第386話 髪を下ろすと別人に見える
「あー、ひどい目にあった……」
二年生女子にもみくちゃにされて、ズタボロになりつつ。
ちなみに、女子風呂では今同い年の双子姉妹がもっとひどいことを話し合っているのだが、それは鍵太郎の想像の
ともあれ、なんだかもう色々と汚されてしまった感じなので、早く風呂に入りたい。そんな気持ちで歩いていると――
「……あれ?」
髪の長い、見慣れない女の子を見つけて、足が止まる。
洗面所で髪を乾かしているその子は、自分の部活の女子部員――なのだろうが、印象がその誰にも当てはまらない。
背が高くて、脚がすらっとしていて、髪の長い――その女子部員は。
こちらに気が付いたのか、そのまま顔を向けてくる。
「あ、湊」
「え、あ……その声、
そう、彼女は、同い年の
鍵太郎は、あまりの変貌っぷりに驚きの声をあげていた。
彼女はいつも髪をポニーテールにしているわけだが、それを下ろしただけでこんなにも変わるものなのか。
しかし本人はそんな自覚はないようで、不思議そうに首を傾げてくる。
「うん、そうだよ。どうかした?」
「いや、どうもこうも……まあいいや。そのまま髪を乾かせ。風邪ひくぞ」
「うん」
風呂上がりなのだろう。濡れた髪をドライヤーで乾かすその姿は、初めて見るので当たり前だが新鮮に見えた。
そして、あのアホの子がちゃんと女の子に見えるから理不尽だった。元気はつらつ、後先考えず走り回る天真爛漫娘――そんなイメージが、ガラガラと崩れていく。
髪が長いせいか、乾かすのに時間がかかるらしい。それまでの時間つぶしか、どうだったか――
涼子は、ぽつりとこちらに言った。
「なんかさ。みんな、ずっと難しいことを言ってるんだよ」
その声は、印象が変わっているせいか、いつもとはひどく違うものに聞こえて。
彼女を天才的トロンボーン奏者でもない、部活の友達でもない。
本当にただの、女の子のように思わせる。
「部屋でも、お風呂でも。コンクールの結果で何が変わる、とか、プラトニックラブがどうだ、とか」
「……浅沼?」
その横顔は、いつもの能天気なものにはまるで見えない。
もっと違う――しいて言うなら寂しさ、だろうか。
そんなものをたたえているように見える。
「よく分かんないんだ。みんなの言ってることが。あたしは明日がいい演奏になればいいと思ってるし、それ以外、特に考えてることはないんだけど――みんなは違うみたいなんだ」
それが、こう――なんだろう。
胸のどこかに穴が開いたみたいというか、頭の奥が青くなるというか――そんな気持ちになるんだ。
そう言う涼子に、鍵太郎は戸惑いと同時に、妙な安心感を覚えていた。
この天才児も、やっぱりちゃんとした感覚を持っているのだと確認できたというか。
気が付いたら誰もかれも置き去りにして、突っ走ってしまう涼子も、ちゃんと周りを見渡すことができるんだと分かったというか――けれども、それはそれで彼女らしくないというか。
普段の印象と今そこにいる彼女の雰囲気が違い過ぎて、どうにも困惑してしまう。
それは、ただの女の子としての同い年を見てしまって動揺しているからか、そしてその動揺が、どんな感情に根差しているか悟りたくないからなのか――複雑なところではあるが。
けれど、ひとつだけはっきりしていることがある。
それを言うために、鍵太郎は口を開いた。
「浅沼、あのさ」
「ん?」
「大丈夫だ。みんなおまえを、置いていったりしないから」
様々な思いが入り混じる中からそれを拾い上げて、鍵太郎はそう涼子に言った。
ただ確実に言えることは、どんなに状況が変わっても、自分は――自分たちは、彼女を置いていかないということだった。
たとえ明日の結果がどうなろうとも。
そこに挑むにあたって、個々人がどんな思惑を持っていたとしても。
「別におまえを仲間はずれにしたくて、そういうことしてるんじゃない。むしろ、どうしたらみんなで笑えるのかなって思って、そうやってるだけだから。あんまり気にすんな。難しいことを言ってるかもしれないけど、みんなそれだけ一生懸命なんだよ」
誰かのこんな目に見えない部分を置き去りにして進むほど、自分たちは人でなしではない。
普段表にできない細くて淡いところがあるなんて、そんなのみんな知っている。
それはこの合宿で、散々見てきた。言いたくても上手く言えないことがあると、ここに来て改めて実感した。
それは自分も、そしてこの同い年だって――
「寂しい、のか?」
「……なんだろう。よく分からない」
「そっか。でも今はみんなバラバラじゃないから、安心しろ」
「ん」
いつもと同じような、でも違うやり取りをしていることからして、証明している。
彼女は相変わらず、反応が薄い感じだったけれども――それでもその表情には、少しずつ活力が戻ってきたかのように感じられて。
「そうだよ……そうでなくちゃ調子が狂うんだよ。おまえを可愛いとか綺麗とか思うようになったら、もう俺は色々とおしまいだぞ……」
「?」
「ああいや、難しいことを言おうっていうんじゃない」
再び首を傾げる涼子に、慌ててそう言う。その反射的な反応も、どこから来ているのか――追及するとまずいことになりそうな予感がしたので、放っておく。気づかない振りをする。
その方が、いいような気がしたから。
そうでなければ、それこそ大切なものがバラバラになってしまいそうだったから――あえて崖の限界ギリギリに立って、鍵太郎は言う。
「まあ――なんだ。要は、みんなそれぞれがんばってるから、おまえはそれに力を貸してくれればいいんだよ。それだけの話」
「湊も、がんばってるから?」
「……そうだな。がんばってるから」
ほんの数瞬、答えるのが遅れたのは先ほどの選択のせいだろうか。
彼女に関してだけは、『がんばるのを止めた』――その一点だけで、こんなにも胸が痛む。
けれども、その痛みを無視したことについては、がんばったと褒めてもらいたい。この同い年の力と行動を最大限に発揮するためには、この方がよかった。そう判断しての発言だったと、強がって笑いながら思う。
そんな笑みをどう取ったのだろうか。
涼子は「そっかあ」と、つられたように笑って言った。
「うん――そっか。そうだよね。みんな一緒なんだもんね。湊も、みんなも、別にどこかに行ったりしない。そうだよね」
「ああ。なんだかんだ明日、いい演奏をしようってことには変わりない。その方法がちょっと違うだけだ」
「なるほどねぇ」
そううなずきつつ、果たして彼女がどれくらい理解をしていただろうか。
分からないが、たぶんきっと、ほとんどこちらの考えを察してなどいまい。それでいい。
全貌になどたどり着かれてしまっては、困るのだ。それでこその天才アホの子、浅沼涼子である。段々と元の調子に戻ってきた同い年に内心でほっとしつつ、鍵太郎は息をつく。
なんとか誤魔化し通せた。そのことに少しの罪悪感を覚えながら――
「よし。じゃああたし、部屋に戻るね!」
「うん。おやすみ、浅沼」
「おやすみ!」
髪を乾かし終えたのか、元のポニーテールに戻った涼子にそう返事をする。
すっかりいつもの感じになっている。こいつひょっとして、髪を上げるのと下ろすので、性格が変わるのか――? なんて、そんな失礼なことを考えていたからだろうか。
あるいは、ほんのひとさじの嘘への天罰か。
彼女の半濡れのポニーテールが、身をひるがえした拍子に、勢いよく顔面を叩いてきた。
「……っ
べしん――と、壮大に張られた頬に手をやる。
濡れた毛束というのは、思った以上に威力があるのだ。こうなるのだったら、あの同い年にはずっと髪を下ろしていろと言うべきだったか。
いや、それはそれで、非常に威力があるので勘弁してもらいたいのだが――そんな複雑な心境で、涼子の後ろ姿を目で追う。
そこには、いつものように目的に向かってひた走る彼女がいて。
元気になってよかった、と思うと同時に――
「あれ……? いつもの調子に戻ったら俺、結局ひどい目に合うってことなんじゃない?」
気づかなくてもよかった真実に気づいてしまう鍵太郎だったが、それはこの痛みと共に、甘んじて受け入れることにした。
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