第59話 詰め物



 歯の詰め物がとれてしまったので、文緒は急いで歯医者に行った。いつもの歯医者は予約でいっぱいだったため、会社の近くで見かけた歯医者だ。

 とてもキレイな女の歯科医師がいて、丁寧に診察してくれた。


「ああ、だいぶ神経の近くまで菌にやられてますね。かなり痛んだんじゃありませんか?」

「はい。最近、痛むなとは思ってたんですが」

「新しい詰め物を入れるために削りますね。今日は仮の詰め物を入れておきますので、またあらためて来てください」


 そう言われて、五日後に再来院した。

 オフィス街にあって、感じもいいし、美人の女医がいるし、腕も悪くなかった。それなのに予約が簡単にとれることが不思議だった。


 予約の日、仕事帰りにふたたび、その歯医者へ行った。


「辻浦さん。詰め物、できあがっていますのでね。仮の詰め物、外しますね」


 診療台にあがり、例の女医に診てもらう。仮の詰め物が外されたあと、女医は言った。


「じゃあ、痛みどめのお薬ぬって、〇〇〇〇を入れておきますね」

「えっ? なんですか?」

「〇〇〇〇です。これを入れておくと、もう虫歯で悩むことはなくなりますよ」


 女医が早口すぎて、何を入れるのか、よく聞きとれない。しかし、消毒薬のようなものかと考えた。オキシドールとかなんとか、そんな薬品名だろうと。


「わかりました」


 そのまま女医に任せて治療をされた。詰め物のかみあわせなどを直されて、仕上がりだ。


「はい。辻浦さん。おつかれさまでした。治りましたよ。また何かあったら来てください」

「はい。ありがとうございました」


 女医にもう会えないのは少しさみしい気もしたが、まあ、早めに治せてよかった。


 翌日からは歯痛もなくなり、快適な毎日だ——と思っていたのだが、数日後には痛みがぶりかえしてきた。この前、詰め物の治療をした、あの歯だ。最初は気のせいだと思いこもうとしたものの、やはりまぎらわすことができなかった。


 翌日、文緒はあの歯医者にとびこんだ。一日、仕事のために我慢していたが、すでに耐えられないほど痛む。泣く気はないのに、生理現象のように自然と涙があふれてくる。


「すみません。先生! 歯が……歯が痛むんです! 助けてください」

「辻浦さん。落ちついてください。ごくまれにですが副作用の出る人がいるんです。でも、それは効果が表れ始めている証拠です。鎮痛剤を出しますので、もう少しだけ我慢してみてもらえますか?」

「でも、先生。ふつうじゃないくらい痛むんですよ? 詰め物の下で何か小さい虫みたいなものが暴れてるみたいな。するどい牙でガリガリ削られてるみたいな」

「大丈夫です。〇〇〇〇を埋めた人は、みんな最初、そう思われるんですよ。でも、そのうち、なじんできますからね」


 文緒は、ふと不安になった。


「先生。この前、詰め物といっしょに何か入れるって言ってましたよね? そのなんとかかんとかっていうやつ、殺菌剤とかではないんですか?」

「あら、ちゃんと説明したはずですよ。〇〇〇〇は幸福の種です。あなたを幸せに導いてくれます」


 急に幸せと言われても意味不明だが、優しい先生に言い聞かされて、鎮痛剤を受けとった文緒は、とりあえず帰宅した。


 とても仕事などできる状態ではなかったため、当然のこと欠勤だ。

 自宅に帰り、鎮痛剤を飲んで布団にくるまった。痛みがおさまるのを待ち続ける。


 そのあいだも歯のなかでは、ずっと何かがウゴウゴ、うごめいていた。

 よくわからない悪夢をたくさん見た。脂汗をかいて、文緒は何度もとびおきた。


 痛い。

 やはり、ごまかしようがないほど痛い。

 鎮痛剤なんて、ちっともきいてない。

 歯のなかに小さな炎があって、絶えず文緒の神経を焼いていた。


 そのうち、歯のなかから異様な音が聞こえるようになった。ガリガリ、ムシャムシャと咀嚼そしゃくするような音だ。

 文緒は自分の肉がついばまれていく感覚を生きながら味わった。


 なんだろう。

 いったい、この歯のなかに何がいるのだろう。

 あの女医は詰め物の下に何を入れたのか?


 痛みがピークに達したとき、ふいに霧が晴れたように思いだした。

 女医は、こう言ったのだ。



 ——新しいあなたの種を埋めておきますね。



 耳元で言われたように、ハッキリとあのときの言葉が聞こえた。

 同時に、文緒は失神した。



 *


 あれから半年が経った。

 近ごろ、文緒はラッキーづくめだ。

 何をやってもうまくいく。仕事もスキルアップしたと上司に褒められた。道に迷っている老人を助けたら、けっこうなお金持ちで謝礼にと言って高級腕時計をくれた。さらには、老人を案内していたところを見かけたと言って、ずっと惹かれていた女の子と交際することになった。


 何もかも順風満帆だ。


 だが、このごろ、むしょうに水辺が気になる。


 そろそろ、遠くの川へ行かないとな。

 なぜかはわからないけど。

 そこへ行って、水の一番深いところへ、ジャブジャブと入っていかないと……。


 何者かが頭のなかで、そっと、そうささやく。

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