第344話 おいしいものを食べよう

 結局、部活のみんなで海軍カレーを食べることになった。


「なんで『海軍カレー』なの?」

「なんか、昔の海軍の人が作ったからなんだって」

「へー」


 東関東大会の地、神奈川県にやってきた部員たち。

 横須賀地区。かつてのここの海軍、現在の海上自衛隊が作ったというカレーが、そのまま看板料理となっている――

 という顧問の先生からの受け売りを、湊鍵太郎みなとけんたろうは店を見つめながら思い出していた。

 大会の会場の事前視察、というか半分以上、観光のつもりでやってきた自分たちである。

 せっかく遠くまで来たのだし、名物を食べて帰ろうということになったのだ。そこで先生に連れられてやってきたのが、駅から降りてすぐのところにあったこの店だった。

 オープンテラスの小洒落た外見。

 夏の日差しすら爽やかに感じさせる、白く塗られた木の壁。

 緑の木陰がちょうど店にかかっていて、吹き抜ける海風に揺れている。ちょっと高そうで気後れしたが、高校生でもなんとかなる価格だということで全員で店に入った。

 これがおそらく、夏休み最後の思い出になるだろう。

 そういった意味でも、多少は奮発ふんぱつしていいかなと考えたのもある。夏休みが終わったら二学期が始まり、そうしたら支部大会の本番はすぐそこだ。

 東関東大会は、秋の彼岸、シルバーウィークの時期になる。

 そのときはまた訪れるこの地だが、おそらくこんな風に観光をする時間の余裕などあるまい。

 だったら、今のうちに満喫しておいた方がいいのだ。メニューを見て、よく分からないけどとりあえず海軍カレーのスタンダードらしいものを頼む。

 昼食には少し遅めの時間で空いていた店内が、部員たちのおかげで一気に賑やかになった。

 急に大勢でやってきて店の人には迷惑でないだろうかなどと、部長として鍵太郎は考えてしまうが、そこはまあ観光地だ。

 このくらいは許容範囲だろう。こんな風に部活のみんなでカレーを食べるって、なんだか合宿みたいだな――と思ったときに。

 ふと、以前にもこんな風に、大勢でカレーを食べたことがあるのを思い出した。


「……選抜バンド」


 あのときは、他の学校の人間たちが一緒だったのだ。

 県内の何校もの吹奏楽部の部員たちが集まって、同じ釜の飯を食べた。すると、そのときのことを思い出したのだろう。

 鍵太郎と同じく選抜バンドに行っていた、宝木咲耶たからぎさくやが言う。


「そうだね。そういえば選抜バンドでもカレー、食べたっけ。やっぱり大人数だとそういうの作りやすいんだろうね」

「……あのときは、さ」


 とある、強豪校のひとつ年上の生徒と話したのだ。

 コンクール前の練習が辛くて、合宿で出たカレーが食べられなかった、という――そんな部員がいた学校の、とある生徒の話。

 そんな練習をしなければ、金賞県代表になどなれない。そう言っていたあの他校の生徒は。

 今、どうしているのだろうか。最後にあんな別れ方をしてしまっただけに、折に触れてそう思うことがあるのだ。


「……カレーが食べられるだけ、まだいいんだって話した。何も受け付けなくなるくらい、自分を追い込んで、周りも追い込んで――そうでないと手に入らないものがある、って言ってた人がいた」

「……前に言ってた、富士見ヶ丘ふじみがおか高校の人のこと?」

「そう」


 事情を知っている咲耶に、鍵太郎はうなずく。

 逆に言えば、事情を知っているのはあのとき一緒にいた彼女だけだ。

 だから、少し思考の整理に付き合ってくれないだろうか。カレーが来るまでの、少しの間だけ――。

 窓の外では、強い日差しとそれが作る影が、ザワザワと風に揺れている。

 その濃淡を眺めつつ、鍵太郎は同い年に言った。


「……ずーっと、引っかかってた。あの人はそれでよかったのかって。三年生になれば分かるって、去年のあのときは言われたけど――確かに、最後の大会で譲れないものがあるっていうのは分かったけれど。それでもさ、あの人は本当に幸せだったのかって、思うときがあるんだ」


『人を傷つけても、なにを犠牲にしても、欲しいものってあるじゃない?』――そう言っていた、あの他校の生徒は。

 おそらく、その言葉を他人ではなく、自分自身に向けていたような気がする。

 傷ついて犠牲にする部分を、内側に向けていたような気がする。もちろん、本人の気持ちなど分かるはずもないし、連絡も取ることができない以上は確認のしようもないけれど。

 結果だけ聞く分にはたぶん、彼はカレーの味も分からなくなるくらい頑張ってしまったのではないだろうかと、そんな風に思うのだ。


「富士見ヶ丘高校は、去年の東関東で金賞を取ったって聞いたけどさ。いや、それ自体はすごいし、いいことだと思うんだけど――それで音楽を聴いても何も感じない、何も受け付けないようになっちゃったら、嫌だなあって……思うんだけどなぁ」


 金賞。東関東大会。

 合宿。カレー。そのイメージが、ここに来てつながってしまった。

 だから、思い出してしまったのだ。その味が分かって食べられるなら、それでいいじゃない――そう言っていたあの人を、引き留めるだけの力がなかった自分に対する悔しさ、自責の念を。

 もう確認のしようがないだけに、それはいつまでも解消されずに残ってしまっている。

 分かっている。いくら説得したところで、彼は自分の道を曲げなかっただろう。そうすることを選んだのはあの他校の生徒自身だし、こちらが責任を負う必要なんてないのも分かっている。

 けれども、納得いかないのだ。

 しょうがなかった、あきらめなさい――で済ませられない自分がいる。選抜バンドでは海に関する曲をやった。

 だからこそ余計に、沈みゆく彼の手を取って引き上げられなかったのかと、この海の傍のカレー屋で考えてしまう。

 こんな自分に付き合わされる咲耶は、いい迷惑だろう。

 答えの出ない問答をしているようなものだ。まあ、禅問答は彼女の得意分野かもしれないが――そう思っていると。

 寺生まれの同い年は、少し考えてから言ってくる。


「……その選択が、その人にとって幸せだったのかどうか、私には分からない。なにしろ本人がいないからね。ここでその人の思いを決めつけてしまうのは、かえって失礼じゃないかとも思ったりもする」

「……うん」

「でも、少しだけそれを押して、予想をするなら」


 と――そこで咲耶は、同じく三年生の千渡光莉せんどひかりの方を見た。

 選抜バンドには、中学の面子と顔を合わせたくないということで行かず。

 本番にも聞きに行かなかった同い年。だから、今話したことについては、一見なんの関係もないように思えるけれど――

 彼女こそ、それこそ出会った当初は、まるで何も受け付けられなかった側の人間だった。


「湊くんは、ずっとずっと誰かを幸せにしようと、がんばってきたよね」

「――」


 けれど今はだいぶ、変わってきていて――それで幸せなのかどうかは分からないけれど、少なくともそこで他の部員と共に、食後のデザートはあれがいいこれがいいなどと話し合っているのは確かだった。

 そんなに食べると太るぞ――などと、憎まれ口を叩きたくなるくらいに。

 笑う同い年を見つめ、咲耶は言う。


「これは、私の想像なんだけど……光莉ちゃんて昔、ソロで何か、嫌なことでもあったのかな?」

「……そう、みたいだ。今だから、話せるけど」

「そうだよね。だと思った」


 なんとなく、あの態度からは大変な思いをしてきたんじゃないかって、そんな気がしてたんだ――と。

 今回のコンクールで、同じくソロを吹いた咲耶はうなずく。

 光莉の中学の件に関しては、本人が話したがらないので彼女と自分以外、未だに誰も知らない。

 高校三年間をずっとやってきて、ようやく他の誰かに話すことができた。

 そのくらいのレベルのことだったのだ。付き合いの長い同い年なら、薄々予想はしていたかもしれないけれど。

 でも、誰もそこに触れることはできなくて――最後の夏を迎えて、初めて。

 このことを口に出すことができた。それが遅すぎたのか、今できてよかったのか。

 判断することに、意味はない。

 正解はない。

 大事なのは彼女が目の前で、どんな風にしているかだった。


「ひょっとして、この間のコンクールの反省会で、宝木さんが『ソロは評価にそんなに関係してない』って言ったのは、千渡の負担を軽くしたかったから?」

「そう。確証はなかったし、でもあの場で光莉ちゃんに訊くわけにもいかなかったから……けど、ちゃんと響く形で言ってあげられるのって、たぶんあの場しかなかったから。だから思い切って、言ってみたの」

「そっか……」


 どうもらしくない発言だと思っていたが、やはり咲耶なりの意図があったということか。

 人を助けるために、彼女も少し気張ってしまったということだったらしい。

 なんだかんだ、同い年たちも試行錯誤している。そんな咲耶は、「だからね」とこちらを見つめて続けてくる。


「こんな風にやってきた湊くんに、一日でも関わったことのある、その人は――きっとどこかで、救われているんじゃないかなって、そう思うよ」


 どんな気持ちでいるのかは分からないけれど。

 それで幸せだったのかも、分からないけれど――きっと美味しいものを食べて、『あのときはやっちゃったなあ』って思って、そうしてまた好きなことをやっていくんじゃないかな、と。

 そんなことを言われて、むしろ鍵太郎の方が救われた気分になって、泣きたくなった。

 涙をこらえるためうつむくと、ちょうどカレーが運ばれてくる。

 選抜バンドのときとは違って、そのカレーは専門店っぽい、本格的なものだったけれども。

 それでも、カレーはカレーだ。なぜか声をかけろと言われたので、部長としてスプーンを手に持ち、鍵太郎は手を合わせて言う。


「いただきます」

『いただきます!!』


 その後に、部員たちが見事にご唱和して。

 騒がしいランチタイムが始まった。

 自身も一口食べて、鍵太郎は光莉に問う。


「なあ千渡。どうだ、カレー美味いか?」

「はあ? なに言ってんの? 美味しいに決まってるじゃない」

「ああ――はは。そっか、俺にはちょっと辛いや」


 スパイスが利いていて、いろんな味がするのだ。

 ゴツンと来る旨味に、後から来る辛み。ゴロゴロした野菜は大きいのにちゃんと芯まで火が通っていて、やっぱり美味しい。

 この味を、光莉も、そしてあの人も感じてるのなら、それでいいと思う。

 海軍のように、どこか遠いところに行っていても、同じメニューを食べて喜んでいてくれるならそれでいいと思えた。

 けれど、やっぱり辛いのだ。ヒーハーと水を口に含みながら食べ進めていると、近くにいる同い年の双子姉妹が言う。


「ねえねえ先生! 東日本大会ってどこですか?」

「もしかしてもしかして、やっぱり美味しいもののところですか!?」

「そういうとこだけ、やたら鋭いのなおまえら……東日本大会は、北海道だ。スゲーな。神奈川から北海道なんて、東日本横断じゃねえか」

「ひゃっほーう! チーズにアイスにチョコレート!!」

「ウニカニイクラー!! ラーメンにジンギスカーン!!」

「おい待ておまえら、コンクールをグルメツアーか何かと勘違いしてないか!?」


 もし東日本大会に行けることになっても、さすがに今日みたいにみんなは連れていけねえからな!! と悲鳴をあげる顧問の先生を見て、カレーを食べながら鍵太郎はくつくつと笑った。

 今回は海軍カレーだったけれども。

 次は海を渡って、またみんなで美味しいものを食べに行きたい。


第24幕 道しるべの先に~了

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