第295話 さみしい理由、さみしくない理由
「じゃあ
中間テスト前の、最後の部活で。
一学期の五月中旬。テストを控えたこの時期は、どんな部活も休みになる。
しばらくこの後輩ともお別れだ。すると高校生活最初のテストを前にした芽衣は、戸惑ったようにうつむいた。
「……そっか。休みになるんですよね、部活」
「まあね。コンクールの曲を配ったばっかりで休みになるのは不安かもしれないけど、それはみんな同じだから。休み明けにまたやっていけば大丈夫だよ」
「……」
「……どうかした?」
こちらの言葉に、まだ納得いかないように沈黙している後輩へと、鍵太郎は呼びかけた。
彼女が気にしているのは、練習ができなくなることではないのだろうか。
それともこちらの言葉が信じられないくらい、不安だからなのだろうか――図りあぐねていると、芽衣は制服の胸の部分を掴んでしばらく考えた後、首を傾げて言ってくる。
「……いえ。なんだか、さみしいなと思って。部活のない放課後って、久しぶりなので……」
「ああ、そっか。そうだよね」
後輩の返事に、鍵太郎は自分が一年生の頃を思い出し、うなずいた。
こちらがそうであったように、彼女にとってはこれが、部活が長く休みになる初めての機会だ。
がちゃがちゃと騒がしくも楽しい、そんな日々から突然切り離される。
その寂しさは、身に染みて分かっていた。自分の場合は、同じ楽器のあの先輩と会えなくなるから余計だったのだけれども――芽衣にとっても、それは一緒らしい。
部活がなくて、寂しい。
それは彼女がこの部活に馴染んでいる何よりの証だ。
最初に会ったときは楽器を吹くことすら拒んでいたこの後輩が、そんなことを考えるようになったことは、とてもいいことだと思う。わざとやったとはいえ、この一年生を無理矢理ここに引っ張り込んだ身としては、彼女のそのセリフにほっとするものがあった。
なら、未だ戸惑った顔をしているこの後輩の表情を晴らすためには、どうしたらいいのか。
そう考えたときにふと、あることを思い出し――鍵太郎はそれを芽衣に言うことにした。
「よし、じゃあいいことを教えてあげよう」
それはかつて、自分の二つ上の先輩が。
こちらに口にした言葉でもある。
「成績がいいと後々いいことがあるんだ。俺にとってもいいことだし、大月さんにとってもきっと、いいことだよ」
「……なんですか? そのいいことって」
「んー、それはまだ、内緒」
実際にはそのいいことというのは、『成績上位者はコンクールが終わった後も、引退せず部活の本番に出ていい』というものなのだが――今の時点で、そこまでバラす必要もないだろう。
この場で求められているのは、彼女が部活が休みになる寂しさを一時忘れて、勉強に集中できるようになる理由を作ることだ。
だったら、ここではその結果は伏せておいた方がいい。種の割れている手品より、種の分からない手品の方が期待値は上がる。その方がこの後輩もがんばれるはずだ。
またしても騙しているようで、少しだけ良心がちくりと痛むが――まあ、学校祭に出られるということであれば、自分にとってもいいことであることに間違いはない。
そしてチューバを吹く人間が二人しかいない以上、こちらが出られるなら、芽衣にとっても助かる話には違いないのだ。
まあ、嫌われてなければの話だが。それでもこの楽器は、一人より二人で吹いた方が絶対にいい。
それもあって、鍵太郎は後輩へと続ける。
「それにね、あんまり成績が悪いと、コンクールには出してもらえないんだ。うち、一応進学校だし、今年はこの間の
「さ、さすがにそうはならないよう、がんばります」
コンクールに出られない、というくだりを聞いて、芽衣は差し迫る危機感を持ったようだった。
実際にそうなった部員を見たことがないので鍵太郎も知らないのだが、おそらくテストで赤点、追試クラスの成績を取った者は顧問の先生からアウトを食らう、という仕組みではなかろうか。
といっても、この真面目そうな後輩に限ってそんなことはないだろうが。いやしかし、ひとつ上のあのフルートの先輩の隠れポンコツの例もあるし――と思って、さりげなくカマをかけてみる。
「まあ、大月さんはしっかりしてそうだし。大丈夫だとは思うけど」
「……しっかりなんか、してないです」
「……それって、どっちの意味?」
カマをかけたつもりが、藪をつついて蛇を出してしまったらしい。
途端に口をへの字に曲げて膨れる芽衣に、鍵太郎は恐る恐る訊いてみた。
大月芽衣、こう見えて実はあまり成績がよくないのだろうか。
それとも、『しっかりしている』と言われたことが心外だったのか――どうも後者であったらしい。
後輩は膨れっ面のまま、不服そうに言ってくる。
「……なぜだかよく分かりませんが、しっかりしてると言われることは、ままあります。けれど、本当はそうじゃありません。しっかりしようとしてるだけで……できないのが分かってるから、どうにかしようとして、なんとかなって。それが他人の目には『しっかりしている』ように見えるだけです」
「……それが」
しっかりしてる、ということなのでは――という言葉を、鍵太郎はすんでのとろこで呑み込んだ。
それを言ったところで彼女には通じない、それどころかむしろ逆効果に思えたからだ。
芽衣の心の中には、大きなコンプレックスがある。
小柄であり、非力であり、がゆえに役に立たない――そんな無力感があるからこそ、この後輩は必死に努力をし続けている。
けれどそんな彼女に、自分までもが『しっかりした後輩』のレッテルを貼ってしまったら、誰がこの子の本当の寂しさを分かってやれるというのだろうか。
そうなったら、部活が再開しても芽衣はひとりのままだ。彼女がその努力に疲れ果てて倒れるまで、誰もその気持ちに気づかない。
そして、そうなってから周りは言うのだ。「あの子がそう思ってたなんて、知らなかった」「やれているから、できているから、大丈夫だと思っていた」。
そんな光景を想像して――鍵太郎はため息をついて、後輩に言った。
「……そうか。しっかりしてるように見えるだけ、か。そうかもしれないな」
「……けれど、他の人にそう言われると、それはそれでムカつきます」
「ムカつかれても」
自分だってそうなのだ。
部長だから、三年生だから、先輩だからしっかりしなくてはと思ってそう振舞っているだけで、本質的な部分では彼女とそう変わりない。
そんな自分が偉そうに説教などしたところで説得力はないし、言って直せるのならこの後輩だってとっくにそうしているだろう。
だったらそんなこちらができるのは、ギリギリまでそんな彼女の傍にいてやることだけだ。
その過程でどこかに変化が訪れればよし、でなければ――何かの折に、その癖に触れてみるしかない。
どちらにしても、そうするためには今後のテストで高得点を叩き出し続けるしかないのだ。結局そこに返ってきて、鍵太郎は肩をすくめた。
「まあ……俺も同じだよ。せいぜい大月さんと一緒に吹けるように、がんばるさ」
その方がお互いにとって、いいことなのだろうから――
二年前、そう言ったあの先輩は一体どんな気持ちでこの言葉を口にしたのだろうか。
頼りない後輩を前に、最後まで面倒を見なければと思っていたのだろうか。
それともただ単に、自分ができるだけ長く楽器を吹きたかっただけなのだろうか。
今となっては、分かりようもないが――少なくとも自分は、コンクールの後の舞台も、この後輩と一緒に乗りたいと思っている。
そんな本音を、具体的な本番の名前を伏せ、鍵太郎が苦笑と共に口にすれば――
芽衣は、尖らせていた唇を元に戻し、首を傾げて言ってくる。
「……なぜでしょう。なんだか今、少しさみしくなくなりました」
「そっか。よかった」
「先輩と馬鹿な話をしたから、気が紛れたんでしょうか」
「わりと人が真剣に話してたのに、馬鹿とはご挨拶だねこの後輩」
「でも、ありがとうございます。おかげでテスト、がんばれそうです」
そして、ぎゅっと握っていた制服からすっと手を放し。
後輩はこちらを見上げ――少しだけはにかんだように微笑んだ。
なんにせよ、やる気になったのならいいことだ。そのまま鍵太郎が、音楽室を出ていこうとする芽衣を見送っていると――
ふと、彼女は振り返る。
「先輩」
「ん?」
「いいこと、とはなんなのか、後で教えてください」
「そのときが来たらね」
「……むう」
そう答えると、後輩は一瞬、不満げな顔をして。
けれども、そこは「分かりました」と聞き分けよくうなずき、この先を楽しみにするかのように笑って言う。
「じゃあ先輩、またテスト明けに」
「うん。またテスト明けに」
そんな風な顔ができれば、部活が休みでも寂しくないだろう。
そう思って、鍵太郎は手を振ってくる芽衣に応えるために、笑って手を振り返した。
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