第87話 流れない



 不安要素はないでもなかった。

 駅近築二年の賃貸マンションが、相場の半額以下だったのだ。


「なんで、こんな安いんですか?」


 不動産屋は笑った。

「あの部屋だけ空室なので、早く埋めてしまいたいんですよね」


 よく聞くような言いわけをする。

 まあ、それにしても安い。

 即決でその部屋を借りた。


 新しい部屋はじつに快適だ。設備が古い建物とは違う。


 この付近、ちょっと前に居直り強盗で人が殺されたらしい。

 でも、犯人は捕まってる。

 今はもう治安も問題ない。

 文緒は満足していた。


 しかし、ひとつだけ、少し困ったことがある。風呂場の排水口が、やけにつまりやすいのだ。初日から流れにくいなとは思っていたが、パイプ孔の洗剤を買ってきてしのいでいた。


 それにしても、なんでこんなに流れないんだ?


 文緒は髪も短いし、彼女がいるわけでもないから、そんなにつまるほど髪の毛も流れないはずだが。


 もしかして欠陥住宅か?

 手抜き工事のせいでパイプが半分つまってるとか?

 よくある話だ。

 だとしたら、こんなに家賃が安いわけもわかる。

 むしろ、文緒は納得した。

 それならそれで水が流れにくいことさえガマンすればいい。そのほかは快適なんだから。


 ある日、いつものように排水口から水があふれだした。

 覆いのフタをはずして、ギョッとした。ものすごく長い髪が大量につまっていた。


 なんで?

 もちろん、文緒の髪じゃない。

 文緒しか入ったことのない部屋なのに、あきらかに、文緒以外の誰かの髪がつまってる……。


 ゾッとして、文緒はそのまま、風呂場からとびだした。


 それから、しばらく風呂場に近づけなかった。友達のうちで風呂を借りたり、近場の銭湯に行ったりした。

 ひと月ほど放置してから、怖々、風呂場をのぞいてみた。とくに異変はない。

 あの日、フタをあけたままにした排水口も目につく異常はない。


(あれ? 錯覚だったかな?)


 よく見ると、黒く見えてたのはカビだった。

 そうか。梅雨時期だったから、湿度が高かったんだな。

 文緒は、ほっとして排水口の掃除をした。


 同時にそんなことを見間違えて逃げまわっていた自分が、おかしくてしょうがなかった。


 安心して、その夜、ひさしぶりに自分のうちで風呂に入った。髪をあらっていると、足もとに水のたまる感触があった。


 またか……。


 髪の毛は見間違いだったが、こればっかりはどうにも直らないんだな。

 まあ、そのおかげで安く借りられてるんだからしかたない。


 文緒はため息をついた。

 あとでちゃんと掃除しないとな。

 パイプ孔の洗剤も流そう。

 そう思い、なにげなく覆いブタをあけた。


 排水口から、女の顔がのぞいていた……。

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