第296話 嘆きの星
「私にだって、そういう暗い感情はあるよ」
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中間テスト前、咲耶の家にて。
「ええっと、こういうのなんて言うんだっけ。『三人寄ればもんじゃも知恵』?」
「浅沼、そこは『三人寄れば文殊の知恵』だ。覚えとけ」
鍵太郎たち吹奏楽部の面々は、いつものように集まって勉強会をしていた。
バスクラリネットの同い年の家は寺であり、敷地内には離れが作られている。
いつもテスト前になると、ここに集まってこっそりと練習をしたりもしていた。まあ、今回は先日の部員の保護者の件もあって、顧問の先生から楽器の持ち出しの許可をもらえず普通に勉強しているだけなのだが。
それでも、ここにはいつもの面子が顔をそろえている。
こういった家だけあって付き合いも多いらしく、咲耶の家に行くといつも何かしらお菓子が出てくる。
今日は高級そうな
確かに三人もいれば、作り方の分からないもんじゃ焼きも知恵でなんとかできてしまうかもしれないが。
彼女の言うことは、間違っているのにいつも微妙に真理をついてくるから困る。頭を使った分を、ずっしりと餡の詰まった最中を食べて、鍵太郎が補給していると――
家主である咲耶が言う。
「本当は、練習もしたかったんだけどねえ。先生にダメって言われちゃ、しょうがないか」
「せっかく楽譜も配ったんだけどなあ。まあ今回は
先日、部活に殴り込んできた保護者に『テスト前に部活はやらない』と断言してしまった手前、学外でもなんでも練習はするな、と顧問の先生には言われていた。
そういった事情で、今回はその当事者でもあった同い年のホルン吹きの姿はない。万全を期すため、と悔しそうな顔で彼女は言っていたが、あの同い年がいれば、ここでの練習はより華やかなことになっただろう。
防音もされているこの離れは、みなで集まって話すには最適の場所だ。
練習もしたし勉強もしたし、時にはここは作戦会議の場にもなった。そして今は、益体もないおしゃべりの場所でもある。
最中の皮をボロボロとこぼして、同い年たちに介護されているトロンボーンのアホの子のことを、鍵太郎はやれやれと見守った。ティッシュを取りに席を立つトランペットの同い年、床にこぼれた皮を掃除する双子姉妹――わいわいと騒ぐ様は、いつもの音楽室の雰囲気そのもでもある。
ならやはり、ここに楽器があれば最高だったのが――
そんなことを考えていると、ふと咲耶も、そんな同い年たちのことをぼんやり眺めているのが目に入ってきた。
「……宝木さん?」
「――あ」
声をかけると、彼女ははっとしたようにこちらを見返してきた。
その反応も仕草も、あまりらしくないもののように思える。普段は集団から一歩下がってにこにこしている咲耶ではあるが、何かあれば即座に手を貸してくれるのが彼女のはずだった。
そう、今同い年の皮まみれの顔をティッシュで拭いているのは、本来であれば咲耶のはずなのだ。
それがこうして、外側からその光景を見つめるだけになっている。どうかしたのだろうか。鍵太郎がそう思っていると、彼女は決まりが悪そうに笑って言ってくる。
「あ、ごめん……なんていうかさ。ちょっと考え事をしてて。ぼーっとしちゃった」
「……何を、考えてたの?」
「うー……ん。まあ、要は、今度の『プリマヴェーラ』のソロのことかな」
しばし言い淀んだ後、咲耶はこちらに分かりやすいように配慮したのだろう。今度コンクールで自分たちが演奏する曲の名前を出してきた。
その曲には、彼女の担当するバスクラリネットのソロがある。
暗闇の中で何かを語るような、その旋律――
あまり咲耶には似つかわしくないメロディーなのだが、彼女しか吹く人間がいない以上やるしかない。
だからこそ、それを前にして考えていたのだろう。
「あれは、何を表現してるんだろうって。どんな情景で、何を伝えたくて描かれた楽譜なんだろう――って」
この間の初合奏の際に触れた、その音符の意味を。
あのシーンはほぼ咲耶のみが演奏するものだ。だからこそ、より深くそれを知ろうとしたのだろう。
ひとりで吹くからには、ひとりでやるだけの理由がある。
そしてひとりでやるからには、ひとりで全てを表現しなければならないということでもある。演奏は手伝えないが、せめてそんな同い年の助けになりたい。
そう思って、鍵太郎は咲耶に自分のイメージを伝えてみることにした。
「……『
それはまさに、彼女の先代のバスクラリネット吹きの先輩を象徴するかのようなものでもあった。
去年あった、コンクールがらみの部活のゴタゴタを、全て最初から見通していたあの人。
鍵太郎の中では黒魔女というか、予言者じみていたようにも思うひとつ上の先輩である。遠大過ぎて未だに彼女の意図の全てを理解できている気がしない。
そんな第二の師匠だが、それと曲のあのソロに通じるイメージは――『黒』、『闇』、そして『嘆き』だった。
どれも咲耶には縁遠いもののように思える。彼女の印象は『清廉潔白』だ。そう考えると、この同い年にはずいぶんと無茶なものを吹いてくれと頼んでしまった気がした。
自分の中にないものは、表現できないのだから――そう思っていると、咲耶はぽつりと、こちらの言葉を繰り返す。
「……『嘆き』か。そうだね。私もそう思う」
「とはいっても、難しいよね。知らないものを表現しようって思ったって限度はあるし――」
「湊くん。勘違いしてるかもしれないけど」
珍しく、こちらのセリフをさえぎって。
「私にだって、そういう暗い感情はあるよ」
苦笑すら引っ込めて、彼女はこちらにそう言った。
その表情と声音に、同い年の本気を感じ取って鍵太郎は口をつぐむ。咲耶のそれはたまに見せる、なんの取り繕いもない素の表情だ。
いつも柔和な笑みを絶やさない、この同い年の最奥の顔――。
黒くはない。闇を感じるわけでもない。
ただ、はっきりとした断絶をもって、彼女は続ける。
「……昔ね。おじいちゃんに訊いたことがあるんだ。『
咲耶の祖父は、つまりこの寺の主だ。
まごうことなき、お坊さん――現役の僧侶である。そんな人物に『人間は救う価値のある生き物なのか』などと問うこと自体が、既に冒涜的だと言ってもいい。
それだけに、彼女がその当時、周囲からどんな扱いを受けていたかが分かる。
確かに思い返せば、出会った頃の咲耶は自分の家が寺であることを隠していた。
異端は、つまはじきにされることを知っていた。
それは彼女自身がそういった経験をし、それに基づいた感情を――深い悲しみを。
『嘆き』を。
持っていたからではなかったのか。
目の前にいる同い年は、ただ純粋無垢に『かみさま』を信じている存在ではない。
ただひとりで、人の昏さを嘆いていたことのある少女なのだ――そのことは知っていたはずなのに、改めて思い知って、己の配慮の足りなさに鍵太郎はうつむいた。
「……ごめん。でも」
けれど。
それでも、答えになっていないかもしれないが、彼女には言っておきたいことがある。
「……それでも宝木さんは、俺たちをここに呼んだだろう」
嫌われるかもしれないと思っても、気味悪がられるかもしれないと思っても。
それでも困っていた自分たちに声をかけたのは、咲耶の方だった。
彼女の祖父が、かつてその問いに、どう答えたのかは分からない。
けれども結果として、この同い年は自分と一緒に今ここにいる。
彼女が手を伸ばすことを諦めなかったから、こうしてここにいるのだ――そう思って咲耶を見れば、そんな同い年はこちらの言葉に少しだけ目を見開いた後、困ったように笑った。
「……そうだね。そうだった。ごめんね、湊くん。なんだか、変なことを思い出しちゃったんだ。あのソロのことを考えてたら」
昔あったことを思い出して、怖くなっちゃったんだ――そう言って、彼女はその『嘆き』を抱えたまま、どうしようもないといった風に微笑んだ。
「……これを、曲に込めていいのかって。みんなが大切に思ってるものの中で、そんなことを歌ってもいいのかって。でも、たぶん大丈夫なんだろうね。むしろ……そうしちゃった方が、きっと私は、あのソロを吹けるのかもしれない」
「仮にそうしたとしても、あいつらは別になんとも言わないさ。というか今まで通り、能天気に宝木さんの演奏を受け入れてくれると思うよ」
そう、すぐそこで
くだらないことで笑って、というかむしろ、そんな演奏も「すごいね!」なんて言って目を輝かせてくれそうで――実際そう言っているのが想像できて、鍵太郎は苦笑した。
どんな思いを持っていたとしても、一緒に吹いている限り彼女たちは傍にいてくれる。
身をもってそれを知っているだけに鍵太郎がそう言うと、咲耶は「……そうだね」と困ったように再び笑った。
もっとも、その笑みはこれまでより幾分か、明るさを取り戻したものになっている。
いつもの調子になってきたそんな同い年を見て、鍵太郎は内心ほっとした。彼女の悲しみの核心にはたぶん、自分は触れられない。
それを本当に理解できて受け入れられるのは、咲耶自身だけだ。
曲を通して向き合っていくことで、それは段々とできるようになっていくのだろう。こちらにできるのは今のように、彼女が過去に負けないよう応援することだけだ。
とはいっても、咲耶のことである。そうと分かれば自身のそんな記憶も、あっさりと乗り越えてみせるのだろう。
そしてその上で、『嘆き』も、あの旋律も。
自分のものにしていくのだ。まったく、練習のつもりではなかったのに、結果的にそんなようなものになってしまった。
三人寄ればもんじゃも知恵――というわけではないが、調理法のよく分からない素材を、どうにか食べられるものに仕上げた感はある。
どうにも、あのアホの子には敵わない。そう思って鍵太郎がもう一度そんな同い年たちを見れば――彼女たちは相変わらず何が面白いのか、しゃべりながら笑い転げていた。
どうも、箸が転んでもおかしい状況というか、ツボにはまってしまったらしい。
何があったのかは知らないが、お気楽なものだなあと思ってそれを見ていると、同じくそれを眺めていた咲耶が立ち上がる。
「みんな、大丈夫? お水飲む?」
「お……お願い、宝木さん……! いや涼子ちゃん!? 確かに
「わ、笑い過ぎてお腹痛い……」
「喉乾いた……」
「分かった、お茶のおかわりも持ってくるよ」
「あ、俺も手伝う」
同い年たちの状態を確認した咲耶が、笑って部屋を出ていくのを追って、鍵太郎も席を立った。
先ほどの失言の詫びをしたかった、というのがある。そんなのいいのに、という顔を彼女はしたが、言っても聞かないと悟ったのか、やがて歩き出した。
離れにあったコップや茶わんでは数が足りず、補充のため母屋にまで足を延ばす。
するとその途中でかつて咲耶と話し合った、寺の本堂の前に通りかかって、彼女は足を止めた。
「……たまに、思うんだ。あのとき私が湊くんとここで話さなかったら、どうなってただろう、って」
一年生の頃、ここで咲耶と話したことがある。
内容は、やはり先ほどと同じような、非常に精神的なもので――かなり神経を使ってしゃべった覚えがあった。
その甲斐あって、彼女は少しこちらに歩み寄ってきてくれたわけだが――
当時のそれと今を思い起こし、咲耶は言う。
「そうしたら私は、きっと今でもどこかで人を疑って、どこにも行けなくなってたんだろうって。
そう考えたら、あのとき踏み出して、本当によかったと思うよ」
「宝木さん……」
そう口にする同い年を、鍵太郎は見つめた。
どんな立場の人間であろうとも、暗い感情からは逃れられない。
その通り、彼女は今もどこかで苦しみを抱えているけれども――それだけではない。
「みんなでこうして集まれるのが楽しいって、こうなってからようやく分かったんだ。まあ、もう三年生だし、それもあと何回できるんだろうって感じだけども……だからこそ、その機会は大切にしたいよね」
「……うん」
そう言って、どこか吹っ切ったように笑う咲耶に、鍵太郎はうなずいた。
過去がどうあっても、彼女がどんな思いをしてきていても。
今、この同い年がそう感じてくれていれば――それで十分だった。
願わくば、こんな時間がずっと続けばいいのだが――
そうも言っていられないか。迫り来るタイムリミットのことに思いを馳せていると、しかし咲耶は「――ああ、でも」と言う。
「湊くんさえよければ、いつでもうちに来ていいからね」
その微笑みは、一体どこに向けたものだったのだろうか。
そして、何を指したものだったのだろうか。
テスト期間でなくてもということか。あるいは、部活を引退してからもということだったのだろうか。
または、卒業してから先の未来も、ということなのか――
吸い込まれそうなほど綺麗な、彼女の眼差しにそう思っていると。
「貴様か、最近うちに出入りしているという小僧はああああああああああっ!!」
「ぐぎゃふっ!?」
座禅で喝を入れられるがごとく、背後から知らない人に殴り飛ばされた。
誰かと思って振り向けば、
二十代の半ば辺りだろうか。頭は剃っていないが髪は短く切られていて、その目つきはそこにいる同い年に似ていて――
「って、お兄ちゃん!?」
そう、その人物は話には何度か聞いていた咲耶の兄で、鍵太郎はそんな同い年の兄弟を呆然と見上げた。
咲耶と一緒で整った顔立ちをしているのは、宝木家の遺伝子なのだろうか。
しかし今はそのイケメン坊主は面差しを阿修羅のごとく歪め、こちらに言ってくる。
「うちに上げてもらったからといって、調子に乗るなよ小僧!? 言っておくが、うちの妹は中途半端な者には絶対渡さんからな!?」
「え、あ、ちょっと、何か勘違いをされてるような……」
咲耶とはあくまで部活が一緒の同い年であって、決してこの人が思っているような関係ではない。
そう言いたいのだが、なんだか聞く耳を持ってもらえそうな気がしなかった。
この家には幾度となく出入りしているが、そういえば一度も咲耶の家族に会ったことはない。
それは忙しいからなのか、それとも彼女が人払いをしていたのかは分からないが――この様子を見るに、どうも後者の可能性もあったのではなかろうか。
そんなことを、襟首をつかまれてガックンガックン揺さぶられつつ、鍵太郎は考えていた。三人寄れば文殊の知恵、という言葉が脳裏をよぎる。『文殊』とは知恵を司る菩薩のことだ。
なら、この状況もなんとかしてもらえないだろうか――そんなことを思っていると。
「いい加減にしなさい、お兄ちゃんッ!!」
咲耶がこれまでに聞いたこともないような大音声をあげた。
その迫力たるや、男二人を軽々と吹き飛ばすほどである。ああ、宝木さんてこんな顔もできたんだ――と、同い年のまなじりを吊り上げた表情を見て思う。
いつもどこか超然としていた彼女が、家族の行動に動揺してそうしたのだと考えると、その存在が急に身近に感じられた。
なるほど、彼女の言う通りだ。
寺の子に生まれようとも仏門に入ろうとも、人を嘆く気持ちからは逃れられないらしい――などと、そんなことを。
ため息をついた咲耶から、彼女の兄共々なぜか正座で説教を食らいつつ、鍵太郎は思ったりもするのだった。
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