第17話 懺悔ともいうべき説得

 休み時間に教室で、楽譜に数字を書く。

 老人ホームで演奏をすると言われ、楽譜を配られた翌日。

 湊鍵太郎みなとけんたろうは先輩にもらった紙を見ながら、音符の下に該当する番号を書き込んでいた。

 指番号だ。

 鍵太郎の任されたチューバという楽器は、四本の操作レバーを押して、音程を操作する。ドならなにも押さない、レなら4番レバーを押す、ミなら1と2番のレバーを一緒に押す――といった風に。

 ただ初心者である鍵太郎は、ぱっと見ても何番を押せばいいか、すぐにはわからない。

 だから音符の下に、どれを押すかの数字を書き込んでいるのである。

 三年生の春日美里かすがみさとはもう、音符を見れば何番を押せばいいか身体に染み付いているらしい。なので美里から昨日、この番号表――運指表をもらったのだ。

 かっこ悪いかもしれないが、こうしなければついていけないので仕方がない。まだ自転車に乗れないので補助輪をつけているようなものだ。

 運指表と楽譜を交互に見ながら書き込みを続けていると、予想通り――クラスメイトの千渡光莉せんどひかりが話しかけてくる。


「湊くん、なにやってるの?」

「指番号書いてる」


 吹奏楽の経験者である光莉には、これで通じるはずだ。「あ、そう……」と言って、彼女は鍵太郎に忠告してくる。


「かっこ悪いから、ある程度できるようになってきたら、番号は消しちゃったほうがいいわよ。数字にばっかり気を取られて、楽器を吹くっていうよりただ数字を追ってくだけになっちゃうから」

「わかった」


 さすが、経験者は言うことが違う。しかしそれだけの経験がありながら、光莉は吹奏楽部に入っていない。

 なにか理由はありそうな気はするのだが、吹奏楽部に興味がないというわけでもなさそうだ。

 見学に行ったとき、鍵太郎に様子はどうだったと訊いてきたぐらいなのだから、なにかきっかけがあれば入ってくれそうな気がする。

 光莉はトランペットをやっていたらしい。そしてちょうど今、吹奏楽部はトランペットが足りないのだ。


「千渡さん、一緒に吹奏楽部入らない? 今部活で、トランペットの人がすごくほしいんだって。千渡さん入ってくれたらいいなって、俺思ってるんだけど」

「む……」


 言われた光莉は警戒するように、口を結んだ。前もそうだった。いろいろ言ってはくるのものの、いざ部活にという話になると、逃げてしまう。

 これまではそのまま見送ってきたのだが、今回は逃がしたくない。鍵太郎はさらに続ける。


「俺、初心者で入ったけど、すごく楽しいよ。先輩たちはいい人だし、ちゃんと教えてくれるから毎日なにかできるようになる。千渡さんだったら、もっと楽しいんじゃないかな。入ってすぐ吹けるんだもん」


 彼女はおそらく即戦力だ。テンションの高いトランペットのあの三年生なら、大喜びで迎えてくれるだろう。

 先輩と光莉が揃って楽器を吹いたら、いったいどれくらい楽しくなるだろうか。想像もつかない。

「ぬー……」とうめいた光莉は、この間と同じように、鍵太郎に訊いてくる。


「今、なにやってるの? コンクールの準備?」

「いや、今度老人ホームで演奏するっていうから、その練習を始めたところ」

「え?」


 鳩が豆鉄砲を食らった。光莉はそんな顔をした。


「え? コンクールメンバーのオーディションとかは? いつやるの?」

「今でしょ――って言いたいところだけど、そんな話聞いてないよ俺」


 そもそも、コンクールの話すらまだ正式には聞いていない。

 入部したときの会話から、ああそんな大会があるんだな、と知った程度で、顧問の先生や部長の美里からはまだ詳しい話をされていなかった。

 オーディションなんてそんな話をするくらいなのだから、光莉は相当すごいところにいたのだろう。

 これはますます、彼女を逃がすわけにはいかない。鍵太郎はそのまま、吹奏楽部はこれからなにをやるのかを光莉に言った。


「老人ホームの演奏は、今月末なんだ。でも千渡さんならきっと――」

「今月末!? あと三週間もないじゃない!?」


 よほど驚いたのか、光莉が目を見開いて叫んだ。そして彼女がそのまま「レベル低いんだか高いんだか、よくわかんない部ね……」とつぶやくのを聞いて、鍵太郎はちょっとムッとする。


「レベルとかじゃなくてさ。がんばって練習して、みんなで一緒に吹けたら楽しいって先輩が言ってたよ。千渡さんはそう思わない?」

「みんなで一緒に、ねえ……」


 鍵太郎にとってその言葉は、天啓のように心に響いたものだったのだが――光莉にとっては、そうではないらしい。

 彼女は苦虫を噛み潰したような顔で、こちらの言葉を反芻している。

 なんだこいつは。馬鹿にしてるのか。

 そう思っていると、横から知った顔がにゅっと割り込んできた。


「あー。ちょっといいか二人とも」

「祐太?」


 やってきたのは鍵太郎の小学校からの友人、黒羽祐太くろばねゆうただ。

 鍵太郎とは小中と一緒に野球をやってきた仲で、こちらは吹奏楽部ではなく野球部に入っている。

 それが原因で喧嘩になりかけもしたのだが――今は誤解も解け、軽口を言い合える仲に戻っていた。

 その原因がそもそも、怪我をして野球ができなくなった鍵太郎を気遣うあまりに、彼が鍵太郎を騙すようにして吹奏楽部に入れてしまったというものなのだから、仲直りできないわけがない。

 お調子者だがいいやつだ。だが、今なんの用だろうか。

 野球部の彼は、吹奏楽部の勧誘には関係のないはずだけれども――


「湊。ちょっとおれに話させてくれ」

「あ、ああ、いいよ?」


 なにか言いたいことがあるらしい。祐太は光莉に向き直ると、単刀直入に切り出した。


「千渡さん、本当は楽器吹きたいんじゃないか?」

「――なんでそう思うのよ」


 光莉は一瞬ためらった後、祐太をにらみつけた。

 しかし彼はどこ吹く風で、さらに続けてくる。


「放課後に吹奏楽部の練習を、熱心に聴いてる」

「だから?」


 気のせいじゃない、と光莉は言った。確かにそれだけで他人の気持ちを断定するには、あまりに当て推量だ。

 どういうつもりなのかと鍵太郎が祐太を見ると、彼はいつものように調子よく笑って、「そのときの顔がさあ」と言った。



「松葉杖ついて野球部の練習見てたコイツと、おんなじ顔してるんだよね」



「――!」


 光莉が顔をこわばらせた。鍵太郎もぎょっとして目を見開く。彼は変わらぬ調子で「ごめんな湊。ちょっとおまえのことしゃべっちゃうわ」と前置きしてきた。


「こいつさ。ずっと野球やってたんだけど、中三のときの練習試合で足、怪我しちゃったんだよね。こいつ小さいだろ? 機動力と小技で野球やってたから、走れないってことで、戦力外にされたんだ。

 で、松葉杖ついて退院してきてから、ずーっとぼんやり、野球部の練習見てるんだよ。ぜんっぜん動かねえの。放課後始まってから日が暮れるまで、ずっとだぜ? こりゃよっぽど――悔しかったんだろうなって思った」

「……祐太」


 そんな風に見られていたとは、思わなかった。

 あのときは自分のことで精一杯で、周りのことを気にするなんてできなかったからだ。

 光莉はそっぽを向いてはいるが、聞く気はあるのだろう。この場から立ち去らないのが、何よりの証拠だ。

 祐太は続ける。


「でさ。おれはそんときのコイツみたいに、シケけた顔してる千渡さんを見かけちゃったわけだ。だったら言わないわけにはいかないじゃん? やりたいことやれ、って。

 こいつは物理的に走るのは無理だったけど、千渡さんはただ単に、迷ってるだけみたいだったからな。なんの理由があるかは知らないけど」

「……なにも知らないくせに」

「そうだよ、なんにも知らない。おれもそのとき、湊がなにを考えてたかなんて知らないんだ。怖くて訊けなかったよ。

 だっておれは――そんなコイツの目の前で、楽しく野球やってたんだから」

「――!」


 ようやく鍵太郎は気付いた。これは単なる、光莉の説得ではない。

 鍵太郎を騙して吹奏楽部に入れた祐太の、罪滅ぼしのようなものだ。

 仲直りしたとき、祐太はここまで突っ込んだことを言わなかった。まるで懺悔のような説得だ。

 初めて聞く友人の本音を、鍵太郎はただただ戦慄して聞くことしかできなかった。


「だからおれは、こいつがグラウンドからどっかに歩き出せるようになるまで、面倒見なくちゃならないって思ったんだ。けど高校に入ったとき、コイツもう野球をやりたくないって言ったんだよ。あんなに熱心に練習見てたくせにさ。

 どうしようと思った。でもおれは野球をやりたかったんだ。楽しかったんだよ。それこそ、友達を裏切るくらいに」

「祐太、もういいよ」


 自分を傷つけるような物言いだ。いたたまれなくなって、鍵太郎は祐太を止めようとした。

 けど友人は止めない。


「だから、コイツが少し興味を示した吹奏楽部に、入るように誘導した。友達のためを思ってやったわけじゃないよ。おれはおれが、やりたいことをやっただけなんだ」

「祐太!」


 聞いている方がつらくなってくる。口調が平静なだけに余計悲痛に聞こえてしまって、さすがに鍵太郎は割って入った。

 そんな風に言わなくてもいい。自分はもう、友人を許している。

 どうあっても、その行動の結果、自分が吹奏楽部で楽しくやっていることに変わりはないのだから。

 それで――もう十分、彼には救われているのだから。


「祐太、もういいよ。そんな風に自分を悪く言わなくていいよ。俺はもういいから。今すごく楽しいから。祐太は自分のやりたいことを、やればいいんだよ」

「だってさ」


 鍵太郎の呼びかけを受けて、祐太は光莉にそれを回した。


「だから千渡さん。いいんだよ。自分がやりたいって思ったことは、我慢せずにやっちゃって。

 それが一番――相手にも自分にも、結局は一番、いいことなんだよ」


 わがままになっちゃえよ――と、祐太は締めくくった。


「どうかな?」

「……男同士の友情に、付き合うつもりはないけど」


 光莉は、腕を組んでそっぽを向きながら、鍵太郎と祐太に言う。



「その老人ホームの演奏くらいなら……つきあってもいいかな」



「そうこなくちゃな!」

「ほんとに!? 千渡さん!」

「か、勘違いしないでよね!?」


 光莉は顔を赤くして、唾を飛ばさんばかりに、二人に食って掛かった。びしりと鍵太郎を指差す。


「こいつがこんなに吹奏楽部が楽しいって言うから、ちょっと興味が出てきただけなんだからね!? 別に説得なんて、されてないし。つ、つまんなかったらその慰問演奏で、さっさと抜けてやるんだからね!?」

「それでいいよ――うん、それでいい」


 光莉に鍵太郎はそう言った。大丈夫。うちの部活はとても楽しいところだ。抜けるなんてこと、あるものか。

 彼女がどんな事情を抱えていようが、そんなものは忘れてしまうくらいに。

 自分が、そうなりつつあるように。

 じゃあさっそく、今日の放課後に音楽室に――と鍵太郎が言ったところで、光莉は一日待ってほしいと言ってきた。

 「なんで?」と訊くと、彼女は驚くべきことを言う。


「家に自分の楽器があるの。明日持ってくるから、それまで待って」

「自分の楽器!?」

「な――なによ。うちの中学じゃ結構いたわよ、楽器持ち」

「うわー……」


 自分の楽器とは。とんでもないのを引き入れてしまったかもしれない。

 けどそれ以上に、これからの楽しみが増えたような気もした。

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