第170話 フラットのおとしもの

 本当に、周囲でなにかが爆発したのかと思った。

 それが自分の周り部員たちのあげた歓声だったのだと――湊鍵太郎みなとけんたろうは、一拍遅れて理解した。

 見れば部員の中には、叫びをあげながら立ち上がった人間も何人かいるらしい。

 そんな風に、あまりのことに驚きの方が先に来てしまったが――

 後になってじわじわと、起こったことを認識する。


 ゴールド、金賞――。


 そのアナウンスは、今でも耳にはっきりと残っていた。

 この吹奏楽部が創設されて以来初めてだという、コンクールでの金賞。

 本当に取れたんだ、と鍵太郎は目を見開いて舞台の上を見た。そこには歓声の中でトロフィーを受け取る部長と、副部長の姿がある。

 それと、周りの反応を見渡して――鍵太郎はようやく、それが事実なのだと状況を受け止めることができた。


「は、ははははは……!」


 この光景を目指してここまでやってきたが、まさか現実にこうなるとは思っていなかった。

 なにしろ、どうすればいいかもわからない中でここまでやってきたのだ。

 たぶんこうだろうとか、こうすればいいんじゃないかとか――そんな曖昧なものばかりを目印にしてきた。

 けれど、そのことがやはり、間違いではなかったとわかって――

 鍵太郎は泣きたいような笑いたいような不思議な気持ちで、声をあげていた。

 トロフィーと賞状を受け取った部長と副部長が、舞台の上から客席に向かって頭を下げる。

 それを再びの歓声で見送ると――収まらない高揚感の間を縫って、誰かの声がした。


「ねえ、ひょっとしたら代表にもなれるかな……!?」


 そう。ここまで来れば、もう一段階上にという欲も出てくる。

 県大会の先は東関東大会だ。そこに行くためには金賞を獲った上で、さらに県代表の権利も取らなくてはならない。

 県代表は金賞を取った学校の中から、審査員が決めることになっている。

 さらに枠が少なくなるわけだが、そこに入ることはできるのだろうか――。

 全団体への賞の表彰が終わり、今度は東関東推薦枠の発表に移った。

 金賞を取った学校の生徒たちが、固唾を呑んで舞台の自分の部の代表者たちを見守っている。

 県の代表枠は五つ。

 対して、金賞の受賞校は七校。

 二校は確実に、ここで落とされることになる。演奏順に代表校が発表される中、鍵太郎たち川連第二高校の前に、既に二団体が代表として名前を呼ばれていた。

 先ほどのようにわっと歓声があがる中で、鍵太郎の周囲には、押し詰まった沈黙だけが漂っている。見れば手を組んで、一心に祈っている部員もいた。


「……」


 その光景にいい予感とそうでない予感の両方がして、覚悟を決める。

 なにに対して、と言われたらそれはわからないが――

 そう思っている間にも、時間は過ぎていく。十四番、川連第二高校――と呼ばれるときを待つ。

 そして――



『――十七番』



『――っ!』


 通り過ぎていった。

 目の前に来ていた県代表は、自分たちの手を滑り落ちて別のところに行ってしまった。

 悲鳴のような押し殺した叫びの中、トランペットの同い年の声が聞こえる。


「これでも、だめなの……!?」


 いや、違う――と、鍵太郎はその言葉に対して反射的に思った。演奏自体はそこまで悪くなかった。

 ただ本番の演奏に、そのまま自分たちの歩いてきた道が出るというのなら――


「……最後の最後に、貝島先輩を信頼しきれない部分が残ったんだ」


 そこだけが一歩、及ばなかったのだと思う。

 予選前のあの状態から、ここまで来るのにたった三週間しか残されていなかった。

 争いの勢いの反動のように結束を高めていったとはいえ、さすがに他の部員――特に一年生には、部長に対して思うところがまだまだあったのだろう。

 そういった部分が演奏面や練習の組み立て方に、ほんの少しの影響を残していた。

 そしてその影響を抜き去るには、まだまだ時間が足りなかった。なにが足りなかったのか、と言われれば、おそらくそんなところだろう。

 どうしてだろう、あの師匠のおかげだろうか、妙に冷静に分析できた。

 ならば、その先の話も――


「……じゃあ、もし」


 あんな事件が起こらずに。

 それでも、部員たちが結びつくことができたのなら――?


 そうしたらこの結果は、また別のものになっていたのではないだろうか。

 いや、終わった後だからこそ、こういうことは言えるのかもしれないが――


「……」


 だとしたら、これからどうすればいいのだろうか。

 先ほどの混沌とした予感と覚悟を胸に、鍵太郎は代表に選ばれた学校の代表者たちへ拍手を送っていた。



###



「そっか、ダメ金だったかあ――」


 閉会式が終わって、会場を出たところで――

 ユーフォニアムのちょっとぽっちゃりした先輩が、ぽつりとそうつぶやいた。

 その声には存外、暗い響きはない。

 むしろどこか晴れ晴れとした、やりきったものが感じられる。

 そしてそんな彼女の周りには、鍵太郎を含め閉会式に出た部長と副部長を待つ、部員たちがいた。

 さらには今日の演奏の手伝いに来た、OBOGたちの姿もある。先輩たちもなんだかんだ、最後までつきあってくれたらしい。

 それらを見渡して――鍵太郎は、先ほど先輩の口にした単語を反芻する。

 そうだ、そういえば『ダメ金』というのだ、これは。

 選抜バンドで聞いた言葉――代表権のない金賞。

 金賞は金賞でも、ここで自分たちの挑戦は終わる。

 それは、悔しいのかもしれない。

 ただ――この光景には、聞いていたほどの悪印象はないような気がした。

 それは、自分が既にこの結果に納得してしまっているからだろうか。

 それとも、みんなが――と思ったところで。


「みなさん、お待たせしました!」


 部長の貝島優かいじまゆうが、小さな身体に不釣合いなほどの大きなトロフィーを持って、こちらに戻ってくる。

 初めての結果を持って帰ってくる部長だ。そんな彼女と副部長を、部員たちは大きく手を振って受け入れた。

 すると円陣の形になる部員たちの中で、部長はトロフィーを持ったまま挨拶を始める。


「――色々なことがありましたが、こうして金賞という結果をいただけたことは、とてもよかったことだと思います。ただ――ダメ金はダメ金です。悔しいです! 後輩のみなさんはこれをバネに、さらに励んでくれることを望みます!」


 優らしい、とても厳しい言葉だった。

 これだからこそ、彼女は彼女だ、とも言えるのだろうが――そう思わず苦笑すると、部長は気に入らなかったのか、さらにヒートアップする。


「何を笑ってるんですか湊くん!? 来年は、あなたたちが中心になってやらなくちゃいけないんですよ!? この結果に満足せず、さらに上を目指していかねばなりません! そのためには――」

「――あー、貝島?」


 そんな彼女へと声をかけたのは、それまでそんな部長を見守り続けてきた、滝田聡司たきたさとしだった。

 鍵太郎よりさらに苦笑度合いの強い彼は、去年卒業した打楽器のOBだ。

 つまり優にとっては、直接の先輩にあたる。

 そして、それ以上に――


「……先輩」

「お説教もいいけどよ、まずは素直に金賞を取れたことを喜んでもいいんじゃねえか?」


 彼女にとっては、特別な存在であるはずだった。

 一時は差し出される手を拒み。

 信念を否定し、まるで別の道を行こうとしていたはずの、その人だが。

 しかし――


「スゲエな、おまえは。オレたちにできなかったことを、遂にやっちまったんだよ」


 その先に待っていたのは、やっぱりその人の笑顔だった。


「がんばったな、貝島」

「……う」


 それを前にして――


「……う、うううう……っ!?」

「あ、こら泣くな!?」


 部長は目から、大粒の涙をこぼしていた。


「う、ううううーっ! 先輩、せんぱい……っ!」

「ちょ、おま、こんなところで、いきなり泣くんじゃねえよ!? おい!?」


 笑ってろ! 最後には笑うんだよ! と、慌てる聡司と、泣き続ける優を見て――

 鍵太郎は、この部長がかつてなんのために金賞を取りたいのかわからない、と言っていたことを思い出していた。

 だが今の優を見れば、その理由はすぐに察しがつく。

 あのとき彼女は部長だからとか、上手くならなきゃいけないからとか、そんな難しいことを言っていたけれど。

 なんだかんだ言って、結局――


「せんぱ、い……っ!」


 この人もただ、一番好きな人に、褒められたかっただけじゃないか。


 去年の自分と、まるで一緒だ。

 自分でも止められないくらい、その感情は溢れてしまっている。

 なにが正しいかもわからないまま反抗して、傷ついて、気を引いて――

 でもこの人は、最後の最後に、自分が心から望んでいたものに出会えた。

 今流している涙が、その証拠だ。なら、それでいいじゃないか。

 そう思っていると――その光景を見守っていたOGの先輩たちから、声があがる。


「あー。また滝田が優ちゃん泣かせてるー」

「ちっちゃい後輩泣かすとか、最低だなあ」

「おまえら笑ってないで、こっち来て幼女を泣き止ませる手伝いをしろよ!?」


 聡司の必死に叫びに、二、三年生、そして卒業生を知らないはずの、一年生たちからも笑いが起こって――

 そしてそこで再び、感情が爆発した。

 悔しい、と泣きながら言う先輩がいた。初めての金賞が取れてよかった、と言う後輩もいた。

 これまで出会ってきたように、色々な人の色々な感情が渦巻く中で――

 やっぱり『これ』って、ダメ金とかってそんな卑下するようなもんじゃないと思うんだけどな、と鍵太郎は思う。

 どんなものでも、そこに至るまでにかけてきた思いがあった。感情があった。

 なら――それくらいは認めたって、いいんじゃないか。

 心のどこからか流れてくる涙をぬぐって、そう思う。

 そして――


「……宮本さん?」

「せん、ぱい……」


 同じ低音楽器の後輩、宮本朝実みやもとあさみが呆然と優の方を見ていることに、そこで鍵太郎は気がついた。

 そういえば彼女は、本番で自分がうまく演奏できなかったと落ち込んでいるようだったが――

 それを思い返していると、後輩の口が動く。


「間違えちゃったんです。本番――最後のやつ」


 いっぱい、臨時記号フラットがついてるとこ――と言って、朝実はぼろ、と涙をこぼした。


「貝島先輩が泣いてるのは、代表になれなかったからですか? わたしが、間違えちゃったからですか……?」

「違う……違うよ、宮本さん!?」


 鍵太郎も同じ動きをしていただけに、朝実がどこのことを言っているのかすぐにわかった。

 彼女が言っているのは曲の最後の最後。

 おそらく審査員はもう、とっくに講評を書き終わっているだろうところだ。

 だからその間違いは、結果には全く影響ないはずだ。

 だがそう言っても、後輩の涙は止まらない。


「ごめんなさい……間違えちゃって、ごめんなさい……!」

「大丈夫、大丈夫だ! 宮本さんのせいじゃない、誰のせいでもない!」


 ここにいる誰も、間違えたくて間違えたやつなんていない。

 ただここで、小さな落とし物をしただけ――

 そう言いたくて鍵太郎は、泣き続ける後輩に言った。


「大丈夫だ。次がある、また来年がんばろうな――!」


 だが――

 そう言う鍵太郎自身の脳裏に、ある疑問がよぎる。

 来年、自分は三年生だ。

 最後の年。それでもう、後はない。

 なら、その最後のコンクール――


「――俺は、どうするんだ……?」


 思わずそう口にするも、いまだ収まらぬ感情の渦の中では、返ってくる声もない。

 苦難の巡礼の末、辿り着いた『答え』と。

 そして、新たな疑問を抱えたまま――彼の道程は、まだ続いていく。


第12幕 セントエルモの火〜了

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