第17話 絵の具



 文緒には子どものころから苦手なものがあった。

 絵の具だ。

 とくに赤い色がどうにも苦手で、その色を使っていると気分が悪くなる。

 理由はわからない。

 小学生にあがるころには、すでにそうだった。


 だから、学校の図画工作の時間や夏休みの写生の宿題が嫌でしかたなかった。わざと忘れたふりをしたり、保健室に行って授業をさぼったりしたので、図工の成績は悪かった。


 優しい母は叱らなかった。

「苦手なものはしかたないわよ。大人になったら自然に直るんじゃないの」と言って、なぐさめてくれた。

 母子家庭で文緒を一人にさせることが多かったので、あまり責めたくなかったのかもしれない。


 ところで、文緒にはもう一つ苦手なものがあった。母の実家にある鬼の面だ。天狗のような高い鼻の真っ赤な顔をした鬼。長い前髪がすだれのように伸び、そのあいまからギラギラ光る金色の目が光っている。


 夏休みになるたびに、文緒は母の実家に預けられたが、その鬼の面を見ると、胸の底のほうから、言い知れぬ不安がこみあげてくる。


 でも、我慢ができないほどではなかった。面の前を通るときは目をそらして見ないようにしていた。


 だが、あるときの夏休み。

 文緒はいつものように仕事の母と別れて、祖父母の家に泊まりにいった。一ヶ月間くらい預けられる。そのほうが母が仕事のかけもちができていいのだという。週末の休みのときだけ、母が遊びに来る。


 その日、文緒は縁側にすわって課題の写生をしていた。祖父母の家の庭先の風景を描いていた。庭に真っ赤な鶏頭が咲いていたので、嫌いだけど、しかたなく赤い絵の具で塗ることにした。でも、長いこと赤い絵の具は使ったことがなかったので、キャップが絵の具でこびりついて固くなっていた。


 なんとかキャップを外そうと四苦八苦していると、母がやってきた。


「文緒。いい子にしてた?」

「ママ! ママ、今日お休みだったの?」

「昼まで仕事だったけど、早めに終わったから来ちゃった」

「ぼく、いい子にしてたよ。ママ。ほら、図工の宿題もやってるよ」

「あら、ほんと。文緒ちゃんは、ちゃんとやればこんなに絵がうまいのにね」

「でも、絵の具のふたがあかないんだ」

「貸してみて。ママがあけてあげる」

「うん」


 母はキャップをかるく水でぬらし、大人の力で思いきり、まわした。キャップは外れた。だが、勢いあまって、母の顔に赤い絵の具がとびちった。


「あっ、やっちゃったー。きたない。でも、ほら、文緒。あいたわよ」

「……う、うん」


 母はなんとも思っていないようで、顔を洗いに家のなかへ入っていった。


 でも、文緒は気づいてしまった。

 なぜ、自分が赤絵の具や鬼の面が嫌いなのか。


 あれは夢だったのだろうか?

 もっと文緒が今よりずっと小さかったころ。夜中に目が覚めたとき、鬼を見た。


 父の頭をナタで割った母が、返り血で真っ赤になった顔を、鬼のように歪めて立っていた……。

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