第69話 雨だれ



 雨がふると、まもなく、あれが始まる。


 ピチョン……ピチョン……。

 ポタ……ポタポタ……。


 そう。雨もりだ。

 去年はこんなことはなかった。

 今年になって梅雨入りしてから、大樹だいきはこの音に気づいた。


 避暑地のしょうしゃな別荘で、文緒と同棲して、そろそろ四年になる。


 文緒は裕福な家庭のお嬢さまだ。

 二階建てのこの別荘は、文緒の父から二人の婚約祝いに生前分与でゆずられた。

 大樹は売れない画家であり、文緒は趣味で染物をしている。文緒の染めたオーガニックコットンで作ったワンピースは、ネット通販でそこそこ売れているらしい。とはいえ、あくまで趣味の範囲だ。

 二人の生活はこれもまた文緒の父からの生前分与の株券の配当でまかなわれている。

 まあ、優雅な暮らしだ。


 文緒はお嬢さま育ちなだけあって、すごく繊細だが、たまに機嫌をとってやれば、この生活は永遠に続くのだ——と、大樹は考えていた。


 その暮らしに変化があった。

 あの音。雨もりだ。

 雨がふると、どこからか、しずくのたれる音がする。


 ピチョン。ピチョン……ポタタタ……。


 たしかに、豪華な別荘はそれなりに年季が入っている。しかし、文緒が継ぐときに、文緒の父がしっかりメンテナンスして改装させたという話だった。雨もりのするような安普請ではないはずなのだが。


 最初はあまり気にしていなかった。

 外の音が反響して、そんなふうに聞こえているだけかもしれないと。


 だが、もともと音に過敏な文緒はかなり気になるようだ。

 夜中に両手で耳をふさいでベッドにすわる姿を何度も見かけた。


「文緒、寝られないのか?」


 大樹が声をかけても、小刻みに首をふるだけだ。大樹の声が聞こえているかどうかもわからない。

 顔色も日を増して青ざめていく。

 しかたないので、大樹は音の出どころを探すことにした。


 朝から、しとしとと、霧雨の降る日。

 にぶい灰色の空。

 別荘のまわりは鳥も鳴かず、すべてが死にたえた世界のように静まっている。


 そのなかで、始まった。

 あの音——


 ポタタ……ポタ……。

 タ……タタタ……。


 いったい、どこからだろうか?


 一階から順番に、天井を見ながら歩きまわった。これだけ雨もりがしているということは、どこかにシミができているはずだ。だが、一階の天井はキレイなものだ。ここまでは、もれていないということか。


 大樹は二階へあがっていった。

 自分で直すにしろ、業者に頼むにしろ、おおよその場所くらいはわかっていたほうがいい。


 二階のほとんどは、大樹のパーソナルスペースだ。絵を描くためのアトリエと寝室がある。まだ夫婦というわけではないし、寝室は文緒と別である。


 ふだん自分の出入りする場所で、雨もりのする場所はない。なので、アトリエと寝室はあとまわしにして、書斎へ行ってみた。以前は文緒の父が使っていた部屋だ。

 大樹は本を読まないので、ほとんどこの部屋へ来ることはない。雨もりしているとしたら、この部屋しかないはずだ。


 ドアをあけると、かびくさいような匂いがする。あいかわらず、薄暗い。


 ここへ最後に入ったのは、いつだっただろうか?

 厳格な文緒の父のイメージそのままの書斎は、どうも苦手でさけていた。


 初めて、あいさつに行ったときの、文緒の父の大樹を小バカにしたような目を今でも忘れない。仕事と収入のことしか聞いてこない父親で、大樹は何か言われるたびに肩身がせまくなった。どうせ、金めあてなんだろうと、その目が語っていた。

 じっさい、文緒といっしょに暮らすことを、よくあの親父がゆるしたものだと思う。


「失礼だが、志賀くん。君のことは調べさせてもらったよ。ずいぶん、女グセが悪いようだね。まだ学生のころに、結婚詐欺まがいのことをしてたそうじゃないか」


 そんなことも言われた。


「あれは違うんです。あのころはほんとに、あの人と結婚するつもりで……でも、むこうが別れたいと言ったんですよ。お金だって、ちゃんと返しました」


 たしかに、大樹は顔がいいし、それなりに絵が描ける。女にはモテた。モデルになった女の子とは、たいてい関係した。でも、それは昔の話だ。文緒と出会ってからは、文緒しかいない。

 そんな昔のことまで根掘り葉掘りさぐられて、ウルサイ父親だった。仕事の関係で外国へ行ってくれて、ほんとにありがたい。


 それにしても、天井を見まわしても、シミはない。ここでもないらしい。


 ピトン——


 どこかで音がする。

 一階で聞くより近い気がした。

 書斎じゃないなら、大樹のアトリエか寝室しかない。


 そんなはずはないが、しかし、アトリエはここしばらく製作してない。知らないうちに雨もりしていたのかもしれない。

 あわてて、アトリエにとびこんだ。

 たとえ売れなくても、自分には大切な作品だ。カビでもはえてるんじゃないかと思うと気が気じゃない。


 だが、あわてて走っていったものの、アトリエのなかは、いつもどおりだった。空気もかわいているし、天井からしたたりおちる水滴も見えない。


 ピト、ピト……ポタタ……。


 音はする。

 さっきより近い。


 寝室? まさかな。毎晩、寝てるのに、寝室なら気づかないわけない。


 そのとき、大樹は思いだした。

 そういえば、この別荘には屋根裏部屋がある。古い時代の家具やら何やらがつめこまれていて、完全なデッドスペースになっているので、すっかり忘れていた。


 この別荘に来た最初の日に、文緒が笑いながら話してくれた。

「ねえ、大樹。おじいちゃんが言ってたんだけどね。屋根裏部屋には妖精が住んでるんだって。ステキだと思わない?」

 夢見がちな文緒は嬉しそうに、そう語った。


 もちろん、そのあと二人で屋根裏部屋を見に行ったが、妖精は見つからなかった。ほこりっぽい空気のもと、ゴチャゴチャと年代物の粗大ゴミがならんでいるだけだ。


(妖精ねぇ。妖精のイタズラか?)


 まさかと思いながら、屋根裏部屋に続く幅のせまい階段をあがっていく。階段のさきは、あげぶたでおおわれている。かなり重いがカギはかかっていない。

 ふたをあげて、そっと、のぞいてみた。

 雨の日だからか、思っていた以上に暗い。懐中電灯なしでは、とても、なかのようすはわからない。


 しかし、それにしても、なんて匂いだろう?

 なんだかわからないが、カビくさいような、金サビのような、もののくさったようなイヤな匂いがする。

 ネズミかイタチでも入りこむのか、たまに屋根裏を走りまわる音がしているから、きっと、動物の死骸でもあるに違いない。


 あきらめて、大樹は階段をおりていこうとした。


 そのとき、視界を何かがよぎった。

 あまりに薄暗くて、それが何かまではわからなかった。赤く光る双眸が、一瞬、見えただけだ。

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