第23話 形式主義

もう午前11時か。


世間は日常。我々は常に非日常。


和音は寝不足と疲労で平衡感覚を失いながらリクライニングチェアから立ち上がる。


五十藤さんは6時前に帰ってしまったのだから、5時間以上は寝たということか。それにしても全く疲れが取れていない。五十藤さんとお会いしたのは2か月前。プロジェクト仲間の候補として紹介されて、うまく行きそうだったから連絡を取った。ついにこのプロジェクトの支援者が現れ、面会に行ってきたのが昨日。自分のほうが1つ年上で、学校が同じだったから、こちらは気軽にため口で話していて、五十藤さんにもできればため口で話してほしいが、そういうわけにもいかないらしい。学校の先輩というのは面倒な立ち位置だな。


五十藤さんが数学、しかもペアノ算術なんてなかなかニッチなものに取り組んでいるから、つい興奮してしまった。普通に考えて、まだ会って間もない人と深夜数学の話をするなんて異常か。やり過ぎてしまった。


ヒルベルトが推し進めた形式主義というものがある。形式主義とは、決められた記号と決められた記号の並べ方と決められた記号列の操作によって、パズルのように、ゲームのように数学を捉えてしまおうという態度だ。


論理式は一列に並んだ記号の列として捉えることができ、その操作は機械的にできるので形式主義と非常に相性が良い。そして、記号の姿かたちはどうでもよいのだ。


∀x(¬(x∈A))


は読みやすい式だけれども、別に∀がAを逆にした模様である必要はない。


K&#~#&>q@@


と書いても、その通りに文法を定めれば同じことだ。形式主義は冷酷だ。そこに血が通っている感じがしない。感情も何もなく、ただルールに従って動く機械のようなもの。


しかし、それが逆に自分にとっては安心感がある。言葉遣いの一つを間違い、多大な損失を被ってしまったり、一度のミスで人からの信頼を失ってしまったり、どうしようもなく叶わない恋心を持ってしまったり、そのようにして、いかに自分が落ち込み、世界が灰色に澱んでしまっても、数学は絶対に変わらないルールと動きをもって、自分を迎え入れてくれる。


ヒルベルトプログラムは、この形式主義を完成させようとした試みだ。


始めに用意した記号とそのルールで、無矛盾かつ完全な体系を作り、しかもそれが人類がいとなんできた数学をそのまま模倣できるものにしようとした。


無矛盾とは、

すべての自由変数を含まない論理式φに対して、

φと¬φ

を両方ともは証明できないこと。


完全とは、

すべての自由変数を含まない論理式φに対して、

φあるいは¬φ

の少なくともどちらかは証明できること。


証明、定理とは、

論理式の列

φ₀, φ₁, φ₂, φ₃, φ₄, … φₙ

であって、すべてのn以下の自然数mに対し、

φₘは公理である

または

m未満の自然数s,t,…が存在して、

φₛ , φₜ ,…からφₘを推論できる

のどちらかを満たすとき、この論理式の列をφₙの証明と言い、φₙを定理という。


推論とは、

いくつかの論理式と、一つの論理式の関係で、例えば、

φₛ

(φₛ )→(φₜ )

という二つの論理式から

φₜ

を推論できる。他にも様々な推論規則がある。


そして、形式体系とは、

記号

記号の文法

公理

推論規則

の組のことだ。


ヒルベルトプログラムが完成するとは、

よい形式体系が与えられ、すべての論理式φに対して、

φか¬φのどちらか一方が必ず証明でき、さらにこの論理式が現代数学の全ての定理を意味できるようになり、しかも整合性が取れていることだ。


意味できるかどうか、は人間が判定するしかないものの、ヒルベルトプログラム自体は計算、すなわち機械的なルールだけで判定できる。


感情なんてない。ルールに共通の了解さえあれば、だれが考えても同じ結論に達する。ある意味で、徹底的に個人が排除されている。


数学はこの世を記述しているのだろうか?


そんなことは無い、と思う。


五十藤さんが始発でさっさと帰ってしまったのは、自分と話すのがつまらなかったからだろうか?それとも、本当に疲れてどうしようもなくなってしまったのだろうか。


整列集合の話をしたときは結構楽しそうにしているように見えていたのだが…。


いや、そんなことどうでも良いかもしれない。自分と五十藤さんは、ただの仕事のパートナー。一つの同じ成功を目指して努力する仲間であって、それ以外のことには不干渉である、というのが正しい付き合い方だ。


でも、自分が趣味でやっている数学の話を人と向かいあってできたのは何年ぶりだろう?仕事の仲間と仕事以外のことを話してはいけないのだろうか?仕事以外の感情を持ってしまってはいけないのだろうか。


大きい数や、無限の不思議さを眺めて、宇宙の星に思いを馳せるように、いや、それよりも圧倒的に巨大なスケールで、数学に潜む人間の想像力の限界を、美しいと思い、興奮して、感動して、それを分かち合ってみたい。


そのような自分の感情はやはり排除するべきなのだろうか。


五十藤さんがひどくうらやましい。身近に数学を共に楽しむ仲間がいるということは、最高の幸福だ。自分には未だかつて得られたことのない、そしてずっと望み続けてきた幸福だ。


昨晩、整列集合について五十藤さんと話すことができたのは、ずっと抱いてきた夢がようやく叶った瞬間だったのだ。自分はそれに気づいていなかった。ただ楽しいと思って暴走してしまった。もっと一瞬一瞬を大切にかみしめながら数学をするべきだったかもしれない。


…数学自体には感情なんてないんだけれども。

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