第240話 咲耶のお勤め
「うう……暑い……暑いよぉ……」
と。
半ば朦朧とした意識で考える。できることならば、今すぐこの服を脱ぎ捨てて、もう少し涼しい格好をしたい。
けど、ダメなのだ。
いくら汗だくでも手がベタベタでも、『この服』を脱いではいけない理由が、ここにはある。
そう、なぜなら自分は――
「お姉ちゃん、みかんちょうだい」
「あ……はい。どうぞ」
由緒正しき神社で、巫女さんのアルバイトをしているからだ。
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「巫女さんのバイト? 宝木さんが?」
その、数日前。
咲耶は吹奏楽部の同い年、
無理もないだろう。自分は寺の生まれで、仏教寄りの人間だ。
神社の巫女――つまり神道の仕事をするのは、彼からすれば意外なことだろう。
なので咲耶は苦笑して、そのアルバイトをする理由を説明する。
「うん。私の将来の夢のこともあってさ。他の宗教のこととか、色々知っていきたいなと思って。勉強になるだろうから、一日だけやってみることにしたんだ」
家は寺であるが、別に咲耶自身は後を継ぐわけでも何でもない。
だったら別に、好きなことをやって構わないのである。そう答えると鍵太郎は納得がいったのか「なるほど、なるほどねえ……」と、しきりにうなずいていた。
それに――
「……木管楽器はお金がかかるんだよ。バスクラのリード、新しいのほしくて……」
「ああ……それは確かに」
咲耶の吹いているバスクラリネットという楽器は、リードという小さな木の板を振動させて音を出すものだ。
しかしこのリード、ものによって当たり外れが激しい上に、ほぼ消耗品なのである。
継続的に演奏をしていくためには、ある程度の資金がないといけない。
いい演奏をしたければ、いいリードを使え――
つまり、お年玉は全部リードに突っ込め。
先代のバスクラリネットの先輩にも、そしてクラリネットを吹いていた兄からも、咲耶はそう言われていた。
なので今回、経験と報酬の両方が手に入る、このアルバイトをすることにしたのだ。
「元旦の一日だけだけど、湊くんもよかったら来てね。たぶんお守りとか売ってると思うから」
「うん、行く行く! 超行く!」
なんだか鍵太郎が、妙に乗り気でぶんぶんとうなずくのが不思議ではあったのだが。
そんな彼に後押しされて、咲耶はよりいっそう気合いを入れて巫女業に励むことを決めた。
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そんなわけで。
「ここかあ……」
一月一日、元旦の早朝。
咲耶はその神社の、大きな鳥居を見上げていた。
さすがアルバイトを何人も雇うだけあって、相当に大きな神社だ。
気の早い参拝客の姿もある。その間を縫って、彼女は社殿から離れた建物へと向かった。
そこが指定された集合場所だ。途中で見かけた授与所には、自分と同じくアルバイトで来ている者が何人もが、寒い中巫女服姿でお守りを売っている。
「うーん、すごいなあ。あれをやるのかな?」
だいぶ寒いぞとは祖父からも兄からも聞かされていたので、咲耶も背中に二枚カイロを貼ってきていた。
そんな風にして大晦日から早朝まで働いている人たちに敬意を表しているうちに、目的の建物に着く。
中は休憩所も兼ねているようで、ガラガラと玄関を開けて中に入ると、たくさんの靴が散乱していた。
どうしよう、上がってしまっていいのだろうか――と、そんなことを考えていると。
「ああ。あなたが今日のお勤めの方ですね」
小さな、でもよく通る声が聞こえてきた。
聞いたことのないほど澄んだ響きに咲耶が驚いていると、巫女服を着たその人物が姿を現す。
小柄な体躯、なのに確かにある存在感。
つややかな黒髪、身にまとった凛とした雰囲気――。
あ、この人、本職の人だと咲耶が直感していると、彼女はニコリと笑って言ってくる。
「朝早くからありがとうございます。本日は、どうぞよろしくお願い致します」
「は、はい! よろしくお願いします!」
今まで見たこともないような、精練された笑顔だった。
アルバイトでなく、長年の経験によって培われた『本物』。
そんな人物と出会えたことに咲耶が感動すら覚えていると、彼女は穏やかに続けてくる。
「では、こちらで着替えていただきます。上がってください」
「はい、失礼します……!」
自分も大概浮世離れしているとか、落ち着いているとか言われたことはあるが、この人はそんなものをはるかに超越していた。
素晴らしい。やっぱり本物ってすごい。
もはや『麗しの巫女長様』と呼んでもいいくらいで――などと、そんな憧れに近いものを抱きつつ、咲耶が歩いていると。
巫女長様は、ある部屋の前で歩みを止めた。
そして彼女はそこのふすまを開け、前日から働いていたのであろう中で雑魚寝していた者たちに、涼やかな声で呼びかける。
「みなさーん。お勤めの時間ですよー。起きてくださーい」
と、すると。
薄闇の中でぐったりと寝込んでいた者たちが、むくり、むくりと起き上がった。
「ひ……っ!?」
その光景に、咲耶は思わず悲鳴をあげた。
まるでゾンビが一斉に復活したような動きだったからだ。しかもこの巫女長様、決して大声をあげたわけではない。
ただその静かな一声が、全員の精神の奥底まで響き渡っただけだ。
こ、この方もう、死人を操る術すら身につけていらっしゃるのか――!? と、咲耶が戦慄していると。
その麗しの巫女長様が、振り返る。
「ではあなたには、こちらの方たちと一緒に、本日のお勤めをしていただきます」
「は、はひっ……!?」
にっこりと笑って放たれたその力ある言葉に、背筋が必要以上に伸びた。
そんな咲耶に本職の巫女さんは、自分が着ているのと同じ、巫女服を差し出してくる。
「こちらに着替えてください。着方は分かりますか?」
「は、はい。大丈夫です……」
白い小袖に、緋袴。
正統派巫女装束を渡され、咲耶はそれに身を包んだ。
そうすると初めてのアルバイトにあった不安と緊張が消え、代わりに鏡面のように心が落ち着いてくるから不思議だった。
やっぱり衣装の力って大きいのかな、と咲耶が思っていると。
名前と台帳が書かれた紙を確認しながら、巫女長様は言ってくる。
「宝木さん、ですね。あなたのお役目ですが――」
「はい!」
その台帳に仕事内容が書かれているらしい。
お守りを売る係か、それとも参拝客を誘導する係か。
いずれにせよこの寒さだ、気張らなければ――と思っていると。
麗しの巫女長様は、予想外の仕事を口にしてくる。
「あなたにはこれから御祈祷を受けにいらっしゃる方たちの、受付などをしていただきます」
「え」
それは――まさか、屋内作業か。
どうしよう、背中のカイロは二枚ともばっちりと張り付いていて、今さら取れそうもない。
そしてもう一度着替えている時間は、既になさそうだった。
仕事内容をあれこれ言われ、それを必死に覚えるため暗唱する咲耶へと、巫女長様はにっこりと笑って言う。
「大事な参拝の方たちですので、くれぐれも粗相のないよう。ご奉仕をお願い致しますね」
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その数時間後。
「宝木さん、いないねー」
鍵太郎をはじめ吹奏楽部の面々は、咲耶がアルバイトをしている神社にやってきていた。
かなり大きな神社だ。屋台が出ているくらいの、相当な規模で――元日の昼間ということもあって、敷地内は人でごった返している。
そしてその人ごみの中を、巫女服姿の人物を探して見て回ったのだが、咲耶の姿はどこにもない。
浅沼涼子がその長身を生かして周囲を見渡すも、やはり見つからないようだった。
ひょっとしたら休憩中なのかもしれないと、そこで
「だとしても、こういうバイト中じゃ携帯も通じないだろうし……。しょうがないわね。お守り買ったら帰りましょうか」
「嫌だ! 俺は宝木さんの巫女服姿を見るんだ!」
しかしそこで力強く言い切ったのは、元日からやる気満々の鍵太郎だった。
「宝木咲耶の巫女服姿! 正月早々、こんな縁起のいいものがあるか!? ご利益だ、絶対ご利益あるぞ!」
「あんた何馬鹿なこと言ってんの!? 風邪のウイルスが脳にでも回ったの!?」
光莉が正月から、早くも切れ味抜群のことを言ってくる。
しかし鍵太郎は諦めない。不屈の精神で同い年の、最っ高に似合うだろう巫女服姿を一目見ようと、目を皿のようにして周囲を捜索する。
「今日はぶっちゃけ、そのためだけに来たんだぞ。じゃなきゃこんな混むところ、元旦から来るわけないだろ!」
「何この超バチ当たり野郎!? ていうか、病み上がりが無理するんじゃないわよ!? ぶり返したらどうするの!?」
「大丈夫だ、問題ない!」
先日風邪を引いて、部活を休んだことを言っているのだろうが、それはもう関係ない。
とっくに完治したし、それよりも今は咲耶だ。
クリスマスに話を聞いたときから、楽しみにしていたのである。
彼女ならアルバイトとは言っても、本職の人間に勝るとも劣らないほどの、輝きを見せるはずで――などと。
当の本人がその『本職の人間』に圧倒されたとは知らない鍵太郎が考えていると、光莉が言う。
「ホラホラ、学業成就と健康祈願! 今のところ、あんたに必要なのはこれよね!? さ、他の人の迷惑にもなるし、お参りしたら帰るわよ!」
「嫌だー!? 宝木さーん!? 宝木さーん!!」
「湊、だいぶ元気になったみたいでよかったねえ」
これなら今年のおみくじは、大吉ひけそうだねえ――そう言う涼子と、光莉の二人に引きずられるようにして。
「みこみこさくや、みこみこさくやー!?」という叫びも虚しく、鍵太郎はそのまま神社を後にすることとなった。
###
同時刻、その咲耶といえば――
「うう……暑い……暑いよぉ……」
と正月早々、顔を真っ赤にして苦しんでいた。
半ば朦朧とした意識で考える。できることならば、今すぐこの服を脱ぎ捨て、もう少し涼しい格好をしたい。
けど、ダメなのだ。
いくら汗だくでも手がベタベタでも、『この服』を脱いではいけない理由が、ここにはある。
そう、なぜなら自分は――
「お姉ちゃん、みかんちょうだい」
「あ……はい。どうぞ」
由緒正しき神社で、巫女さんのアルバイトをしているからだ。
巫女長様に仰せつかった仕事は、社殿で直接厄払いや祈祷を受ける人を、接待するというものだった。
つまり会場に来た人間に甘酒を振る舞ったり、テーブルに置いてあるみかんを補充したりするという仕事である。
だが待合室といってもこの規模の神社ともなると、ホテルのパーティー会場並みの広さがあった。
というか実際、ここで結婚式の披露宴をしたりもするらしい。
そんなだだっ広い会場の中を、咲耶は他のアルバイトを含め、たった三人でフォローして回っている。
外見上走れはしないが、気分はもう駆けずり回っているようなものだ。
水分を取る時間はほぼない。加えて咲耶は背中のカイロのせいで汗だく、甘酒がこぼれた手を拭く暇もないまま、フラフラで作業を続けていた。
そんな限界に近い状態だったが、今しがた子どもに催促されたので見てみれば、確かに近くのテーブルのみかんが尽きている。
急いで補充しなければ――と動きかけたとき。
その子どもの母親だろう、みかんを持った子の頭を撫でながら、女性が声をかけてくる。
「あらまあ、すみませんね。運ばれてくるまで待ってなさいって言ったのに」
「あ、いえ。お――」
そこで、「お仕事ですから」と言いかけて、咲耶の言葉が止まった。
脳裏によぎるのは、あの麗しの巫女長様の姿。
そしてこんな状況では、きっと出会えないだろうけど――今日は絶対にここに来てくれたであろう、彼の姿だ。
あの人たちだったら、こんなときに何て言うだろう。
真面目で責任感の強い、そして真っ直ぐに。
その道を往く人だったら――と。
そこまで考えて、咲耶はゆっくりと微笑んだ。
そして、突然黙り込んだこちらに、きょとんとした顔をしている親子へ。
今できるその精一杯の笑顔を向けて、言う。
「お――お勤めですから!」
アルバイトかどうかなんて、関係ない。
この人たちにとって、自分は今、巫女さんなのだ。
ならばこちらは、それに徹しきらなければならない。こんな風にお正月で楽しそうにしている人たちの気分に水を差すなんてこと、あってはならないのだ。
それは、この服を着る者として。
そして、舞台に立つ者として――守らなければならない最後の一線だった。
けれどこの親子には、そんなこと関係ない。
むしろ、そんなことを悟られてもならない。
そんな咲耶の心の踏ん張りが、功を奏したのか。
親子はこちらの笑顔を見て「ありがとう」と微笑み返し、去っていった。
そしてその親子の後ろ姿を見つめ、咲耶はつぶやく。
「湊くん――私、やったよ……」
その微笑みは一瞬だが、本日鍵太郎が最も見たがった、『本職に勝るとも劣らない』輝きを見せていたのであるが――
それは彼も、そして咲耶自身も知らない。
どんな道も、究めるにはまだ遠い。
けれども私は、あの人たちに少しでも近づけたでしょうか――
そんなどこか晴れ晴れとした気持ちでもって、咲耶は『お勤め』を再開した。
###
そして後に、貴重なリード代となるお給金をもらい、家に帰ったところで――
彼女はそのまま脱水症状で倒れ、事情を聞いた鍵太郎から、健康祈願のお守りを譲り渡されることになるのだった。
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