第83話 水蛇



 最初に起こったのは夏だ。

 営業の外まわりで喉がカラカラだった。


 コンビニでペットボトルの水を買った。キャップをひねり、なにげなく口元に運んだ。

 そのとき、違和感をおぼえた。

 何か、あるはずのないものを見た気がする。


 文緒はペットボトルを目の高さまで持っていった。

 なかに、小さな蛇が入っていた。

 おどろいてペットボトルを落とした。歩道に水がこぼれ、黒いシミを作る。

 蛇は飲み口から自力でいだし、すうっとシミのなかへ消えていった。


 こんなこともあった。

 休日の昼飯をカップラーメンですまそうとした。やかんに水を入れるため、蛇口をひねった。

 あれ? 水が出ないと思った瞬間、ニョロっと、うねりながら、半透明の水のような蛇が蛇口から出てきた。

 わッと声をあげると、蛇はスルスルと排水口へ逃げた。


 それからは、もう毎日だ。

 油断すると蛇が出る。

 ポタポタしずくのたれる水道は、とめどなく小さな蛇を生む。


 そもそも、蛇口ってのは蛇の口だ。ステンレスの蛇口が、ぶるんとふるえて蛇の形をとる。

 安心して水が飲めない。


 喫茶店のコーヒーからは黒い蛇が這いだしてきた。

 コーヒーも飲めない。

 どうしたらいいんだ?

 見渡せば、まわりにいくらでも蛇口はあるのに、この都会のまんなかで、砂漠みたいに渇いてないといけないのか。

 水が……水が欲しい。


 何度か脱水症状で倒れ、病院へ運ばれた。

 三度めに倒れたとき、実家から母がやってきた。


「文緒。おまえ、いくら仕事が忙しいからって、水は飲まないと」

「そうじゃないんだ。水が……怖いんだよ」


 だが、ほんとに怖いのは水じゃない。

 水のなかの……。


 母はまじまじと文緒の顔を見つめる。

「子どものころ、おまえ、溺れたことがあるからね。小さかったから覚えてないかもしれないけど」


 溺れた?


 そう聞いて胸がドキンとした。

 記憶の波がざわめく。

 そう。川で……遊んでいた。

 誰かといっしょに。


 退院した日。

 ひさしぶりにゆっくり湯につかれる。蛇口を見ないようにして、浴槽に湯をはった。

 湯船につかる。

 少し、熱い。


 無意識に蛇口をまわした。

 あっと思ったときには、そこから大蛇が這いだし、浴槽いっぱいに、とぐろをまいた。かま首をもたげる蛇の頭が人の顔に見えた。


(あっ! ゆうくん!)


 そうだ。思いだした。

 子どものころ、いつもいっしょに遊んでいた。

 文緒が川で溺れたのち、ぱたりと現れなくなった。そんな子は存在しないと大人は否定した。

 文緒にしか見えなかった、お友達……。


 迎えにきたよ、と、悠くんが言った。


 あのとき、つれていきそこなったけど、今度こそ、行こう。

 あの暗い水の底へ——

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