第286話 現実的な選択肢、愚か者の理想主義
後で連絡する、という言葉の通り。
「――もしもし」
それに
隣花の母親が部活に乗り込んできて、そして彼女を無理矢理連れ帰った、その後から。
こちらは動揺する部員たちをなだめつつ、ずっとこの同い年からの連絡を待っていたのだ。すると、数時間経って多少は落ち着いたのだろう。
隣花はこちらの挨拶に応えた後、いつもの調子で言ってくる。
『……ごめんなさい。うちの母親が迷惑をかけて。私に対してならともかく、まさか他の人にまであそこまでやるとは思ってなかった』
迷惑――確かに彼女の母親には怒鳴り散らされたが、それをそうだとは思っていない。
むしろ、その『私に対してならともかく』という言葉に鍵太郎は視線を鋭くし、手にした携帯を握りしめた。
ただ、そうしたことで携帯ケースが軋んだ音は、隣花には聞こえなかっただろう。
なので彼女は、そのままの口調で続けてくる。
『学校に来たことも。正直……予想外だったわ。きちっと成績を出していれば、文句は言われないと思ってた。部活を辞めろとまでは言われないと思ってたけど……見通しが甘かった。私の判断ミス。これに関しても、本当に申し訳ないと思ってる』
受験の邪魔になるから、部活を辞めなさい。
人生の役に立たないから、楽器を辞めなさい――そう言っていた隣花の母親の姿が、脳裏に浮かぶ。
その表情と声に、噴き出しそうになる感情をなんとか抑えて、鍵太郎は隣花にひとつ質問をすることにした。
いつもああなのかとか、いつからああなのかとか。
訊きたいことは山ほどあったが、気になってまず聞きたかったのはこれだった。
「……片柳。おまえさ、前に俺と進路の話をしたとき、法律関係の仕事に就きたいって言ってたよな。あれも、母親の指示か」
以前、この同い年と大学をどうするかという話になったとき、隣花は非常に両極端な道を口にしていたのだ。
法律関係か、遺伝子工学の研究職か。
確か、そんなことを言っていたはずだった。あのときは奇妙なほどに別れている希望だなと、聞いて首を傾げたのだがーーそれも彼女の目的と、母親の目的がズレていたからだと考えれば納得がいく。
さらに、あのとき隣花がそれ以上、自分のことを言わずに話を逸らしたのも。
振り返ってみれば、おかしなことではあったのだ。この同い年は、この二年間でそういえば一度も、家族のことを口にしたことがない。
そして、こちらのそんな予測を裏付けるように、隣花は『……そうよ』と、僅かなためらいの後に言ってきた。
『法学部に行けっていうのも。部活を辞めろっていうのも。ついでに言えば、私がこんな性格になったのも――! 全部、全っ部、
この同い年と似た、けれども決定的に違う罵声の嵐。
それを浴びせられた身としては、確かに『あれ』に逆らったらただでは済まないと思う。
ましてや、それを間近で受け続けているのなら――
『だから』
『幸せ』というものがどんなものかすら、判断がつかなくなるはずだ。
『私は、このまま部活を辞めようと思う』
「……本気で、言ってるのか」
電話越しに聞こえてきたその宣言に、鍵太郎は唸るように低い声をあげた。
今日、彼女が部活を後にするときに、何か考えがあるのだろうとは思っていたのだが――
やはり、そうなるか。隣花の普段の考え方からして、そう来るのではないかと覚悟はしていたが、それでも心の中に衝撃が走ることに変わりはない。
音楽で真剣になりたい、と言っていたはずのこの同い年。
そんな彼女が、楽器を辞めるとはどれほどのことなのか――歯噛みしていると、隣花は『本気よ』と言い切った。
『本気も本気よ。だってそれ以外に、あの人を止める方法はない。あんたも見たでしょ? 常識無視で学校に乗り込んでくるあの行動に、何を言っても通じない性格。あのままいったら、あの人は部活を全部壊してでも、私のことを引きずり出していたでしょう』
この同い年の言う通り、あの母親はそのくらいのことをしてもおかしくはなかった。
それが分かっているからこそ、隣花は自分から大人しく母親に従ったのだ。
そして、こちらはそれを――
『で。あんたはそういうのを、絶対に許さない。私はずっと見てきたから知ってる。あんたは自分が敵とみなした相手とは、徹底的に戦う。周りの人のことを守るために』
彼女の言う通り、絶対に見過ごすことはできないのだ。
部長だからとか、そういうのは関係ない。ただただ理不尽に、誰かが何かを奪われることに我慢ができない。
そしてそれをも、理解した上で。
『そんなあんたとあの人が激突したら、どっちかが折れるまで戦いは終わらない。お互い意地の張り合いになって、収まりがつかなくなる。でも。冷静に考えて? 私ひとりに目をつぶれば、あそこは安全になるの。今日のことで分かったと思うけど、あの人を敵に回すのは、リスクが高すぎる。これ以上被害が拡大しないよう、ダメージコントロールはしっかりやるべき。説得の材料がないのなら、それが最善手』
隣花はいつものように冷静に、論理でもって言葉を紡いでいった。
しかしその裏に、隠された感情があることを、もうこちらは知っている。
なので鍵太郎は同い年に、食いしばった歯の隙間から訊く。
「……おまえは、それでいいのか」
『いいわけないでしょう』
対して隣花は、流れるように即答してきた。
まるでこちらがそう訊いてくるのを、予測していたようだった。いや――実際に、この数時間で必死に頭を巡らせていたのだろう。
どうすれば、あの場所を守れるか。
どうすれば、こちらのことを傷つけずに済むか――
『いいわけがない。高校最後のコンクールに出られないのは、すごく――悔しい。けど。もっと大きな視点で考えましょう、湊。私は別に、これで楽器を辞めるわけじゃない』
あくまで、穏やかに。
一瞬だけ沸騰しかけた感情を押さえて、同い年は用意してきた理屈を差し出してきた。
『望み通り法学部には行く。けれども、なるべくここからは遠い大学にするの。そこで一人暮らしを始めて。
「……」
隣花が言う未来を、想像してみれば。
それは案外、悪くない提案なのかもしれなかった。
部活は安全になる。しばらくこの同い年は音楽からは遠ざかることになるが、いずれまた復帰することができる。
一年だけ我慢すれば、彼女は母親の支配から逃れて自由になれる。
そこでまた、楽器を吹くのだ。
ここからひどく、遠いところで――
「――ふざけんなてめえ」
そんな、同い年の描いた現実を。
鍵太郎は一刀の下に切り伏せた。
「黙って聞いてりゃ、なんだそのしみったれた理屈は。悪くない? これが最善? ふざけんな。おまえなしのコンクールなんか、考えられるかボケ」
『な……』
「片柳、おまえは俺に対しても、見通しが甘いぞ」
こちとら、彼女と同じで
本当の最善手を。
この同い年のいる、そこにあるべき未来を――
「俺はおまえが考えてるよりずっと、諦めが悪い。言ったよな、理想だろうが現実だろうが、かっ食らって進むって。未来は自分の手で作るんだ。やり過ごしてどうにかなるなんて、そんなつまんねえこと考えてんじゃねーぞ」
『ちょ……ちょっと待って!? 湊、何するつもり!?』
怒りを押し殺して口にすれば、隣花は慌てた様子でそう問いただしてきた。
当然だろう、彼女の考えた最も妥当だと思われる判断を、こちらは蹴ったのだ。
論理的で現実的で、『隣花以外』誰も傷つかない選択肢。
そんなもの、なんの価値もありはしない。
人生に音楽は役に立たない、という理屈と同じくらい、なんの価値もない。彼女の母親と同じく、キレたいのはこっちだって一緒なのだ。
お互い意地の張り合いになる、などと先ほど隣花には言われたが、当たり前だ。こちらにだって意地がある。
「何するって。おまえを部活に連れ戻す気だけど」
『だからそれが無理だって、そう言ってるでしょうが!?』
絶対に、譲れないものがあり。
徹底的に、守りたいものがある。
そう思ってこちらも即答すれば、その当の本人は変わらぬ調子で、自分の気持ちを叫んでくる。
『誰が何と思おうとも、それでも、あの人は私の母親なの! そんな人とあんたが言い争うところなんて、私はもう見たくないのよ!?』
「誰が言い争うと言った」
そんな彼女の本気を受けて、こちらも本気で馬鹿なことを口にする。
そう、こちらはこの同い年の想像も及ばないくらい、理想主義の愚か者なのだ。
だったらせいぜい、平和的に――対話でなんとかしてみようじゃないか。
そう言うと、隣花は携帯の向こうから詰問してきた。
『対話!? 対話できると思ってるの、あれと!? 私は分かる、母親だから分かる。あれは対話なんて、できるクチじゃないわよ!?』
「そこだ」
肝心なのはあれが『片柳隣花の母親』というところだ。
現実的で理屈っぽくて、でも奥底には大きな感情を秘めた、この同い年と似た存在。
だったら――やってみなければ分からないが、方法がないわけではない。
「なあ、片柳。信じてもらえないかもしれない。けどちょっと、待っててくれ」
携帯の向こうで困惑する隣花に語りかけながら、これからどうすればいいかを考える。
どうすれば、あの場所を守れるか。
どうすれば、彼女のことを傷つけずに済むか――
そのための方法を考えながら、鍵太郎は同い年に言った。
「俺が絶対に、おまえのことを迎えに行くからさ」
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