第397話 最後を飾る

 エレベーターが上の階に到着して、聞いていたとおり係員の女の子が看板を取りにやってきて。

 託されていたそれを渡し、湊鍵太郎みなとけんたろうは周囲を見渡した。

 鋼鉄の網や、柱の居並ぶ背景。

 そこに安置された数々の照明器具。

 よく見慣れた、そしてなじみのある風景だった。よこはま芸術劇場。その舞台裏。

 東関東大会、本番――そこにある一枚の壁向こうでは、今もどこかの県の代表校が演奏を繰り広げている。

 ロビーでも客席でも聞いていたが、舞台裏で聞くと他校の演奏というのは、妙に上手く聞こえる。そのことに若干怖気おじけづいた雰囲気が流れる中、指揮者の先生が静かに言った。


「みんな、初めてのホールで緊張するかもしれないけど。落ち着いて、いつもどおりやれば大丈夫だから。隣の人の音をよく聞いて。そこに合わせていこう。はい、深呼吸ー」


 先生の動作に合わせて、部員たちが大きく吸って、そして大きく吐く。

 それに、少しだけ笑いがもれて――そんな空気の中、鍵太郎は微笑ましさと、少しの虚しさを覚えていた。

 これは、ひとときの暗示のようなものだ。

 本番の大きさを誤魔化そうという、ほんの小さな希望。お守りのようなもの。

 けれども、すがらずにはいられないもの――自身も気休めにと深呼吸を繰り返していると、鍵太郎の隣で同じ楽器の一年生、大月芽衣おおつきめいが言う。


「いよいよですね、先輩」

「……だね」

「あれ、なんだかテンション低いです。緊張してるんですか?」

「……かもしれない」


 というより、神経質ナーバスになっているといった方が近いのかもしれない。

 元々、目の前の状況には飛びつくというよりも、落とし穴がないか慎重に見極めるタチである。初めての支部大会、そして初めてのホールに持ち前の警戒心が働いているのだろう。

 先ほどから何か見落としがないか、頭が異様なほどにチェック項目を読み上げている。

 ここまで来たらやるしかないだろうに、そうした自分の性格が本当に嫌になるというか、もう本当に嫌になる。

 思わず二回言ってしまうくらい、うんざりするものだ。鍵太郎がため息をついていると、そんな先輩を見て芽衣はかすかに笑って言う。


「緊張するのはそれだけこの本番が大切だからだと、いつだったか聞きました」

「……そうだね、大切だ」


 そして、それを彼女に言い聞かせたのは自分自身だった。

 ここを越えれば、東日本大会が待っている。

 そしてその向こうに、『あの人』も待っている――そんなことを連座して考えてしまって、首を振る。今はそのことに意識を割いている場合ではない。

 東関東大会のレベルは、分かっていたが尋常でなく高い。

 それに対抗するためには、まず目の前の本番に集中することが重要だ。これが終わったら――なんて、考える余裕もない。

 そんな思考パターンになるということは、やはり自分は緊張をしているし、視野狭窄きょうさくを起こしているということなのだろう。

 自分を落ち着けるため、鍵太郎は先ほど先生に言われたように、深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。指示通りにやるというのはどうにもしゃくだが、今はそのお守りを握りしめるしかない。

 舞台袖には、恐ろしいほど上手い、どこかの演奏が響いてきている。

 上の大会に行くということは、この音を上回らなければならないということだ。

 それが、果たしてできるのだろうか。

 いや、でも。

 自分のやりたいことは、本当はそうじゃなかったはずなのにな――と、それこそナーバスになっていたからだろうか。

 ため息と共に、虚無に近い疲労感を覚えていると。

 後輩が言う。


「私にとっても、この本番は大切です。先輩と一緒にできるコンクールですから。だから緊張しています」

「……そっか」


 一緒にできる本番だから。

 それが大切だから、緊張しています――そんな、当たり前といえば当たり前のことを改めて思い出して、鍵太郎はそれだけ返事をした。

 先生の言うことをちゃんと聞いていなかったのは、こっちの方だったかもしれない。

『隣にいる人の音を聞け』――なんて、そんな基本中の基本ともいっていいことを。

 守るのが当然の、しかしだからこそとても難しいことを。

 自分は、見失っていたのだ。初歩の初歩、けれどもいつの間にか忘れがちなことを、彼女は思い出させてくれた。

 思えば芽衣とはひとつの約束をした。『一緒に吹こう』。

 最初に会った日、ただそうやって声をかけた。

 それを守り通すと決めた。

 だったら、それだけを考えよう。誰かを上回るとか、この先なにが待っているとか、そういうことはいったん横に置いておいて。

 何をやりたいか。

 それだけを考えて、この本番には臨もう。

 競争心とか未来への不安に関しては、相手にしないようにこの後輩には言ったはずなのに――今度は自分が、それを教えられることになってしまった。

 立場が逆だ。一周回って、自分は初心者で入部してきたあの頃に戻ってきてしまったのかもしれない。

 初めての会場。

 初めての支部大会コンクール

 三年生になった今だって、こんな状況に置かれたら緊張する。そして楽器を始めたての頃に戻ってしまう。

 だからこそ、核心だけはいつまでも持っていたいと思う――誰かを守ることを。

 そういえば、と思い出す。去年のホール練習でも、先生は似たようなことを言っていた。全員がバラバラになった舞台でも、距離感に惑わされないで吹いていこうと――散々、言われてきた。

 これまでの練習でも、合宿所でも。今も。

 人の音を聞いて、自分の音を出して、それを混ぜ合わせていこうと。


「……平気だ。きっと」


 襲い来る不安の中、自らに言い聞かせるように、そう口にする。

 今年はそんな気持ちに加えて、音楽のルールを叩き込んできた。血の通った機械になるという矛盾。それを抱えているものの、ここまで来たら信じていくしかない。

 彼岸の断絶を飛び越えて。

 自分たちの絆を示していくしかないのだ。



###



 話には聞いていたが、東関東大会の最後を飾るのは、本当に自分たちだった。

 昼過ぎに会場に着いて、もう数時間が経つ。タイムスケジュールを考えるならば、今頃ホールの外は夕闇に包まれていることだろう。

 だから顧問の先生は、昨日の合宿をあり得ない、と言った。

 普通だったら当日出発して、演奏して日帰りをするところだ。それをわがままを言って、前泊にしてもらった。

 誰もが生き生きとして演奏をするために。

 昨日の夜にあったことは、楽しくて馬鹿みたいで、こんなときであっても鮮烈に思い出せる。

 それを頭の中に浮かべながら、鍵太郎は譜面台に楽譜を置いた。そこにはこう書かれている――『いつも心に太陽を』。

 そう、こんな状況だからこそ、心には炎をともしていかねばなるまい。

 自分たちが、光り輝くために――そう思って、大きく息を吸って、吐いたそのとき。

 舞台の照明が、一気に明るくなった。


『三十五番。川連第二高校吹奏楽部』


 自分たちの学校の名前がアナウンスされ、客席からまばらな拍手が起こる。

 初出場の、名も知らぬ学校。しかもこれが終われば閉会式。

 適当に流して終わればいい、などといった雰囲気が流れているような気がする。

 けれども、そんなものには負けない。

 誰にも期待されていない、といった空気とか。

 もう聞き飽きた、といった疲労とか。

 とか――そういった心の声には、もう負けない。

 指揮者の先生が自分たちの方を向き、一度胸に手を当て、そして軽く耳を叩いた。

 もう一度。よく聞いて、という合図だろう。

 それに目だけで鍵太郎はうなずき――指揮棒は、構えられた。

『プリマヴェーラ』。

 その曲はまるで、自分が入部してからこれまで歩いてきた道のようだ、と思った。

 だから今年の大会は、強引にこれで通させてもらった。それにみな文句も言わず、それでいいよ、と言ってくれた。


 脳裏に、昨日の夜に見たお菓子の城がよぎる。


 誰もがみな、優しかった。

 だからそれは、奇跡的なバランスでもって、高く高くそびえていた。

 あり得ない光景。

 そして、ここはいつもの音楽室ではない。

 そこから遠く離れた、圧倒されるほどの大きな建物――そんな場所だったからだろうか。


「――」


 振られた指揮棒に続いて出た音は、ハーモニーは、少しずつズレているように聞こえた。

 ほんの少しの衝撃で、崩れるであろう理想の城に。

 加えられたそれは、十分な終わりの合図だった。

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