第193話 自分の心の中のテンポ
本番の時間が近づくにつれて、体育館には段々と人が集まってくる。
思い返せば、去年もお客さんの入りはこのくらいだった。
土曜の昼間、しかも雨が降っているとなればこれが妥当な集客数なのかもしれない。
少しずつ埋まっていく客席を眺めつつ、
近くにいる後輩の
「うーん、あんなにがんばってチラシを配ったのに、お客さんはいっぱいにはならないんですねえ……?」
今回が初めての学校祭となる朝実は、つい先ほどまでこれからやるコンサートのチラシを張り切って配っていた。
その様子は、鍵太郎も目にしている。
後輩たちが一生懸命宣伝活動をする様は、見ていて微笑ましいものだった。
だが朝実としては、それだけやったのだから、もっと人が来るものだと思っていたらしい。
頭に下げた三つ編み共々しょぼんとする後輩に、鍵太郎はどう声をかけていいものか戸惑っていたが――しかし、そんな彼女に声をかける姿がある。
今回の演奏会の指揮者を務める、
「宮本さん、大丈夫だ。きみががんばってくれたから、ここにはこんなにお客さんが集まったんだよ。だから来てくれた人たちには、いい演奏を聞かせようね」
そう言ってにっこり笑うこの先生は、やはりプロとしていくつもの本番をやってきたからだろう。
朝実の考えるようなことは、もうとっくに乗り越えているようだ。
ここにいない人のことを考えるより、いる人のために演奏しよう――
その言葉は、傍で聞いていた鍵太郎にとっても心に響くものだった。
まして直接言われた朝実にとっては、なおさらだろう。
彼女はすぐさま、「そっか。そうですよね」と言って、気を取り直したらしい。
すると城山はさらに、茶目っ気たっぷりに笑う。
「というわけで。僕はこれからいつもより、ちょっとだけ早く指揮を振るよ。雨でどこかぼんやりしてるお客さんを、僕らの演奏ではっとさせてしまおう」
「はーい!」
「わかりました」
指揮者のその宣言は、そのテンポの鍵を握る低音楽器の二人にとって、気合を入れるに十分なものでもある。
そうと分かれば、あとはやるだけだ。
他の部員たちにもその旨を伝え、皆もそれにうなずいて応える。
そう、ないものを数えたところでしょうがない。
そんなことをしても、気が滅入るだけだ。
だったら今目の前にいるお客さんに向けて、精一杯の演奏をした方がいい。
ここに来てよかったと思ってもらえるような、とびきりのものを――と、そう思ったところで。
城山は指揮台に上がり。
お客さんに一礼をして。
そして、一日目の演奏が始まった。
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目の覚めるようなスネアの音が、湿気を切り裂いて駆け抜けていく。
あのちびっこ鬼軍曹、やはりあそこから悪戦苦闘しながらも、本番には間に合わせてきたらしい。
それを心の中でとても愉快に思いながら――鍵太郎は、いつもより少しだけ早めのテンポで、ビートを刻み始める。
周りの部員たちもそんな現部長と、次期部長のリズムに乗ってきた。
効果はてきめんのようだ。お客さんの注意が、一気に舞台の方に集中したのがわかる。
体育館の中の空気を入れ替えるようにして、爽やかな旋律が吹き抜けていく。
キラキラした輝きをまとったメロディーの間からホルンの咆える音が聞こえてきて、さらに曲のテンションが上がっていった。
高い山の上から射抜くようなあの先輩の正確な号令が飛んできたら、あとは全員で突撃するだけ。
これまでのビートとメロディーと、輝きを全部織り交ぜたものが渾然一体となったときにはもう、その空間は完全に曲に塗り替えられていた。
淀んだ雰囲気は既になく、あるのはただこの場をよくしていこうという望みだけ。
もう一山を越えるように一歩一歩ずつ足を踏み出して、最後に駆け上がるようにして音が飛んでいけば――
あっという間に頂上からの景色が見えて、そしてそこからまた、曲は進んでいく。
その次に待っていたのは、あのちょっとぽっちゃりした先輩の、優しいソロの時間だった。
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『民衆を導く自由の女神』でも、同じくユーフォニアムのソロは柔らかく温かく、周囲を照らし出していた。
コンクールが終わっても、それは変わらない。
むしろひとつの大きな本番を終えて、さらに磨きがかかったように思える。
この先輩が先ほど、やりたいことは思いきりやり切っちゃえばいいんだよ――と言ったように、来年の今頃自分はそうなれているだろうか。
分からないけど、今は今を全力でやり切るしかない。
願わくば、この曲のように豊かな未来を。
優しさの中にも強さを秘めた響きを。
人によって思うことは様々あるだろう。特に目の前でバリトンサックスを吹く朝実は、コンクールの本番で間違えてしまったことを、今でも悔いているかもしれない。
だったら、そんなことを考えなくてもいいんだよと言えるくらい、強くなりたかった。
あのときはそう言っても、後輩は泣きじゃくったままだったのだ。
だけどこれからは、その涙を止められるくらいの自分になりたかった。
彼女だけではない、全員にそう伝えられるだけの大きな自分になりたかった。
今日と明日のこの本番が終われば、今この演奏の中心になっている三年生はいなくなって、自分たちがここを引っ張っていくことになる。
自信があるかと言われれば、今だってない。
けれどもう迷っている時間も、猶予もない。
だったらせめて、この瞬間だけでもそうなれるように進んでいきたかった。
誰も泣かせないなんて不可能だろうけれど。
絵に描いた理想論だと誰かは言うだろうけれど。
それでも――今そこで指揮を振っている先生の言ったように、せめてこの場にいる人だけでも笑えるようにすることは、できると思うのだ。
自分の心の中のテンポを、もう少しだけ早くして。
そうやって進んでいけば、いつかきっとそこに辿り着ける。
そう信じて出した音は、ひょっとしたら先輩と同じようにコンクールで出した音よりも、遠くに響いたかもしれない。
『信仰』が武器だというのなら、いくらでも信じてやる――
そう思って最後の音を吹いて、口から楽器を離したとき。
客席から大きな拍手がしてきて、むしろこっちが驚いた。
「は、ははは、はは……!」
その拍手を聞いていたら、なんだかこっちがおかしくなってきてしまって。
思わず声を出して笑っていたら――
次の曲で客席の前で踊る予定である、同い年のアホの子がいつの間にか、こちらの近くまでやってきていて。
気合が入っているのだろう。どう考えてもおかしな力加減で、肩を叩いて言ってきた。
「さあて! これからまだまだ本番は続くよ! 盛り上げていっちゃおうね湊!」
そして彼女はこちらの返事も待たずに、飛び跳ねるようにして舞台前方に向かっていってしまって。
そんな天才肌の、同い年の背中を見送り――
「うーん、あいつのテンポには俺もまだまだ、追いつけないかな?」
けれどそんなことすら、笑って言うことができたので。
鍵太郎はそのまま、次に吹く曲のための準備を始めた。
学校祭一日目。
その本番はまだまだ、始まったばかりだ。
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