第401話 夏の夜の終わり

 信じられない景色が眼下に広がっていた。

 楽器をしまって閉会式に出ろと言ったはずなのに、部員たちがその場にとどまっている。

 だけど、確かにそれだったら表彰のときには歓声も悲鳴も聞こえないよなあ――と、湊鍵太郎みなとけんたろうは頭の片隅で妙に納得しながら、その光景を見つめていた。

 東関東大会。

 その本番は終わり、夜空には星がまたたいている。

 結果は惜しくも銀賞で、先ほどまで副部長の千渡光莉せんどひかりと一緒に悔しさを吐露し合っていたのだけれども――そんなことを一瞬でも吹き飛ばすくらいの力が、目の前にあった。

 コンクールの演奏が終わった後は、いつも記念撮影がある。

 けれども、今回は閉会式に間に合わせるため、鍵太郎と光莉はそこには加わらず離れていた。部長と副部長がステージにいなければ、大会全体の進行に支障が出る。そのための措置だ。

 だから、今年の写真には自分たちは、載らないことまで覚悟を決めていた。

 なのに。


「馬鹿野郎……。客席で待ってろって言ったじゃねえか……」


 彼女たちは、こちらの指示に逆らって、ずっとここにいたのだ。

 しまわれていない楽器たちが、それを証明している。まったくどこまでも勝手なやつらだ――と思いつつ、部長と副部長に気づいて手を振ってくる部員たちを見返す。

 全員が笑顔でこちらを出迎えようとしている様は、なんというか――


「……なあ。千渡、泣いてるか」

「泣いて……ない、わよ……!」


 結果に打ちひしがれていた自分たちの涙を、違うものに塗り替えるほどのものがあった。

 言いたいことは山ほどある。ちゃんと閉会式には出ろとか、ただでさえ遠いのにもっと帰りが遅くなるだろうとか――けれど、そんなものを押しのけて違う感情がどうしても湧いてきてしまうのだ。

 置いていかないで待っていてくれて、ありがとう。

 そこにいてくれて、ありがとう――そんな気持ちが。


「みなとー! ひかりちゃんー! はやくー!」


 そんなことを考えていたら、同い年の浅沼涼子あさぬまりょうこの能天気な声が聞こえてきた。

 それに応え、二人で涙をぬぐって、階段を駆け下りる。

 堅苦しいところに放り込まれて、現実を叩きつけられて帰ってきて。

 とぼとぼと歩いていたら、そこには予想もしない景色が広がっていたのだ――むしろこれが夢なのではないかと思いたくもなる。

 けれど、夢ではなかった。

 笑いながら迎え入れてくれたみなは、幻などではなかった。全員が質量があって、形もあって、色彩もある――ただの、人間だった。

 触れればそこは、温かかった。


「おまえら、なんでここにいるんだよ。閉会式に出ろって言ったろ……!」

「だーって、湊も光莉ちゃんもいない写真なんてあり得ないじゃん!」

「二人して、端っこの方に顔写真でも入れるつもりだったの? そーんなのナイナイ!」

「馬鹿だよ……おまえらホント馬鹿……」


 即座に言い返してきた越戸こえどゆかりと越戸こえどみのりの双子姉妹に、やっとそれだけ言う。

 あっけらかんとしている彼女たちとは対照的に、複雑な顔をしている部員だっていた。

 だから鍵太郎は、そんな同い年である片柳隣花かたやなぎりんかに声をかける。


「意外だったよ、片柳。おまえこそ、こういうのは反対して閉会式に出るべきだって言いそうだけど」

「いや。その……」


 彼女こそ、無茶を言わずに道理を優先しそうなものではあった。

 しかし隣花は、自分でもどう口にしたものかと困ったように考えて、わずかな沈黙の後に言う。


「……迷ったけど。けど、やっぱりこの場にあなたたちがいないのは、おかしいような気がして。このままじゃ私たちは、カメラの前で心の底から笑えない――そんな風に思ったの」

「そっか。ありがとな」


 自身でも戸惑ったように言ってくる同い年に、それこそ笑ってそう返す。

 コンクールの記念撮影は、本番が終わった後の最高の表情を切り取るためのものだ。

 だったらそうしなくては自分たちを貫けない――そんな隣花のロジックは、正しいのかもしれない。

 結果はどうあれ、ファインダーの中の人々はそれでいい。そして、そんな自分たちの学校の主張ワガママを受け入れてくれたのであろう。この大会の写真撮影係であるおじさんに、鍵太郎は言う。


「すみません。なんかうちの学校が無理言っちゃったみたいで」

「いやあ、構いませんよ」


 対して、そのカメラマンの係員はまぶしそうに笑った。

 人の顔を収めるのが仕事で、それでお金をもらって。

 そして、今きっと終了予定時刻を大幅に過ぎているであろうその人は――しかし、楽しそうに言う。


「たまにいるんです、こういう学校さん。閉会式に部長と副部長が行っちゃって、でもどうしても一緒に写真を撮りたいから、撮影を待ってくれないかって――頼まれたんです、今回も。だったら私はそれに従うまでですよ」

「――ありがとうございます」


 笑いながら手早くカメラをセットするおじさんに、それだけ言って小走りに所定の場所に行く。

 この人の気持ちに報いるためにも、すぐに撮影に取り掛からなくてはならない。

 そう思って鍵太郎が最前列の端、金色のデカい、存在感のある自分の楽器のところへ向かうと。

 そこには同じ楽器の後輩、大月芽衣おおつきめいがいた。


「……おかえりなさい。先輩」

「うん、ただいま」


 思いもよらぬ形で再会することになった芽衣に、それだけ言う。

 彼女もまた、待っていてくれたのだろう。ここに自分が帰ってくることを。隣で変わらず、楽器を持って立つことを。

 ひょっとしたら、全員で一緒に写真を撮りたいと言い出したのは、この小さな一年生だったのかもしれない。

 だが今は、それを追及せず――鍵太郎は、持ち主がいないまま置かれていた楽器を手に取った。

 バックには星と、街灯と。

 そしていつの間にか上ってきていたのであろう。大きな月が浮かんでいる。

 真っ暗な中にある、そんな様々な光たち。

 それを見て一度だけ深呼吸し、そして振り返る。その途中で宝木咲耶たからぎさくやが、何も言わずに穏やかに微笑んでいるのが見えた。

『どんなことになっても、私は一緒にいる』――そう言っていたこの同い年は、あるいはこうなることが分かっていたのかもしれない。

 いや、それは言いすぎか。彼女の手にする、バスクラリネットの先代の吹き手ではあるまいし――だから咲耶はこれを予見していた、というよりは。

 本当に何があっても、こうするつもりだった、と言えるだろう。

 改めて正面を見据えれば、カメラマンはばっちりとスタンバイしている。準備完了、あとは写真を撮るだけ――それでこの一日は終わる。

 一枚目はいつもどおり、真面目な雰囲気でパシャリと撮影。問題は二枚目だ。「はい、何かみなさん、ポーズをお願いしまーす!」というセリフと共に、部員たちが「どうする⁉」「なにやる⁉」と騒ぎ始める。

 それに「適当でいいぞー!」と鍵太郎が応えると、周りは「適当って何よ⁉」「指示が大雑把すぎて分からないですよー」と文句を言いながらも、好き勝手にポーズを取り始めた。

 全体で見ればバラバラで、統率が取れていないけれども。

 それが自分たちの、本当の姿だったように思う。


「はい、いい感じですねー! じゃあこっち見てください!」


 そんなカメラマンの言葉に、全員の視線が正面を向いた。脚立を使って組み立てられた、大掛かりな機材。乗せられた立派なストロボ。

 夜闇を切り裂くほどに光るそれは、瞬間的でさえ太陽を連想させる。

 真っ白い光で小さな紙に、この空間を焼き付ける――そんなことを仕事にしている人は、手を振ってからカメラに指を添えた。


「三、二、一で撮りますからねー! ではいきますよー! さーん!」


 いつだったかこんな風に集合写真を撮るとき、いち足すいちは、と訊かれたことがある。

 それは硬い表情でも笑顔になれるようにととなえられた、定型句だった。にい――口角を上げて映るよう、編み出された魔法の呪文。

 そんなものは自分たちには必要ない、と思われたのだろうか。

 それとも、ありのままの表情を収めることができればそれでいい、と思われたのだろうか――カウトダウンは続く。


「いち――!」


 と――その瞬間。

 何を操作したのだろうか。カメラマンのおじさんの手が動いて、その頭にあったものが、宙を舞った。

 カツラだった。

 予想もしていなかったことが起きて、全員の視線がそちらに向く。口をぽかんと開けて、飛び出したその小道具を見上げれば――それは放物線を描いて落下し、同時におじさんの禿げあがった頭が視界に入ってきた。

 ピカピカ光る、ありのままの姿をさらしたその人は、自分たちに向けてシャッターを切る。


 ゼロ。


 フラッシュがたかれて、驚いた自分たちの姿がカメラに収められた。

 カツラは地に落ち、周囲は大爆笑に包まれる。そしてその光景もまた、連続で撮られ続け――何枚目かも分からない光が瞬いた後に、「ありがとうございましたー!」というカメラマンの声が聞こえてきた。

 そうなってもしばらく、みなの笑いは収まらなくて。

 鍵太郎もそこに混じって、大きく声を響かせていた。

 機械仕掛けの神様デウス・エクス・マキナ

 生きた部品たちが舞台上で行う、理不尽なほどに救われる奇跡。

 それは悪夢であったのか、それともひどい夢オチであったのか――

 長い長い夜の果てに、その光景は現実となって、その場に焼き付けられることになった。



第26幕 夏の夜の夢~了

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