第359話 夕闇の中の色

 一時的なもの、と先生は言っていたはずだった。

 以前よりはるかに綺麗になった、けれどもあまり心に響かない演奏を聞いて、湊鍵太郎みなとけんたろうはそれを思い出していた。


「……味気ない、か。そうだな」


 を言われたときのことを思い出して、鍵太郎は首を傾げる。

 音楽のルールに従って、これまでやってきた曲を作り直す。

 そう、先生は言って、鍵太郎自身もそれに賛同したはずなのだ。県大会が終わってさらに上のステージに行くのに、その方がいいと思ったから。


「この響きよくない!? 嘘みたいに音が飛んでいくんですけど!?」

「あんまり力を入れなくても、勝手に鳴ってくれるみたいで不思議だねえ」


 実際、今も部員たちからは、以前とは比べ物にならないほどの透き通った音がしてきている。

 和音として、完成してきている。

 周りはそのことに盛り上がっている。なのに――自分はほとんど感情が動かなくなっていた。

 それも確かに、先生の言っていたことなのだ。「それをやると、音楽に味を感じなくなると思う」――そうあのとき、忠告は受けていたはずだった。

 ルールに従うということは、気持ちをいったん封印して、システムの面から考えることなのだから、と。


「んー……。どうすっかな……」


 はしゃぐ部員たちを横目に、ひとり静かにどうしてこの現象が、真っ先に自分に起こったことについて考える。こんなに周りが嬉しそうなのに、なぜ自分だけこんなことになっているのか。

 みなは無邪気にはしゃいでいるが、これを続けていけば遅かれ早かれ、他にもこんな風に『音に味を感じなくなる』部員が出てくるはずだ。

 だったらそれまでに、その対抗策を見つけておきたい。

 部長だから、先輩だからという以前に、自分の心の内をかえりみるに『この状態』はまずい気がする。

 かつて部活を辞めたという、あの他校の生徒のことを思い出す。下手をすると、これは――『吹いていてつまらない』というのは。

 演奏者としての、生命いのちに関わる問題になりかねない。そう、危機感を覚えていると。

 今回の練習を主導していた、同い年の千渡光莉せんどひかりが話しかけてきた。


「どうしたの、あんた。さっきから難しい顔して」

「千渡」


 県内屈指の強豪中学出身であり、まただからこそ今回のように、音楽のルールにも詳しい彼女。

 この同い年なら、あるいは――と思って。


「あのさ……ちょっと話したいことがあるんだけど、練習が終わった後、いいか?」


 鍵太郎は光莉に、そう呼びかけていた。



###



「で、な、何よ……話って」


 部活が終わって、音楽室からだいぶ人がいなくなった頃。

 光莉は鍵太郎に、そう声をかけてきた。

 窓の外を見る。九月にもなった空は県大会の頃より暮れるのが早く、半分くらいはもう暗くなっていた。夕焼け空が、遠くの方に見て取れる。

 太陽が、離れていく。


「今日の、練習のことなんだけどさ」


 それをぼんやりと見ながら、鍵太郎は口を開いた。

 斜陽しゃようの差し込む音楽室は、影の濃いオレンジ色で満ちてきている。

 もうそろそろ、電気を点けた方がいいかもしれない。


「なんか、変な感じしなかったか? なんていうかこう……つまんねえな、というか。こういうもんだったっけ? みたいな違和感とか」

「? 別に、しなかったけど……」


 ていうか、話ってそういうこと? と、同い年は不満そうに眉根を寄せた。

 部長と副部長が練習の後に話し合うのに、他に何があるというのだろうか。こちらこそ首を傾げると、光莉は盛大にため息をついた。


「いや、まあ……大方おおかた、そんなことじゃないかとは思っていたけど……。でも話があるから残ってくれって言われたら、ちょっと期待しなくもないというか、なんというか……」

「期待?」

「なーんーでーもーなーいー!!」


 ぶつぶつ言っている同い年に訊いてみたら、それを覆い隠すような大声で叫び返された。

 いつものように顔が真っ赤になっている風に見えるが、それは夕焼けのせいだろうか。それとも、また違う理由からなのだろうか。

 分からない。ついでに言えば、どうして彼女がそうなっても、毎度のように殴ってこなかったのかも分からない。

 ひょっとしたら、そんなに自分が暗い顔をしていたからだろうか。

 世界はまだまだ、理解のできないことだらけだ。

 そんなことを、心底実感しながら――鍵太郎は、夕日を浴びる光莉に言う。


「いやさ。なんか俺、さっき楽器吹いてて初めて思ったんだ。『なんか、つまんねえな』って」

「……は?」


 部長から出てきた、あまりにも唐突な内容に面食らったのだろうか。副部長はポカンと口を開けた。

 この分だと、望んだ回答は得られそうにないな、と――頭のどこかの冷めた部分が、彼女のそんな反応を見て判断するのを自覚しつつ。

 鍵太郎は続ける。


「楽典通りに、ルール通りにやったら、すげえ綺麗な音がしたけどそう思ったんだよ。色が見えねえっていうか、味がしねえっていうか――そういう、妙な感触がしたというか。そういうの、おまえも感じたことないか?」

「うーん、言ってることがすごく抽象的で、よく分からないけど……」


 とは答えつつも、こちらの言うことを噛み砕いて理解しようと、懸命に考えてくれている光莉はやはり、親切なのかもしれない。

 こちらの期待する言葉を持ってはいないのだろうけど、少なくともその姿勢だけでどこか、救われる部分はある。

 こちらに向かって手を伸ばしてくれているというだけで、動かなかった腕が反応するような気がする。

 そんな気分で同い年の次のセリフを待っていると、光莉はしばらくの後にこちらを向いて言ってきた。


「要は、楽典ルールに従ってやるのが窮屈きゅうくつに思えるってこと? ダメよそんなの。ちゃんと楽譜通りにやらないと」

「んー。まあその辺は、城山しろやま先生に言われて覚悟してたんだけど……」


 最初にそうなるだろうということは、言われていたのだ。

 こうなることは、事前に告知されていた。

 けれどもいざやってみたら――その深度は、予想以上のものだった。


「俺さ。これまで自分で思ってたより、感情に任せて吹いてたのかもしれない。だからそれを今回の一件で封殺されて、どう吹いていいか分からなくなっちゃってるのかも」


 音楽的関係と人間的関係を分ける。そうした方が合理的なのは分かる。

 けれどもその『人間』の部分は、自分の原動力でもあったのだ。

 そこをカットされてしまったら、エネルギー切れを起こす。

 冷たい論理の中で音符を組み立てていくうちに、自分の感情がどんどん小さく扱われていくように思えてならない。

 去年ならまだ、先輩たちにそうしろ、と強制されていたから反抗の余地があった。

 けれども今はもう、自分自身の奏者としての部分がそれでいいと判断してしまっている。

 それに、イメージだけで吹いてきた昔の自分が抵抗してきているのだ。まあ要するに、やはり個人的なものが大きいのだろう。

 鍵太郎の吹くチューバという楽器は、楽譜が単純がゆえに想像力で補っていかないと楽しくない。

 それがモロに出たから、まず真っ先に自分に症状が出たのではないか――そんな仮説を立てていると。

 光莉がやはり、首をひねりながら言う。


「あー。そういやあんた昔、曲の流れがどうとか訳の分からないこと言ってたものね。それが楽典で抑制されて、そんな風に思っちゃったのかも」

「……だよな。城山先生の話じゃ、これも一過性で、そのうち治ってくるって話だったけど」


 しかしこの分だと、そうなる前にガス欠を起こして倒れるのではないか、という気すらしてくる。

 上手くなる代わりに、感情が枯渇していってしまうのではないか、と思う。そういえば、この現象がいつまで続くのか、先生には確認していなかった。

 東関東大会までに、収まっているだろうか。

 それとも、もっと長く続くのだろうか。もしかしたら、この先ずっと――と、嫌な想像をしてしまいそうになったところで。

 同い年が。光莉が。

 どこかの他の学校の誰かと、似たようなことを言ってくる。


「うーん、でも。やっぱり、楽譜には誠実に吹いた方がいいと思うのよ。じゃないと本当にちゃんとした音楽にはならないから」


『楽譜には誠実に吹け』――それは。

 いつぞやの選抜バンドで、彼女と同じ中学出身のチューバ吹きが、こちらに対して言ったことだった。

 そうすれば、いずれは人に誠実にすることにつながる――それを、思い出して。

 鍵太郎はプッと、噴き出して笑った。


「な……何よ!? 人がせっかく親身になって相談に乗ってあげようって思ってるのに!?」

「い、いや……。なんかやっぱおまえら、似た者同士だなと思って……」

「誰と誰がよ!?」


『彼』のことを覚えていない光莉ではあるが、それでもどこかでつながっていることには変わりない。

 そう思って、もう一度窓の外を見やる。そういえばヤツは、今頃どうしているだろうか。自分が県大会でけしかけた、あの誘導係の女の子には話しかけられているだろうか。

 そして同じく、東関東大会に向けてがんばっているだろうか――当然のように県を抜けた、あの部門の違ういけ好かない強豪校の、あいつは。

 もうだいぶ、日は暮れてきたけれども。

 きっとこの空の下で、同じようにあがいているに違いない。

 かつて人に対して誠実を尽くせなかったからこそ、それを追いかけて、せめて音楽には誠実であろうとした彼。

 分けようとしても分けられないそれを抱えつつ、それでもあの野郎がどこかで、まだ戦っているというのなら――


「負けてられない、か。俺もがんばらなくちゃなあ」


 こんなところで自分になんか、負けていられないのだ。

 この無感覚がいつまで続くのか。その問題は、とりあえず棚上げしておく。考えても解決しないものを、いつまでも見つめていてもしょうがない。

 その流れを選択した以上、もう進むしか道は残されていない。

 だったら怖かろうが不安だろうが、行くしかないのだ。誠実を尽くすために――音に対しても、人に対しても。

 味気がないと思っていても、こうしてたまに、パンチの効いた一発がかまされることもある。

 だましだましになるかもしれないが、とりあえずはそういった形でやっていこう。そう思って笑いつつ、鍵太郎は戸惑った顔をしている光莉に言う。


「ああ、ごめんな千渡。おかげで、少し分かったわ。ちょっとしんどいけど、もうしばらくこのままやっていこうと思う」

「何がどうなって、そういう結論に達したのかは謎だけど……まあ、元気になったのなら、いいわ」

「ありがとう。あとはまあ、なんだ。たまに弱気になったら、また相談させてくれ」

「い、いいけど!? あんたは部長なんだし!? 東日本大会に行くって言うんなら、こんなことで音を上げてる場合じゃないし!?」

「ああ、そうだ。俺がしっかりしなきゃなあ……」


 部長なのだし。

 その役目も改めて考えると、重く感じるが――横には副部長もついている。なんとかなる。

 見知らぬルールばかりで真っ暗に閉ざされた道も、彼女と一緒なら多少は歩いていける。

 それに、先生はもうひとつ言っていたのだ。


「ああ――そうだ。思い出した」

「なに?」

「城山先生が言ってたんだ。『音楽が好きな気持ちを忘れないで』って」


 あの指揮者の先生が越えてきた獣道だって、それがあったからこそだ。

 それがあれば、感覚は戻ってくる。

 どのくらいの時間がかかるかは、分からないけれど――


「『好きな気持ち』って偉大だなあ。それがあれば、なんだってできる」

「……あんたにだけは言われたくないわ。それ」

「なんでだよ」

「なんでって……あー、もう!!」


 最後に残ったこの気持ちさえあれば、どこまで行っても戻ってこられるのだろう。

 そう――例えば、同い年に殴られても。感覚がおぼつかないのに、その痛みだけはなぜかまざまざと感じられるのを、不思議に思いつつ。

 鍵太郎は再び、遠くの夕焼け空を見た。

 太陽はさっきよりも遠くにあるけれど、それでもその輝きは、未だに色あせていない。

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