第285話 かたつむりとイバラ
「お母さん……?」
驚く同い年の、その母親だという人物を見て。
確かに扉のところにいる女性は、近くにいる
切れ長の目に、すらりとした手足。
理知的な雰囲気は、どことなくキャリアウーマンを連想させて――彼女が大人になったら、きっとこんな感じになるのだろうな、とも思う。
けど、決定的に『何か』が違うのだ。
それがなんなのか、鍵太郎が図れずにいると――隣花が言う。
「なんで、学校にまで……来ないでって言ったでしょう!?」
「だって、隣花。それはあなたが従わないからでしょう?」
珍しく、あの冷静沈着な同い年が慌てている。
普段の隣花の様子を知る者からすれば、それだけでこれが、かなりの異常事態なのだということが分かるだろう。
自分の感情がどういうものなのかすら、分からないことがあるという彼女のことだ。だからいつもは、ひどく機械的で、淡々としている隣花だが――その実、心の奥底には秘められた激情があることを、鍵太郎は知っている。
これまで一緒に部活をやってきたからこそ分かる、この同い年のこと。
それとどこかが少しズレている彼女の母親は、嫣然と微笑んで言う。
「三年生になったら、部活を辞めて、受験に専念するって。お母さんとそう約束したわよね?」
「え?」
驚いて、後ろにいる隣花を見る。
そんな話、この同い年は全くしていなかった。さっきだって、コンクールの楽譜はいつ届くのだ、とこちらに訊いてきたくらいなのだ。
彼女が三年生になっても部活を続けようとしていたことは、そこからしても明らかだ。
両者の主張は、根本的なところで食い違っている。
それを証明するかのように、隣花は歯を食いしばって、うめくように言った。
「私は……そんなこと、言ってない……!」
「あらあら。嘘はいけないわ隣花。それとも何? 忘れちゃったの?」
「ちょ、ちょっと待ってください。どういうことですか!?」
初めて目にするものや耳にすることの連続に、たまらず待ったをかける。
これは、このままここで続けていい話ではない。部長として、何より同い年として、鍵太郎は隣花とその母親の間に割って入った。
そもそも学校になんの連絡もなく、保護者がやってくること自体がおかしいのだ。
近づいてくる隣花の母親を見る。彼女とよく似た、そしてどこか異なるその視線。それを感じているうちに――
ぴたり、と隣花の母親の動きが止まった。
「あなた、何? この部活の子?」
「はい。部長の湊鍵太郎です。……片柳さんに、何かご用ですか」
両方とも同じ苗字のはずなので、同い年の名前を呼ぶのに、少し躊躇する。
そしてそれ以上に、とっさに言葉が出てこなくなったのは――隣花の母親がこちらを見た途端に、一気に表情を変えたからだ。
先ほどまで軽く笑っていたはずのその顔は、まるで道端に落ちているゴミでも見たかのように、無関心なものになっている。
さらにその眼差しは、隣花がたまに見せる、あの絡みつくようなもので――
まずい、と直感的に悟る。その視線の質は、同い年のものよりもっと――黒くて、鋭い。
まるで棘の生えた蔦に、全身を縛られるかのようだった。それでも、なんとか踏ん張っていると――
隣花の母親は言う。
「うちの子、早く帰してくれませんか? 今も言いましたように、隣花は三年生になったのを機に、部活を辞めて受験に専念するはずだったんです。
「……こんな、ところ?」
背丈はそれほど変わらないはずなのに、まるで見下ろされているような圧迫感があった。
けれども、そんな空気の中に聞き逃せない単語が含まれていたので、吹奏楽部の部長はそれに反応する。
こんなところ。
今、この人はこの場所を、そう言ったか?
「ええ。こんなところです。だって、楽器なんてやっていても、受験にはひとつの得にもならないじゃないですか。勉強する時間は減るし、内申点になるわけでもないし。それって将来役に立ちます? だったらさっさと辞めさせた方が、うちの子のためって思うんですけど」
ピリピリ、ピリピリ、と一言一言が肌を焼いてくるような気がした。
それは、こちらの、ひいては隣花のやりたいことを全否定するものだ。
音楽で真剣になりたい――と、あの同い年は言っていた。
先日彼女の浮かべた微笑みが、脳裏をよぎる。現実で理想を支えることができるか。それに自分は、YESと答えた。
だったら――
「……本人の、意思は」
今、そこにいる同い年のことは、守らなければならない。
そう確信して、鍵太郎は窒息しそうな空気の中でそう口にする。
さっきから背後にいる隣花は、まるでしゃべる様子もないが――たぶん、怯えているのだろう。
まるで彼女らしくないし気に入らないけれど、先ほどの慌てようとこの母親の雰囲気からして、まず間違いない。
だったら、ここで隣花を助けられるのは自分だけだ。
そう、鍵太郎が思っていると――
「――何を知った口利いてるのよ、あんたはぁッ!?」
「――っ!?」
隣花の母親が、こちらを掴みかからんばかりの勢いで怒鳴り始めた。
この感覚は、知っている。隣花自身も急に、こうして溜め込んだ感情を爆発させることがあるのだ。
そうしてぶつかり合ったことがきっかけで、彼女とは話せるようになって――
でも、『これ』は。
「部長だか何だか知らないけれど人の家庭の事情に他人が口を突っ込まないでくれます!?今の時代他人よりスタートが遅いってどれだけ致命的か分かってないでしょ!?大学受験も就職もしたことのないガキが世の中の厳しさも知らないくせに舐めた口叩いてんじゃないわよ音楽も楽器も一銭にもなりゃしないのに後生大事に抱えてうちの子に対して責任持てるのそんな訳ないわよね何様のつもりでそんなこと言って――!!」
「う、が……っ!?」
鼓膜から脳を直接叩きにきているかのような、嵐のごとき暴言の群れ。
心身共に受け止められない、反射的に耳を塞いで身を守ることしかできない。
隣花がキレたときとはまた違う。彼女のそれは感情の爆発ではあっても、まだ理解のできる範疇だった。
しかし目の前のこれは、それをはるかに逸脱している。
止めるきっかけが掴めない。物理的にも精神的にもガリガリ削られていくのが分かる。けれども、そんな中で鍵太郎はふと気づいていた。
ああ、なるほど。
だから
『これ』を、日常的に受けていたらそれは、そうなる。
何が『楽しい』なんて判断もつかなくなる。何も感じられなくなる。
気持ちを抑えるのに慣れてる、じゃない。
そういう人格にならざるを得なかったのだ――そんなことを思った、そのとき。
「やめて、やめてお母さん!?」
隣花が悲鳴のような声をあげて、自分の母親を止めにかかった。
その声も行動も、全くもってらしくない。そのことに、笑えそうなほど怒りが湧いてくる。
あの片柳隣花が、誇り高きホルン吹きが、悲鳴をあげる?
冗談じゃない。
彼女がそんな振る舞いをすることが、どうしようもなく認められなかった。
さらには、この同い年がそんなになっても、自分を庇ったことも――
「もうやめて!? 帰る! 帰るから! もうこれ以上、その人を怒鳴るのはやめて!?」
「あら、隣花。やっと分かってくれた?」
そして隣花の懇願に、母親はコロリと調子を変えて微笑んだ。
けれどもその笑顔も、今となっては恐怖を覚えるものでしかない。膝をつきそうになるのを全力で拒否して、鍵太郎はそんな親子の様子を見る。
歪んでる。
そうとしか思えないが、現状では太刀打ちできそうな気がしない。
せめて顧問の先生がいてくれれば――と思うが、折り悪く用事で学外に出ている。となれば、無理でもなんでも、やってみるしかない。
だが――どうすれば、あの嵐をいなせるか。
収める、というのはほぼ不可能に近いのではないかとすら思う。だったら、上手く矛先を逸らして対処するしかないのだろうが。
しかしそれには、圧倒的に武器が少なすぎる。なので手持ちのもので状況をどう動かすかを、鍵太郎が頭の中で必死にシミュレートし続けていると――
隣花が言う。
「……楽器を、片付けるから。そこで待ってて」
彼女の楽器は、ケースから出したまま床に転がっていた。
それを拾って宣言通りしまい始める同い年に、待て、と思う。同時に、母親に対しても大声で叫びたい衝動に駆られる。
待ってくれ。
こいつから、それを奪わないでやってくれ。
自分が吹けなかったホルンという楽器を、軽々と吹く隣花。さらには、それを通して混じりっけなしの本音を言い合える、貴重な同い年。
そんな彼女を、こんなところで潰すわけにはいかない。受験の邪魔? 将来の役に立たない? 何を言っているのだ。
『それ』こそが、片柳隣花という人間を作り上げる、ひとつの大事な要素になっているというのに――
そう思って、鍵太郎が声を上げようとすると。
ケースの蓋を閉じつつ、隣花が囁いた。
「……黙って。今は、あの人の言うことを聞いて」
「……っ」
そう言って目くばせをしてくる同い年に、なんとか言いかけたものを呑み込む。
隣花の目は、何も考えずにただ怯えている者の眼差しではなかった。
それを信じて、こちらも視線を送る。何か考えがあるのか。そう訊きたいところだが――
彼女は目を逸らし、楽器を棚にしまって、すれ違いざまに言ってくる。
「……後で、連絡する」
そう口にして、片柳隣花は。
こちらに背を向け、母親と共に音楽準備室を出ていった。
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