第91話 背負った罪

「楽器に名前をつけようよ!」

「……」


 浅沼涼子がそう言ってくるのを、湊鍵太郎みなとけんたろうはジト目で見返した。

 涼子の手には、担当楽器であるトロンボーンがある。これまで彼女が吹いていたのとは違う型だ。

 三年生が引退したので順番がひとつ繰り上がり、一年生は今まで二年生が使っていた楽器を使うようになっている。

 そう。つまりこれは、学校の楽器なのである。

 自分のものでもないのに、名前をつけるというのは変な話ではないか。鍵太郎がそう言うと、涼子は「別にいーじゃん! 気にしない気にしない!」と言い切ってきた。


「これから一年、この子はあたしの相棒! 相棒には名前をつけてあげなきゃ!」

「うーん……まあ、そういう考え方もあるか」


 相変わらず自由な涼子に押し流される形で、鍵太郎はうなずいた。確かに、奏者にとって楽器は相棒のようなものだ。愛着があり、身体の一部でもある。どこかに楽器をぶつけると自分じゃないのに「痛い!」と口に出してしまうくらい、それは大切なものなのだ。

 涼子は自分の楽器を見て、あだ名を決めたようだった。


「この子はミミちゃん。うさぎのミミちゃん」

「なんで?」

「ここが長いから」


 涼子はそう言って、チューニング管を指差した。後方に突き出たその管は、今まで涼子が使っていた楽器に比べて曲がりがなく、真っ直ぐに伸びている。それは確かに、うさぎの耳に見えなくもない。

 しかし高校生にもなって、そのネーミングはいかがなものか。アホの子である涼子らしいといえばらしいのかもしれないが。

 では、さて自分はどんな名前をつけようか、と鍵太郎は思った。これから一年間と涼子は言うが、自分は先輩がいないから、卒業までこの楽器と一緒にいることになるのだ。

 長い付き合いになるであろうこの相棒に、名前をつけるとしたら――


 春日美里かすがみさと


 その楽器の先代の使用者の名前が浮かんできて、鍵太郎は思わず頭を抱えた。


「え? どうしたの湊。頭痛いの?」

「いや、もう俺病気だなと思って……」

「頭が病気なの?」

「おまえに言われたくねえよ」


 アホの子に頭が病気とか言われた。とっさに反論したものの、好きな人の名前を楽器につけるとか、もう病気としか言いようがない。

 なんていうか、重い。俺、すっごい重い。

 楽器も重いけど愛も重い。そう思ってさすがに別の名前を考えることにした。合奏全体の最低音域でもって、バンドを支えるチューバ。それに相応しい名前といえば――


「……『アトラス』」


 ふとその名前が出てきて、鍵太郎はぽつりとつぶやいた。聞いたことがなかったようで、涼子が首をかしげる。


「なにそれ?」

「ええっとな。確か、世界の果てで天空を背負う、神様の名前」


 おぼろげな記憶をたどりつつ、説明する。アトラス。それは『支える者』『耐える者』『刃向う者』という意味の名前だ。

 戦争において敗者側に与し、その罰でもって世界の果てで永久に天球を背負うことになった、神話の巨人の名前。

 その説明を聞いて、涼子は鍵太郎のことをじっと見つめる。


「巨人……?」

「悪かったな! どうせ俺はおまえよりちっさいよ!」


 見下ろされて泣きそうになりながら鍵太郎は叫ぶ。中学時代はその身長を生かして、バレー部で活躍していたという涼子だ。

 もちろん背は、鍵太郎より高い。ちくしょう、持ってる者に持たざる者の気持ちがわかってたまるか、とそれこそ刃向う感じで闘志を燃やす。

 昔から、いつもそうだったのだ。身長のあるやつに大きな顔をされるのがものすごい嫌で、そういうやつらに対抗するように技術を磨いていった。

 吹奏楽部に入ってからもそうだ。偉そうなことを言ってこちらを馬鹿にするA部門のやつらが大嫌いで、あんなやつらには負けないと思って大会の本番に臨んだ。

 そして結局、また間違いを犯した。

 大切な人を失い、ひとりで残された。だからその人と支えてきたものを、今はこうしてひとりで支え続けている。

 それは道を誤った罰であるともいえる。だったらこの名前はとても自分に合っていて、その役目もお似合いだ。

 まあ、確かに巨人ではないけれども。そう思っていると、涼子が不思議そうに言ってくる。



「湊って、なんか悪いことしたの?」



「え?」


 予想外のことを言われて、鍵太郎は涼子と同じく目をぱちくりさせた。


「あれ?」


 悪いことを――した、よな?

 涼子の言葉によってぽっかりと、それまで考えたことに穴が開いてしまった。

 え、だって、俺は。

 先輩のことが好きで、ずっと一緒にいたくて。

 無意識に先輩の気を引くように振る舞ってしまって、それは明らかに『悪いこと』で――


「……あれ?」


 悪いこと、だよな?

 改めて訊かれると、なぜか自信がなくなってきた。

 あ、あれ? と鍵太郎が戸惑っていると、再び涼子が言う。


「よくわかんないけどさ。湊が悪いことしたようには、あたしは見えないんだよね」

「あれ……?」


 なんでだろう。

 この馬鹿にそう言われると、自分がものすごく馬鹿らしいことをしているように感じるのは、なぜなんだろう……?

 勝手に好きになって。その思いが届かなかったから、勝手に傷ついて。

 自分勝手な思い込みで、落ち込んで――


「……え?」


 あれ、ひょっとして……。

 俺って、ひとりで勝手に落ち込んでるだけ……?


「……嘘だろ?」


 そこまで考えて、鍵太郎はさきほどと同じように頭を抱えた。

 イタい。

 勝手に落ち込んで、勝手に背負っているって。

 はたから見ればどれだけイタいやつなのだ。重くてイタいなんて、最低にかっこわるいやつじゃないか。

 こちらを覗き込んでくる涼子へと、苦笑して言葉を返す。


「……あー。うん。浅沼。わかった。おまえの言いたいこと、なんとなくわかった」

「ほんと!? そうだよねー! なんかおかしいと思ってたんだ! 湊はそんな悪い人じゃないよ! なんかよく難しいこと考えてるけど、あたしにはよくわかんない!」

「は、はは……」


 難しく考えて、自滅する馬鹿だよな、ほんと……。

 むしろそれこそが罪なんじゃないか、と考えて、やめる。この真っ直ぐな馬鹿の前では、それこそ全部が馬鹿らしくなってくる。

 乾いた苦笑いを浮かべて、涼子に言う。


「おまえはほんとさ……天才なのかもしれないな」

「やっほーい! なんだか知らないけど褒められたよ!」

「なんとかと天才紙一重ってやつだけどな……」


 無邪気にはしゃぐ涼子を眺める。となると、楽器の名前も考え直さないといけないか。

 罪なんて背負っている場合ではない。自分が背負うべきは、もっと他のものだ。

 それこそ、これからずっと、背負うべきものが――と思ったとき、ぽんぽん飛び跳ねていた涼子が、笑顔を向けて言ってきた。


「そうそう湊! あたし一緒に練習しようと思ってたんだ! 『そりすべり』のここの部分!」


 涼子は楽譜の後半部分を指差してきた。今度のクリスマスコンサートでやる『そりすべり』の、一番最後の盛り上がる部分。中低音が一緒に動いていく部分だ。


「楽しみだね、クリコン! バザーもやるって言ってたから、一緒に回ろう!」


 彼女はそう言って、トロンボーンのスライドをしゃこしゃこと動かして――


 ガツン。


 そんな、今まで聞いたことのない音が鍵太郎の耳に届いた。

 金属と金属がぶつかる音。恐る恐る音のした方を見ると、涼子が動かしていたスライドの先端にある石突部分が、鍵太郎の楽器を直撃していた。


「……」


 涼子が楽器を避けると、その表面には――今の衝撃で刻まれた、小さなへこみができていた。


「…………」


 がっちりとへこんだその部分。真っ白になった頭でそれを見つめる。

 先輩から受け継いだ、新しくてきれいな楽器。

 愛着があり、身体の一部とも言っていいそれが――


「あ。ごめんごめん」


 へこみを見たまま固まっていると、涼子がとても軽い感じで謝ってきた。

 それにぴくり、と反応する。


「浅沼、おまえは自分がなにをしたか、わかってるのか……?」


 ゆらり、と黒いオーラが身体から立ち上ったのが、自分でもわかった。

 楽器から涼子に視線を移せば、アホの子はいつもと同じように、能天気に笑っている。

 そして彼女は、罪の意識のカケラもない言葉をかけてきた。


「え? うん。でもしょうがないよね。つけちゃったものは」

「俺の相棒に傷をつけておいて、しょうがないとは何事だあああああっ!?」

「うわ、珍しく湊が本気で怒ってる!?」

「怒るわボケええええっ!?」


 ビッ! とへこんだ部分を指差し、鍵太郎は涙目で涼子に説教する。


「ああもう、絶対許さねえぞこれ!? 有罪! 罪を背負うべきは俺じゃなくておまえの方だ!!」

「湊はいつも難しいことを言うなあ」

「クッソムカつく!? ああもうごめんなさい先輩、あなたをこのアホの子から守りきれなかったことを、どうか許してください!!」

「大丈夫だよ湊。春日先輩はきっと許してくれるよ」

「おまえに言われたくねえんだよおおおおっ!?」


 鍵太郎の絶叫は、音楽室の天井に吸い込まれていった。

 このへこみは後に、別件で来た楽器屋に直してもらえることになるのだが――それはもう少し、先の話である。

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