第191話 湿気との戦い

 学校祭一日目。

 吹奏楽部コンサート。


 それはいつものように、学校の体育館で行われることになっている。

 朝早く来てリハーサルも終え――湊鍵太郎みなとけんたろうは、会場をひと通り見渡していた。

 今回のステージは後輩たちの要望通り、派手に飾り付けがされている。

 その飾りつけが剥がれていないかや、舞台の椅子の位置、さらにお客さん用のパイプ椅子の並び方や汚れていないかに至るまで――

 全てをチェックし、しかし特に異常はなかったので鍵太郎はほっと胸を撫で下ろした。

 念のための確認ではあったが、これで安心して演奏に集中できそうだ。

 これからは校内へ宣伝に向かい、本番を待つだけになる。

 そうなってくると、もうこういったことをやる時間もない。

 何事も、準備が大事なのだ。

 そう思ってうなずく鍵太郎の周囲では、これからお客さんをここに呼び込むべく告知用の看板や、チラシを持つ部員たちがはしゃいでいる。

 気合い十分、準備も万端。

 そんな部員たちであったが――

 ただ一人、意外な人物が体育館の床でダレていた。


「ああ、雨です……雨なのですぅ~」


 まさかの現部長である、貝島優かいじまゆうが。

 普段の威厳を微塵も感じさせない口調で、ぐんにゃりと体育館のマットに突っ伏していた。

 十月末のこの時期は、秋雨前線の影響なのか妙に雨が降りやすい。

 そういえば去年の学校祭の一日目も、思い返せば雨だった。

 その例に漏れず今日も、外ではしとしとと雨が降っていて――体育館の入り口からは、今も少しの雨音と匂い、そして湿気が漂ってきているわけだが。

 そのせいでふやけたせんべいのようになった優が、チャリチャリとタンバリンを鳴らして言ってくる。


「雨はぁ~、嫌いなのですぅぅぅ~。タンバリンとかの皮は湿気でボヨンボヨンになるし~。木琴系は音程下がるし~。いくらドライヤー使っても、限度ってもんがあるのです~。ああ、もっと乾いた張りのある音が欲しいぃぃぃ……」

「た、確かにこう湿度があると大変そうですね、打楽器は……」


 いつもとは違いすぎるそんな先輩の体たらくに、鍵太郎はもはやちょっと引きながらそう応えた。

 いくらこの部における打楽器のスペシャリストである優でも、天候には敵わないらしい。

 何事も準備が大事と言うが、これまでの準備を全部計算外にさせるようなこの雨だ。

 そんな理不尽に散々あがいたものの、さすがにこの鬼軍曹も力尽きたということなのだろう。

 しかしあと二日とはいえまだ部長なのだから、もうちょっとシャンとしてほしいものだが――と、鍵太郎が苦笑いしていると。

 後ろからいつもの、元気な後輩の声が飛んでくる。


「せんぱい! これから恵那ちゃんと宣伝行ってきますね! 宣伝!」

「……行ってきます」


 はしゃぎ気味に言ってきたのは一年生の宮本朝実みやもとあさみ、そしてその後ろに隠れるようにして言ってくるのは、同じく一年の野中恵那のなかえなだ。

 特に朝実は初めての学校祭ということで、興奮を抑えきれないのだろう。

 トレードマークであるぶっとい三つ編みをぴょんぴょん跳ねさせて、踊り出しそうな勢いでこちらに言ってくる。


「チラシいっぱい撒いてくればいいんですよね!? 任せてください! 恵那ちゃんと一緒に、ガンガン配ってきちゃいますから!!」

「……(こくり)」

「あ、ありがとう。でも、宮本さんはともかく、野中さんは大丈夫?」


 ノリノリの朝実とは対照的な性格のはずの恵那に、鍵太郎は心配になって声をかけた。

 ただでさえ、人見知りの激しそうなこの後輩のことだ。

 朝実が近くにいるとはいえ、果たして知らない人間相手に宣伝ができるのだろうか。

 そう思って訊いたのだが。


「……っ!」


 いつものように恵那はビクッと震えて、しかし真っ赤になった顔を隠すように持っていた看板を突き出してくる。

 そこには――


「うわあ、すごい切り絵……」


 コンサートの場所と時間の告知の他に、今回やる曲にちなんだキャラクターや図柄が、センスよく貼り付けられていて。

 これには鍵太郎も、思わず感嘆の声をあげた。この見事さなら人ごみの中でも、結構目を引くだろう。

 持って歩いているだけで宣伝になる。

 それに目を留めた人に朝実がチラシを配れば、さらに強力な広告になるはずだ。


「すごいな。これ、野中さんが作ったの?」

「……っ」


 こくこく、と看板越しにうなずいてくる後輩に鍵太郎はもう一度「すごいね」と伝えた。

 人と話すことはどうも苦手な後輩のようだったが、まさかこんな特技があったとは。

 これなら彼女も十分に戦力として、宣伝を行ってくれるだろう。

 そうだよな、人には人の戦い方があるんだよな――と改めて感心しつつ。

 鍵太郎は恵那に声をかける。


「前いた先輩もそうだったけど、やっぱりクラリネットの人って、すごく手先が器用なのかな。俺なんか鶴も折れないくらいだから、本当尊敬するよ」

「……っ! ……っ!!」

「今度コツを教えてもらいたいくらいだなあ。ねえ野中さん、後で教えてくれる?」

「……っ!! ――っ!! ~~~~っ!!」

「あ、恵那ちゃん! 待ってー!!」

「……ああ、行っちゃった」


 顔を真っ赤にしたまま、泣きそうな目をして逃げ去ってしまった後輩のことを、鍵太郎は少し残念に思いながら見送った。

 なんとか恵那との距離を縮めようと思っての行動だったが、逆効果だっただろうか。

 これから部長になるにあたって彼女とはもう少し話をしていきたいと思っているのだが、なかなかどうして、上手くいかない。

 ダッシュで体育館から出て行く恵那と、それを追いかけていく朝実。

 そんな後輩二人の行動に、様々な感情を織り交ぜて――鍵太郎はやれやれと苦笑いする。

 あの様子ならまあ、宣伝については心配ないだろうけども。


「なかなか後輩との関係っていうのは、上手くいかないもんですね。貝島先輩」

「……いや、私の目にはこれ以上ないほど、上手くいっているように見えるのですが……」

「え、そうですか?」


 今のやり取りのどこに、そう見える要素があったのか。

 首を傾げていると、優は半眼で「湊くんのそういうところが、私はこれからちょっと心配なんですが……まあ、いいです」と前置きして、言ってくる。


「……後輩との関係については、私も人のことを言えたものではありません。あのとき彼女を『切り捨てて』いたら――たぶん、今の光景はなかったんでしょうし」

「……先輩」


 今年のコンクールの前に、優が恵那のことを激しくなじるということがあった。

 それから色々あって、こうしてあの後輩はここに残っているのだが――

 それでも一歩間違えれば、彼女は今ここにいなかったかもしれない。

 あの後優は恵那に謝罪はしたものの、それでもまだそのことは、どこかでしこりとなって残ってしまっているのだろう。

 でも――


「……俺はね、先輩。これでよかったと思ってるんですよ」


 元気に走り去っていった後輩たちのことを。

 綺麗に飾り付けられた舞台のことを。

 そしてこうして誰も欠けないまま、こうして本番を迎えられることを――

 とても嬉しく思いながら、鍵太郎は先輩に言う。


「何があっても、誰がどんな風に思ってても。こうしてみんなで本番に乗れて、よかったって思ってます」

「……そうですか」


 湊くんのそういうところは、私はとても安心して見ていられますよ――と。

 そう言って現部長はスッと微笑み、またチャリチャリとタンバリンを鳴らす。


「……すごく色々あったけど、私はここにいてよかった。最後まで、ここにいられてよかった。

 それでよかったんだなと――今ようやく思えました」


 あと二日しかここにはいられないけれど。

 それでも、ここにいるうちにそう思えてよかったです――

 そう言って優は、ようやくマットから身を起こした。


「さあて。ではもうひと頑張りしますか。後輩たちには負けていられません。私はもう少し、湿気との戦いを続けることにします」

「お。それでこそ先輩」


 武闘派鬼軍曹――と言ったら、またマレットで殴られそうな気がしたので、言わずにおくことにして。

 再び闘志を取り戻した優を見て、鍵太郎は笑う。

 人には人の戦い方があって、それぞれ戦う場所がある。

 ならば――自分もそれに従って、やれることをやればいいのだろう。


「さて。じゃあ俺も宣伝に行ってきますか」


 準備は尽くした。

 あとはそれぞれがそれぞれの武器を持って、各々の場所で戦うだけだ。

 そうすれば外で雨が降っていようとも――ここではそれを吹き飛ばせるだろう。

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