第385話 プラトニック・ラブの洞窟

「プラトニックラブというのはですね。肉体的な欲求によらない、精神的な愛のことです」


 風呂場で水を流しながら、宝木咲耶たからぎさくやは語り始めた。

 ボディソープを泡立てて身体につける。

 首筋につける。腕の先まで伸ばす。そして戻ってきて脇も洗う。


「外見に惹かれるよりも、精神で惹かれ合った方が良い。さらに良いのは、特定の誰かを愛することではなく、愛することを愛すことだというお話です」

「そういうことを全裸で言われても、全く頭に入ってこないよね」

「完璧なバランスボディで言われても、なんの説得力もないよね」


 そしてそんな咲耶の様子に、同学年の越戸こえどゆかりと越戸こえどみのりの双子姉妹は突っ込んだ。

 入浴時間のローテーションも最後、三年生たちのターン。

 明日は本番、ゆっくり風呂に入って休もう――というわけなのだが、まあそこは合宿所の夜である。多少はしゃいだりもする。

 まして、こんな風に裸の付き合いをする、いつもと違う場面なのだから――というわけで、普段は落ち着いている咲耶もテンションが上がっているのかもしれない。なんとなく語り口の熱が高い。

 そう考えつつ、ゆかりとみのりはそれぞれ、同い年たちに言う。


「こらこら涼子りょうこちゃーん、お風呂で泳がなーい!」

「で、宝木さん。そのプラトニックラブとやらが、明日やる『プリマヴェーラ』に関係してくるって話だったね?」

「うん、そう」


 広々とした風呂で泳ぐアホの子に突っ込みつつ、話をつなげる。

 双子であるゆかりとみのりにしかできない芸当だが、残念ながらそれに感心する、部内唯一の男子部員はここにはいない。

 女子風呂だから当たり前なのだが。半ば無法地帯と化したそこで、咲耶は同い年の問いにうなずいた。


「正確には、私たちが演奏する『プリマヴェーラ』と、同じ名前の絵がそこに関係してくるって感じかな。曲と同じタイトルの絵だし、どこかで通じるものはあると思う。そして、私たちの状況にもどこかで、つながってると思う――調べてみて、そう感じたんだよね」


 そのまま身体を洗いつつ、彼女は語り始める。

 自分たちが演奏する曲と、同じ名前の絵画かいがの話を。

 そして、そこに込められた意味と、この部活が置かれた状況の話を――


「絵画としての『プリマヴェーラ』は、春に急成長するっていうことの比喩ひゆと、プラトニックラブを表現してるっていうことは、いま話したとおりだよ。で、このプラトニックラブっていうのを言い出したプラトンさんっていう人なんだけどさ。この人の話がなかなか、面白くて」

「うん。やっぱり真っ裸マッパで言うにはそぐわない話ではあると思うんだけど」

「まあいいや、聞こうじゃない。生まれたままの姿だからこそ、ふさわしい話題かもしれないじゃない」


 当然ながら、素っ裸で。さすがのゆかりとみのりも、あまりのミスマッチさに頭が追い付いていかない。

 曲に関連する事柄らしいから、とりあえず聞いておこうじゃないか――そういうスタンスで始まった咲耶の講義は、誰もはばむことなくそのまま続けられる。


「『プラトンの洞窟からの脱出』」


 これも、同じ名前の吹奏楽曲があるけど――と前置きして。

 演奏の根底とも呼ばれるバスクラリネット吹き、ともすればそれ以外でもどこかで根源につながっていそうな彼女は、言う。


「あるところに、洞窟で暮らしている人たちがいました。彼ら彼女らは、外に出たことがないので、太陽があることを知りませんでした」


 洞窟の比喩ひゆ、と世間的に呼ばれる昔ばなしだ。

 それを題材にした曲も、聞いてみればそれにならっている。狭いところで、光を知らない人たちのことを例えた話。

 プラトニックラブとも、どこかで通じる言い様の論説。

 どこか、この場にいない『彼』のような――そう思いつつ、咲耶は続ける。


「洞窟に住んでいる人たちは、外の世界を知らないので特に不自由を感じていませんでした。けれどもあるとき、その中のひとりが洞窟の外で、太陽を見ました。それはとてもとてもまぶしくて――直視していられないほどの、強い光でした」


 暗いところに慣れたその人物にとっては、最初はその太陽は、目を焼くものにしか過ぎなかった。

 けれども、鏡のような水面に映る輝きを見て。または、夜に瞬く星を見て。

 段々と、その目を慣れさせていくことになる。


「少しの時間をかけて、太陽そのものを見られるようになったその人は、思います――洞窟の他のみんなにも、この光を見せてあげたい。暗いところでちらつく影を本物だと思っている人たちに、自分が見たものを見せてあげたい。そう考えて、その人は一度洞窟に戻りました」


 しかし、光に慣れてしまったその身では、逆に洞窟の中は見えにくいものになってしまった。

 そして、見たことのないものを他の人間は信用しなかった。むしろ笑われ、さらに敵意すら向けられて――

 けれども、その人はあきらめなかった。


「一生懸命なその人のことを信じ始めた人たちは、少しずつ洞窟の外に出ようとします。険しい段差を乗り越えて、怖がりながらも励まされて――そうして目にするのは、本当の世界の景色でした」


 何かの影ではない、本物の存在の質感を。

 洞窟の中には決してなかった、光と匂いを。

 感じ取れたその胸には、どんな思いが去来しただろうか。

 そして、それを他の誰かと共有できたことは、どんな気持ちだったろうか――明日の今頃、本番が終わった後。

 そこにいる自分たちは、そんな気持ちでいられるだろうか――そう考えつつ。

 咲耶は胸に温かいものを感じながら、最後の一節を口にする。


「こうして、その人たちは洞窟から出て、太陽の下で生活することになったのでした――めでたし、めでたし」

「つまりは、引きこもってないで外に出た方が、楽しい体験ができるよってこと?」

「でもって、それをみんなでやった方が、もっと楽しいんじゃないかってこと?」

「うん。まあそんなところかな」


 細かく言うと違うのだけれども、大まかなところはそれで合っている。

 自分の意図が伝わったようでよかった。同い年たちの言葉に咲耶がそう思い安心していると、ゆかりとみのりは首を傾げて言う。


「うーん。ネット引きこもりバンザイな私たちにとっては耳の痛い話だけど、言われてみればまあそうかな」

「家の中で面白い動画をダラダラ見てるときこそ至福だけど、たまにはちゃんと外に出て映画とか見て新鮮な驚きというか、興奮したりするのもいいかなあっていう、そんな感じ?」

「そうだねえ。それでその感想とかをみんなで言い合えたら、もっと楽しいんじゃないかなって、そういうことだと思うよ」


 双子姉妹らしい解釈に、咲耶ものんびりと笑ってそう応える。この紀元前の例え話を現代に無理やり当てはめると、そういうことになるのかもしれない。

 そして、その語り合いこそがある意味ではプラトニックラブなのではないかと、そんな風に思う。


「男も女も、老いも若きも。そうやってみんな好きなものを話しながら笑っていられたらいいのにね」


 まあ、現実はそうじゃないのだけれども。

 それこそ洞窟の中のように、偽物とけがれた感情の飛び交う場所なのは分かっているけれども――それでもこの場の人々くらいは、そうじゃなくたっていいと思うのだ。

 みんなで、仲良くなれたらいいと思うのだ――この部活の、中でくらいは。

 だからこそ、先日はホルンの同い年にはどうにもキツイことを言ってしまった。折を見て、また話し合えればと思ってはいるが。

 そんな日は――洞窟から抜けられる日は、来るのだろうか。

 そう考えて、咲耶がわずかに顔を曇らせると。

 ゆかりとみのりは、いつものようにお気楽に笑って言ってくる。


「そうだねー。みんな仲良くっていうのは理想論かもしれないけど、少なくともそうありたいって思うのは、間違いじゃないって気がするねー」

「むしろ、そう願うことこそが正しいっていう話な気がするねー。あ、これが愛することを愛するってことかな? プラトニックラブってやつかな?」

「――そうだね。そうじゃないかなって思うよ」


 同い年たちの素直な反応に、少しはげまされたような気がして、咲耶は再び微笑んだ。

 そう、自分たちはまだまだ、洞窟の急な坂を上っている最中なのだ。

 だったら少しくらい目の前が暗くて見えなくても、問題はない。

 いつか、きっと一緒の場所にたどり着ける。

『彼』の元に――太陽の下に。

 この胸に宿る、温かい炎を頼りにして。そう思い、全身についた泡を洗い流す。語るべきことは語った。あとは自分が動く番だ。

 明日の本番に向けて、しっかり気持ちを落ち着けよう――そう考え、咲耶が湯舟に浸かろうとすると。

 双子姉妹が言う。


「なるほど、ちょっと分かってきたよ」

「合奏と同じだね! できなくてもできるようにみんなを信じて、やっていこうねって感じ」

「うん、そうそう」

「老若男女、気持ちをかよわせて演奏する、か。それは確かに『プリマヴェーラ』といわず、全ての曲に通ずる気がするねー」

「愛をもって演奏する、アンサンブルって感じだねー。精神的な愛かー。……精神的な愛?」

「……どうしたの?」


 するとそこで、なぜかみのりが目を見開いて固まった。

 何に気づいてしまったのか、動揺したように視線を泳がせている。冷や汗をかく彼女に訊いてみれば、同い年は震えながら言う。


「……ねえ、宝木さん。さっき男女も年齢も関係ない、みたいなことを言ってたけどさ……それはつまり、愛があれば性別も年の差も、越えられちゃうってことだよね?」

「うん、そうだけど?」

「……大変だ、姉よ。これは恐ろしいカップリングが成立してしまうぞ」


 恐れおののきながら自身の姉に報告する彼女は、一体なにを考えたのだろうか。

 というか、カップリングってなんだ――と訊こうとすると、それよりも先にみのりは言ってくる。


「部内の一部でささやかれていた噂……『城山しろやま先生×湊鍵太郎みなとけんたろう』という、禁断の組み合わせが……」

「えっと……けるって何? というか、どうしてそんなに青い顔なのに楽しそうなの?」

「本当だ! そういえばさっきもロビーで二人で仲良さそうに話してたし、これは薔薇薔薇バラバラしい展開になってきたよ!」

「薔薇って何?」


 至極まっとうな質問だが、興奮しているのか双子姉妹は答えてくれなかった。

『プリマヴェーラ』の絵画の中に、バラの花はあっただろうか。そう首を傾げる咲耶を前に、ゆかりとみのりの暴走トークは続く。


「そういえば前々からあの二人、妙に仲がいいもんねー。なんなの? あの通じ合ってる感なんなの?」

「まさに愛があれば歳の差も性別も! って感じだよね。ていうか湊って総受けだよね。基本的に。男女問わず」

「しかし、そこであえての逆パターンはどうでしょう。これはこれで刺激的な感じに……」

「うひゃあー! こいつは面白くなってきたぜぇー!」

「そうなの?」


 彼女たちの会話の内容がさっぱり分からないが、これはこの双子姉妹と見ている世界が違うからだろうか。

 そんな風に咲耶は思うわけだが――まあつまり、この場に二人の妄想を止められる人間はいない。

 本人たちが聞いたら泣いて止めそうな会話ではあったが、無論ここは女子風呂であって男の入る余地はない。

 だからこそ、プラトニックラブ(若干の曲解あり)は加速していく。


「部屋が二人とも個室っていうのがもう怪しいよね! ていうかいっそのこと、二人とも同じ部屋にしちゃえばよかったんだよ!」

「そこに止めに入るのが本町ほんまち先生みたいな⁉ 『おい匠、目を覚ませ!』みたいな⁉ ひゃー! たーのしー!」

「ええと……なんだかちょっと、不穏な何かを感じないでもないけど」


 ぎゃあぎゃあ言い合う彼女たちは、果たして洞窟の住人なのか、どうなのか。

 分からないけど、話題の中心は『彼』にあるようなので――


「……まあ、いっか」


 咲耶はそれ以上、追及するのを止めた。

 太陽のように。あるいは、そこまで導いた、名もなき誰かのように。

 完全に理解はされなくても――それでも彼が愛してもらえれば、それで良い。

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