第307話 巡り合わせの結果論

 野球部の応援のため、球場で準備をする湊鍵太郎みなとけんたろうが、ふと相手の学校の応援席を見ると。

 そこには、ベルが前を向いた白くて大きな楽器――スーザフォンがあった。


「いいなあ……吹いてみたいです、スーザフォン」


 同じものを見て一年生の大月芽衣おおつきめいが、ボソリと言うのを鍵太郎は近くで聞いていた。

 スーザフォンは鍵太郎や芽衣のようなチューバ奏者が、今回のような野球応援や、マーチングなどで使うものだ。

 しかしそれは、よほど資金や規模に恵まれた、強豪校くらいしか持っていない。それはもちろん、普段吹いているものを使えば、大抵の用事は済んでしまうからだ。

 なので、普通の公立校である自分たちは、いつもの使い慣れた楽器を出している。

 相手の学校は宮園みやぞの高校――吹奏楽でも野球でも名の知れた、文句なしの有名校。

 それを相手にするということで、鍵太郎たち吹奏楽部の面々は、野球部の応援にやってきていた。

 野球部が強い学校は、吹奏楽部も強い――そんなことが言われているが、実際に全国を見渡すと、そういった例は多い。

 お互いの学校の二つの部が、グラウンドとスタンドでぶつかり合う。

 となれば、実際に身体を動かす選手だけでなく、こちらの演奏も重要なものになってくる。

 しかし向こうは、設備も人員も潤沢。下馬評げばひょうでは、万が一にも勝ち目はない――そう言われている試合のはずだった。

 けれども、当の本人たち、中でも自分たちの学校の野球部のキャプテンは負ける気などさらさらないようで。

 こちらと同じくテキパキと準備を進めていく選手たちを、鍵太郎が笑って見ていると――近くにいた同じ三年生の千渡光莉せんどひかりが、半信半疑といった様子で訊いてくる。


「……勝てると思う?」

「さあ。けどいい試合になることは、間違いないんじゃないか」


 どうなるかは分からないけど、それだけは確かだ。

 こちらがそう言うと、光莉は納得がいかないといった風に眉根を寄せた。

 そこは、絶対に勝てるとか、自分たちは負けないとか、そういったことを言ってほしかったのかもしれない。

 けれども、こればっかりはそう思うのだからしょうがないのだ。同い年のらしい反応に苦笑して、逆に鍵太郎は、それとは別に気になったことを訊く。


「……むしろ、おまえは大丈夫なのか。宮園の連中と直に顔を合わせることになって」


 光莉は中学のときのコンクールのミスで、当時のメンバーに責められているはずなのだ。

 その中学は、宮園中学――宮園高校とは直接の関わりはないとはいえ、そちらに進学している生徒は多い。

 彼女が実際になじられ、そして傷ついている場面を見たことがあるだけに、この組み合わせは少々気になるものはあった。

 お互いの応援席同士は遠いとはいえ、何かの拍子に顔を合わせる可能性はある。それを危惧していたわけだが。

 しかし光莉は、そんな問いはそれこそ的外れだといった風に鼻を鳴らす。


「大丈夫よ。だってあの中に、私を知ってる面子はいないはずだもの」

「いないって――ああ、そうか」


 同い年が目で指した、相手の学校の応援席を見て鍵太郎はうなずいた。

 宮園高校クラスの規模になれば、こういった野球応援は二軍――つまり、コンクールに出ない部員たちがやってきているはずなのだ。

 本番が近いコンクールメンバーは、今頃音楽室で練習をしているはずだ。

 そして、自分たちは三年生――つまり部活の主力である。

 普通に考えれば今この球場にいる宮園高校の応援団は、ほとんどが一、二年生だ。光莉を直接知っている人間はいない。

 だったら、特にビクビクする必要もない――そんな理屈に納得していると、同い年は言う。


「仮に私を知ってるやつがいたとしても、そいつは私のことを非難できないでしょうね。だって三年生でコンクールメンバーから落ちてるんだもの。人のことを言う前に、自分がどうだって話よ」

「よしんば何か言われたとしても、そんなやつの言うことは聞く耳持たなくていい、か。まあ、そりゃその通りだな」


 しかし、だとしたら――と。

 鍵太郎はその先は声に出さず、かつて出会った、宮園高校のある生徒のことを思い出していた。

 去年の選抜バンドで出会った、光莉のことを考えてくれていた、あの他校の生徒。

 彼がコンクールのメンバーに入っているのだとしたら、今日この場には来ていないということになる。

 そしてあいつはきっと、上手いからそうなっているはずで――あんなに会いたそうだったのに、本当に間の悪いヤツ、と。

 くつくつと笑っていると、光莉が言う。


「……何がそんなにおかしいのよ」

「いや。世の中って本当、単純な勝負で割り切れねえなって思って」


 いぶかしげに聞いてくる同い年に、そう返す。

 きっとどこかの音楽室で、あいつはくしゃみでもしているのだろうけども――それは巡り合わせの問題だと思って、勘弁してもらいたい。

 一生懸命にやって手に入れたものと、そうしたことで気づかずに取りこぼすものがある。

 そして光莉のように、一生懸命やって手に入れられなかったものと、そうしたことで気づけたものもある。

 どっちがいいのかは当人しか判断ができないのだろう。単純な勝ち負けで、全ての決着はつかない。

 けれど、今日これから挑むことには、ある一定の結論が出るはずだった。

 あの野球部の友人の言うように、全力を出し切った先に、見えるものがある。

 勝負とはきっとそういうものなのだと、文化部に入ってからようやく、自分は知ることができた。



###



「結局、どっちが優勢なんですか? この試合」


 そしてその試合が、三回の裏まで終わった後。

 鍵太郎の隣で、芽衣は首を傾げてそう言った。

 スコアは0-0。まだどちらの学校もホームベースを踏んでいない。

 この同じ楽器の後輩は、野球にはさほど詳しくないらしい。なので芽衣がそう訊いてくるのに、鍵太郎は元野球部として答える。


「わりと拮抗してるな。地力では宮園が勝ってるように見えるけど、川連二高うちもプレーの伸びがいい」


 そう言っている間にも、宮園のバッターが打った球が三遊間に飛んでショートが捕球、二塁カバーに入ったセカンドがそのボールをキャッチ、一塁へ送球、と。

 絵に描いたような6-4-3のダブルプレーが見られた。

 送球も捕球も危なげなく、むしろ選手たちは生き生きと試合を楽しんでいるように思える。構えて、追って、捕って、投げるのは『勝つため』だよ――とあの野球部のキャプテンは言っていたが。

 その動きには、そんな言葉以上のものが見て取れた。去年の雰囲気が悪かっただけに、今年はそういうのはナシでやろうと思っている――そういつか彼が言っていたように、今年の野球部は本気でチーム作りに取り組んだらしい。

 ナイスプレー! と観客席から声援が飛んだ。それは間違いないと心の中でうなずいて、鍵太郎は芽衣に言う。


「そろそろ打者一巡して、お互いの癖が分かって。あとは集中力勝負かな。やれることを思い切りやれた方が、この試合勝つ気がする」

「ふーん」


 分かりやすいように噛み砕いて伝えたつもりだったのだが、後輩にはいまいち理解できなかったようで、彼女はそんな曖昧な返事をしてきた。

 そして芽衣の視線は、やはり最初に目にした、スーザフォンに行っている。

 ベルが前に向いているおかげか、相手の学校の低音は離れたこちらまで聞こえてきていた。

 二軍、とはいうもののその演奏は、さすが宮園高校ともいうべき見事なものだ。

 二年前の今頃は、それにムキになって対抗しようとしたなあ――と鍵太郎が過去の自分を振り返っていると。

 後輩が言う。


「……でも、少なくともあっちには勝ちたいです」

「……大月さん?」

「見返してやりたいんです。ああいう最初から恵まれてる人たち。私がほしくてもほしくても手に入らないものを、あっさり持ってて当然だって顔をしてる人たちを。そんな人たちに――思い知らせてやりたいんです」

「……」


 それは違うよ、とか、止めた方がいいよ、とか。

 芽衣にとっさに言うことができなかったのは、彼女の考えていることが、昔の自分と完全に同じだったからだ。

 この後輩は、身体が小さいからこの大きな楽器には向いていないと、中学のときに散々言われてきたらしい。

 だからこそ、彼女はその他人からの評価を覆すために必死になっていて――それで、ここまで上手くなってきた。

 一時的にはそれでもいい。

 けれども、そのやり方は――言ってしまえば人への恨みや嫉妬を原動力とし続けることは、いつか決定的に自身を傷つける。

 自分がそうだったから知っているのだ。

 単純な勝ち負けだけで全てを判断していると、その先がなくなる。

 そんな自分を救ってくれたのは、誰だったっけ――それを思い出して。

 鍵太郎は芽衣に、ある人の話をすることにした。


「……俺の、二個上の先輩なんだけどさ」


 この後輩の知らない、優しいあの人は。

 どこか遠い、でも同じ空の下で――くしゃみでもしていてくれているのだろうか。そんなことを考えながら。

 鍵太郎はかつて隣にいた人のことを、今隣にいる一年生に口にする。


「女の人にしては、だいぶ身長のある人だったんだよね。それでチューバにされたって言ってた」

「……うらやましい話ですね」

「だろうね。でもずっと気にしてたよ。『デカいから女の子らしく見えない』って」

「……」


 実際は、そんなことはなかったのだけれども。

 未だにこんな気持ちになるくらい、綺麗な人だったのだけれども――本人からすれば、そうは思えなかったらしい。

 自分のものだからこそ、素直に受け取れない。

 それは、この後輩も同じようだった。芽衣は一瞬こちらの言葉にひるんだ後、しかしすぐには納得できなかったようで、構えた様子で言ってくる。


「……それを言って、どうしようっていうんですか。お説教ですか?」

「いや別に。でもさ、俺も経験があるんだけど、そういう『誰かを倒してやろう』っていう気持ちで吹くと、大抵うまくいかないんだよね。不発に終わったり、音が当たらなかったり」


 今まさに対戦しているこの学校の、吹奏楽部の顧問と話したとき。

 一年生のコンクールのとき、自分はまさにそんな気持ちで演奏をしていた。

 そして、望んだものとはまるで正反対の結果が出た。

 今なら、その理由がなんとなく分かるけれども――当時は、まるでどうしてか理解できなくて。

 結局、あの人がいなくなってから間違いに気づいたのだ。


「だから、大月さんにはそういう思いをしてほしくなくて。どうせやるんだったら、やりたいことのために――なりたい自分になれるように全力を尽くした方が、結果的に……まあそう、結果的にだな。『勝てる』んだと思ってさ」


 どっちが勝ちで、どっちが負けかなんて、単純には決められなくて。

 他人が勝手に決めて、自分で勝手に思い込んで――振り返ればいつも、そんなもので。

 ああ、本当に人のことを笑えないのだ。

 とんでもなく間が悪い。肝心なときに間に合わなかった。

 二年も経ってからこんな風に言えるようになるなんて、周回遅れもいいところだ。

 できなかったやつが、どの口で後輩にこんなことを言っているのだろう。そう思いつつ、今まさに全力を尽くしている、グラウンドの選手たちを見る。すると――芽衣がやはり首を傾げ、言ってくる。


「……よく、分かりません」

「そりゃそうだよ。言っただけでピンとくるようなら、そもそもそうなったりしない」

「よく分からないけど、馬鹿にされてるような気はします」

「馬鹿になんかしてないからね!?」


 分かりやすいように噛み砕いて伝えたつもりだったのだが、後輩にはいまいち理解してもらえなかったらしい。

「結果的に……結果的に勝つ?」としきりに首をひねる芽衣に、鍵太郎は言う。


「えーと。まあ、なんだ。要は相手がどんな学校だろうと、俺たちは全力で、伸び伸びとやろうって話」

「……最初からそう言ってください」

「しょうがないだろう、こんなことになるなんて、考えてもいなかったんだから」


 そう、二年前はこんなことになるなんて、思ってもいなかった。

 全ては結果論でしか語れないのだ。こうなってからでしか、分からないものがある。

 ちょうど最後のアウトを取り終わって、今度はこちらの攻撃の番が回ってくる。ハイタッチをして笑顔でベンチに戻ってくる選手たちを見ていると、自分もああしてみようと思えた。

 優劣など知らない。

 けれども勝ち負けを超えて、全力を尽くして――そうしたら、その先に。

 あの人は、いてくれるだろうか。そう考えていると。


「……ところで、先輩。先輩も、小さい方が女の子らしいと思いますか」


 芽衣がふいに、そんなことを訊いてきた。

 先ほどの身長の話から、そんな疑問が出てきたのだろう。一般的な認識からしたらそうかもしれないけれども、鍵太郎は後輩の問いに、それこそどうだろう首を傾げる。

 身長があるなしなど、まさに優劣なんてつけられない問題だ。

 だけどあの人はたぶん、今でも自分より背が高くて――などと考えるそんな器の小ささに、我ながら呆れ返りつつ。

 の問いに答える。


「それこそ結果論だけどさ。好きになっちゃえば、身長とか関係ないんじゃないかな」

「……そうですか」

「まあ、できれば彼女よりは大きくありたいと思うのが、男心だけどね。うん……」

「……ふーん」


 なんだか言ってて悲しくなってきたのだが、それもまた自分の受け取り方の問題だ、と。

 心の折り合いをつけていると――芽衣はなぜだか先ほどより微妙に生き生きと、手に持った大きな楽器を持ち上げていた。

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