第133話 合宿といえばカレー
「人を傷つけても、なにを犠牲にしても、欲しいものってあるじゃない?」
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県の高校の吹奏楽部員が集まる、選抜バンド。
そこでは今、明日の本番に向けて合奏が行われている。
「クラリネット、メロディーのヤマと到達点はちゃんと設定しなさい。もう一度」
そう言って、富士見ヶ丘高校の顧問、
今回はこの先生の学校、富士見ヶ丘高校が主催となって選抜バンドを運営しているのだ。
鍵太郎がクラリネットの演奏を聞いていると、その富士見ヶ丘高校の生徒である清住が、隣で苦笑して言う。
「……時間かかっちゃってごめんね。うちの先生は木管の先生だからさ、やっぱりメロディーの歌い方は気になるみたい」
「あ、いや。いいんじゃないですか」
自分の専門の楽器の音は、どうしても耳に入って気になってしまうものだ。鍵太郎は左隣にいる清住に、首を振ってそう返した。
木管楽器であるクラリネットには、鍵太郎と同じ学校の部員がいる。
金管楽器と木管楽器は、役割が違う分吹き方も違うのだ。こちらの学校は金管楽器の先生だし、こういった形で専門の先生から指導してもらえば、彼女にとっても得るものが大きいだろう。
やはりいつもと環境が違うと、やっていることが違う角度から見られるので新鮮だった。
鍵太郎がそう思っていると、クラリネットのフレーズに長岡がうなずく。
納得がいったらしい。にっこり笑って、彼は言った。
「よーし、クラリネット、オッケー。牧場じゃないよ?」
「先生、うちの学校の人間が頭を抱えてますのでやめてください」
またしても出た長岡の寒いギャグに、清住が即座に突っ込んだ。
そのやり取りに笑いが起こる。「うぉっほん」と長岡が咳払いし、それにもくすくすと笑いが起きた。
強豪校のひとつと言われている富士見ヶ丘高校だが、今行われている練習の風景はなごやかなものだ。
それに鍵太郎は、違和感を持った。
今のこの雰囲気と、記憶の中にいるあの人。
先輩が
三年の演奏会までやって、コンクールをやらずして引退した、先輩の友達。
あの人はどうして――ここからいなくなってしまったのだろうか?
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「え、湊くん、ウチの演奏会来たことあるの!?」
合奏が終わって、食堂で夕飯のカレーを食べながら。
鍵太郎は清住と話していた。
選抜バンドは土日の二日間の日程で行われる。
今日はこのまま、全員で合宿だ。合宿といえばこれということなのか、食堂は今カレーの匂いで満ちている。
そんな中、清住はとても嬉しそうにこちらを見ていた。それはそうだ。鍵太郎だって、もし「学校祭の演奏見てたよ」などと知らない人に言われたら、驚愕と嬉しさでどう反応していいかわからない。
鍵太郎たち普通の吹奏楽部が学校祭の片隅でやる演奏と、清住たち強豪校が大ホールで演奏するのとでは、比べ物にならないかもしれないが――
それでも、自分たちの活動が知らない誰かに見られているというのは嬉しいものだ。清住は目を輝かせて、鍵太郎に「ありがとう!」と言ってきた。
「あ、じゃあゼビアも聞いてた?」
「聞いてました。参考になりました。あと最後の……踊ってたやつ」
「『ソーラン・ファンク』ね! あれも大変だったなあー」
まだ一か月ほど前のことだが、清住にとっては既に懐かしいもののようだ。思い出すように演奏会の話を始める。
最後のあの踊りは、部員たちで考えたオリジナルだということ。
なにかを配るというのは、富士見ヶ丘高校定期演奏会のいつからか続く『伝統』で、それを今回はあの鳴り物にしたということ。
鳴り物に使ったガチャガチャのカプセルは、何か所かのスーパーやおもちゃ屋などに頼み込んでなんとか予定数を確保したということ――などなど。
聞けば聞くほど楽しそうで、あの演奏会の裏でそんなことがあったのかと、気が付けば鍵太郎は聞き入っていた。
苦労したという割に、清住はひどく楽しそうな顔をしている。それを見ると、ああ、やっぱりこういうのはA部門もB部門も関係ないのかなと思った。
あの人だって、楽しかったに違いないのだ。
それが、どうして。
清住の気持ちに水を注すのはわかっていたが、今訊かなければ二度と訊けない。
そんな気がしたので、鍵太郎は思い切って彼女のことを口にしてみることにした。
「あの……清住さんは、去年そちらを引退された、夏見という人を知ってますか?」
「――」
その名前を出した途端、清住のしゃべりがぴたりと止まった。
ややあって、彼は口を開く。
「……きみは山本先輩を、知ってるの?」
夏見――本名は、山本夏見というらしい。
初めて知った。鍵太郎にとって彼女は、去年の富士見ヶ丘の演奏会で先輩越しに見た、それだけの存在なのだが。
しかしその姿は、小さなしこりとなってずっと記憶の中に残っていた。
「先輩の友達だったんです。去年その……ひどくその人が疲れてるのを見て」
「……そう」
音楽を嫌いになった、と言っていた彼女。
鍵太郎にはそれがどうにも、理解できなかった。
自分は音楽が好きだし、富士見ヶ丘高校も思っていたよりいい雰囲気のように見えた。
辞める要素が見当たらないのだ。
どうして先輩はあのとき、泣かなければならなかったのか――それがとても、気になっていた。
鍵太郎がそう言うと、清住は少し考えて、語り始める。
「……山本先輩は、ギャップに耐えられなかったんだと思う」
「ギャップ?」
「うん。富士見ヶ丘は、コンクールと演奏会を別のものとして考えるから」
「別のもの……」
やっているのは同じ音楽ではないか。首をかしげていると、清住は説明してくれた。
「演奏会は楽しく。コンクールは厳しく。エンターテイメントと勝負事を分けて考えるんだ」
「……『勝つための音楽』ってやつですか」
「そう」
それは去年、強豪中学出身のクラスメイトが言っていた言葉だった。
そしてそれに、清住は迷いなくうなずいた。
「演奏会ではわりと自由にやってたけど、コンクールになるとそれ向けの音楽に作り替えるんだ。コンクールの課題曲であるゼビアもそう。
金賞を『取らなきゃいけない』。だからすごく作りこむし、コンクールの前はみんなピリピリする。……それが嫌だったんじゃないかなと、僕は思う」
「……どのくらい厳しいんですか、コンクール前の練習」
コンクール前に多少ピリピリすることは、鍵太郎もわかっている。
去年も少しはあったし、今年はそれ以上になりそうな予感がした。
楽しげな雰囲気がコンクール前になると変わってしまうのだ。やはりそこは、富士見ヶ丘高校も同じということらしい。
そうなれば、自分の部活にも山本夏見のような人間が出てきてもおかしくない。
なんとかそうならないようにという思いもあり、鍵太郎は訊いてみたのだが――強豪校の人間の口から出た言葉は、鍵太郎の想像以上のものだった。
清住は、夕飯のカレーをすくって、それを見る。
「……カレーがさ。食べられなかたんだって。コンクール前の合宿で出たカレーが」
「……」
「ストレスであんまり食べられなくなって――ヨーグルトとか、ゼリーとかで生きてたんだって、そのときは」
一回だけ、山本先輩から聞いたことがあるよ。
そうつぶやいて、清住はカレーを口に入れた。
それを飲み込んで、彼は言う。
「……そういうのに疲れちゃったんじゃないかな、あの人は。だから演奏会までで引退した。表向きは受験勉強のため、って言ってたけど……たぶん、そうなんじゃないかと僕は思う」
「……そうまでしなきゃ、金賞って取れないもんですか」
「わからない。けれど、自分を追い込んで作りこまなければ勝ちはない」
勝ちがなければ価値がない。
最低でも県大会は抜けなければ意味がない。
先ほどまであんなに楽しそうに演奏会のことを話していた清住は、今は無表情でスプーンを口に運び続けていた。
「……演奏会、満員だったでしょ。あれ、去年のコンクールで東関東行ったからなんだよね。数年前に一回県代表を逃したことがあって、その次の演奏会は満員にはならなかったって聞いた」
「……」
「参考で聞きに来てる他の学校の人たちが減ったからだろうね。厳しいよね。いくら『あなたたちはがんばった。そのがんばりは金賞だった』って先生に言われても、もっと外の人たちは結果でしか判断しないんだ。
結果が出なければ人は離れる。いくら思いを込めても、コンクールで金賞を取らなければ聞く価値がないと判断される。だから僕らは勝ち続けなくちゃならない。次の演奏会も、ホールがいっぱいになるように」
清住がカレーを口に運ぶ動きは、もはやなにかの作業のようだった。
ただ食べ物を口に入れるだけの動作。
あれで味がわかるのだろうか、と鍵太郎は思う。
ここにある匂いは感じられているのだろうか。
『勝つための音楽』は――彼らを幸せにしているのだろうか。
「湊くん。僕らは望んで、この学校に来てる」
鍵太郎がなにも言えないでいると、清住は手を止め、言ってきた。
「山本先輩もそうだった。だから同情なんてしなくていい。僕はあの人を責める気はないし、あれはあれでしょうがないことだと思ってる」
「……俺にはそう、きれいに割り切れません」
「きみ、二年生だもんね。まだ……わからないかなあ」
来年になれば、少し見方が変わるよ。
三年生の清住は、ひとつ年下の鍵太郎に穏やかに言った。
「僕らは、今年で最後なんだ。次が最後のコンクールなんだ。どんな形であれ、僕らは最後まで燃え尽き通したい。それができれば、満足なんだ」
「……それが、誰かを泣かすことになってでもですか」
「人を傷つけても、なにを犠牲にしても、欲しいものってあるじゃない?」
そう言って、清住は笑った。
うっすらと。
「僕らはもう、進むしかない。その過程がどうあれ、僕らにはその道しか残されていないんだ」
「……やっぱり、俺にはわかりません」
自分とは違う考え方で動いているその笑顔を前に、鍵太郎は首を振ってそう答えざるを得なかった。
さっきまで同じテーブルについて同じものを食べているはずなのに、彼はまるで遠くで違うものを食べているように思える。
たった一年違うだけで、こんなに見方が違うのか。
三年生は――自分の学校の今の部長は、彼と同じ気持ちなのだろうか。
誰かが泣いても、金賞を取れればそれでいいのだろうか。
わからなかった。
わからなくて――食べる手が止まっていた。
それを見て、清住は今度はふっと笑った。
「ほら、カレー食べよう。冷めちゃうよ」
「あ……はい」
促されて、スプーンでカレーをすくって口に入れる。
甘味の後に辛みがあって、じゃがいもがホクホクしていて、にんじんも苦くなかった。
とても、普通のカレーだった。
なので鍵太郎は、素直に感想を口にした。
「……おいしいですね」
「おいしいよね」
清住も正面で、同じくカレーを食べていた。「合宿といえばカレーだよね」という言葉の中に、どんな味を感じていたのかはわからないが――
彼は食べながら、鍵太郎に向けて言ってきた。
「湊くん。僕らはまだ、この味がわかるんだ」
「……清住さん」
「食べられる。なら、今はそれでいいじゃない」
だから明日の本番、がんばろうね。
そう言って清住は、にこりと笑った。
「……はい」
そう返事して鍵太郎は、カレーを口に運んだ。
選抜バンドはいろんな学校の生徒が来ているが。
今はみな、同じものを食べている。
「……おいしいですね」
もう一度、鍵太郎は言った。
カレーは甘味の後に辛みがきて、とてもおいしかった。
そう感じられた。なら、今はそれでいいと思った。
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