえ、周囲を見回しても彼女にするには、どうも首を傾げたくなる連中ばかりなのである。ああ、そう考えると自分が部長になって誰とも付き合う気がなくなったのって、こっちだけじゃなくあいつらにも原因があるんじゃないか――と、鍵太郎が思っていると。
姉は口を尖らせつつ、納得いかないといった風に言ってきた。
「ぶーぶー。せっかくの高校生活なんだから、青春を謳歌しなさいよー。彼女作っていちゃいちゃしなさいよー。その方が楽しいでしょー?」
「楽しいのってリン姉の方じゃない⁉ それをネタに弟をからかうの丸見えだよ⁉ ていうか俺、受験生! まずは志望校に合格することが大事です! 彼女云々はまたそれから!」
「そーんなこと言ってたらあっという間におじいちゃんになっちゃうわよ! 後悔する前に幸せにおなりなさい! お姉ちゃんを安心させて!」
「安心も何も、彼女をネタにひたすらいいようにされる未来しか見えんわ!」
ムチャクチャを言ってくる実姉に、渾身の力を入れてツッコミを入れる。
朝からカロリーの消費が激しい。二枚目のトーストにマーマレードジャムを塗って口に入れる。確かに、姉の言うとおり高校に入学したての頃はこんな会話もできないくらい衰弱していた。
身体はともかく、心の方がおぼつかなかった。
それがこうして図太くパンを食べて言い争いをするくらいにはなっているのだから、そのときと比べて顔色はよくなっているのだろう。
ある意味ではあのアマゾネス――吹奏楽部の連中のおかげかもしれない。姉の『いちゃいちゃする』というセリフに同い年が先日発した『生殖行為』という単語がだぶるが、ざくりとパンを噛んで首を振る。彼女たちとそういう関係になると想像するだけで、どうもこう、耳まで真っ赤になるような気恥ずかしさを覚える。
身近だからこそ何を今さら、といった風に思ってしまうのだ――この姉のように。
ふと見れば、そんな実姉はソファでごろごろしながら色気もそっけもない姿をさらしていた。
「……」
「何よ」
「……いや、別に」
そっちこそ、彼氏とかいないんじゃないのか、と言いたくなるのをぐっとこらえていると。
リンネは、弟の気持ちなど知らず大げさにため息をついて嘆く。
「うー。弟がヘタレだわー。彼女を作る気概もない甲斐なしだったわー。どうしようかしら、幸せを拒否する人間に幸せになる権利はないと思うのだけど」
「……幸せを拒否する人間に、幸せになる権利はない、ね」
姉の発した何気ないセリフに、ふと、パンを食べる手が止まる。
この間、似たようなことを後輩に言われたのだ。
『先輩が本当にやりたいことは何ですか』――そんな、あなたは何が幸せなのか、というようなことを。
考えた末に答えはしたのだが、何やら同じ楽器のあの後輩は、理解はしつつも納得はいっていない、といった様子だった。
それ以上なにがあるのか、と訊いても答えてくれなかったので、その話題はお流れになったのだが。
彼女はつまり、もっと個人的な幸せを追求してほしかったのかもしれない。
それがなんなのか、いまいち掴めなかったわけだが――姉の言によると、例えばそれは、彼女を作っていちゃいちゃするといったような。
そんな身近で当たり前のことを指していたのだろう。当たり前すぎて忘れていた、人として普通の営み。
それをずっと拒否していたのだから、まあ心配もされるか――と、後輩の最後の歪な笑顔を思い出して、鍵太郎は頭をかいた。まあ彼女を作る云々でなくとも、例えば上手くなりたいなあという望みでさえ、拒否すれば成就しない。
姉の言うとおり、幸せになるつもりのないヘタレに自分は見えたのかもしれない。
改めて指摘されればそのとおりだった。なので後輩への罪滅ぼしの意味も込めて、鍵太郎は口を開く。
「ねえ、姉ちゃん」
「?」
「俺、別に幸せになりたくないわけじゃないから、心配しないで」
首を傾げるリンネを尻目に、食事を再開する。
好きなジャムを付けて、かぶりつくトーストは美味しかった。
そのくらいは感じるようになったのだ――図々しくも、こんなことを言えるくらいに厚かましくなった。
味も、色も、匂いも。
分かるくらいには成長した――入部したときより。
一度そうでなかった状況を経験したからこそ、分かることがある。
「一回、俺みんなに八つ当たりしちゃったじゃん。恵まれてないんだ、認められてないんだって――で、それでどっか、遠慮してたけどさ。
あの部活に入ってから、そうじゃないんじゃないかな、って思える人たちに会えたわけよ」
ステージの上は、勝手に抱えたそんな傷なんてちっぽけに思えるくらい、騒々しい連中でいっぱいだった。
いろんなところに引っ張り回されて。
身勝手なことをたくさん言われて。
挙げ句、現実はこんなものだと思い知らされもしたけれど――
「今度の学校祭では、そういう人たちがいっぱい集まるんだ。で、俺はその人たちに応えたいの。恥ずかしがらずにさ。
それって――好意を拒絶するわけじゃない、受け入れたいって考えなわけだよね。不幸せなまま立場を嘆く自分とは、かけ離れてると思うんだ、たぶん」
それでも、この人たちと一緒にいたいと。
あんな風にすごい人たちのようになりたいと、思う自分がいる。
かつて自分に吹き込まれた、暴風のような生命の息吹。
それをちゃんと返す時が来た。
少し怖いけれど、きっと緊張して足は震えるけど、逃げないでいようという意思は固まった。
「幸せになっても大丈夫って覚悟かな。ガツガツ求めにいくってわけじゃないけれど――それでも俺は俺なりに、拒否しないで受け止めていこうと思ってる。だから、まあ……今度の本番が終わったら。
今よりもっとマシな顔になってると思うから、安心してほしい」
当たり前のように傍にある、普通の営み。
それを、素直に認めようと思う。
かつて手負いの狼のように与えられるものを拒否していた、そんな自分とはおさらばして。
勇気を出して、差し出される手を取ろう――そのときに、本当に『楽しい』と。
この姉に、胸を張って言えるのかもしれない。
そう思っていると。
「え? じゃあ何、学校祭が終わったら彼女ができるってこと?」
「なんでそうなるんだよ、姉ちゃん⁉」
肝心の姉は全く分かってくれていなくて、鍵太郎は声を大にして叫んだ。
この実姉は吹奏楽部の女子たちの悪いところを全部詰め込んで、かつ全てが善意で自覚なしという困った人間である。
だからこそ、こちらはこちらでやるから、構わないでくれとはっきり言ったのだが――まさか、ここまで人の話を聞いていないとは思わなかった。
「だってさー。あんたがもっとたのしいーっていい顔するって、彼女ができたよどぅえへへへーって緩んだ顔してるときじゃないの? ていうかこれ以上の幸せある? お姉ちゃんとしてはそれを望むけど」
「今の俺はそれ以前の問題だよ! 彼女の前に人間としてですよ、人間として! ていうかそんな顔してたら絶対からかって遊ぶんだろリン姉、分かってるんだよ、そのとおりになってたまるか!」
こんな姉だから今まで彼女たちについて語るのはずっと敬遠していたのだが、ついに話してしまった。
鍵太郎が頭を抱えていると、天使のような悪魔は目を輝かせて言う。
「高校の学校祭って、一般客も見に行けるんだよね? 私もコンサート行っていーい⁉ 未来の妹ちゃんに会えるかもしれないー!」
「来んな‼ 絶対、来んな‼」
受け入れると覚悟したそばから、差し出される手を振り払う。
ありふれた朝の、なんてことない姉弟の会話。
二年半でできるようになったことといえば、それくらい。
だけどそんな当たり前のことができるようになった辺り――やっぱりあの部活であったことは楽しかったのだと、胸を張って言えるのだと思う。
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