第17話 数と数字

二人は手分けして食器を洗いながら話す。

「0.999…と1が等しいっていうのは、つまり1を二通りの方法で書けるってことだよね」

「いや、それはちょっと違うかも。正確には、無限小数で2通りに書けるってことだ」

「どう違う?」

「1を表す方法は例えば、その二つの方法のほかにも、1.0、1.00があるし、0.5+0.5や、3-2など、そのほかの方法も無数にある」

「でも、なんかそれだと頓智みたい」

「たぶん、普段一番慣れている数を表す方法が小数で、しかも小数で書くときに、これは1通りしか書けないだろうか、他の方法で書けないだろうか、なんて考えないからね」

「でも、やっぱりε-N論法から入って0.999…を考えたからどう考えても1に等しく見えるけど、見た目が1より小さく見えるのは仕方ないような気がする。でも0.999…のほうが1より小さく見える感覚を忘れてきつつあるな」


皿洗いもあとは拭いて片づけるだけとなった。湾は少し頭に疲労を感じていたが、その疲労は一方で心地よく、不思議な夜を味わっていた。


「数と数字の違いってわかる?」


藍が唐突に聞く。


「数と数字か。あんまり意識したことないけど、数っていうと、1とか2とか。数字っていうと、その文字だよね。漢数字とか、電卓の表示とか、点字の数字とか、そんな感じの」

「そう。数字は数を表すための文字…ある意味では表記法にすぎない」

「表記法か…」

「たとえば、我々はアラビア数字の10進表記を基本的にいつも用いていてこれはとても便利だ。大きい数まで表すことが容易にできる。漢数字は大きさがすぐにわかるという点では便利だが、空位の0が無いために計算はしづらくなっている」

「そういうや、この話、0から始まったんだったね」

「覚えてたね。空位の0は実はなかなかすごい発想なんだ」


ちょうど最後のマグカップを片づけたところで、藍がノートに戻って3つの"数字"を書いた。


2048

MMXLVIII

二千四十八


「上から、アラビア数字、ローマ数字、漢数字。アラビア数字は計算が便利。ローマ数字は大きさがわかりやすいのと、個数と数という関係がわかりやすいがルールは複雑。漢数字は読みやすいし、大きさもわかりやすいが、計算は難しい。ただし、位を書くことによって非常に大きな数もわかりやすく表すことができるので、そういう点ではアラビア数字より優れた表記法だ」

「非常に大きな数…無量大数とか?」

「そうだね。無量大数をつかえば10⁷²-1までの数を表すことができる…もちろんアラビア数字でも表せるけど、アラビア数字で大きさをすぐに判別するためには数えないといけない」

「なるほど、どれも一長一短か」

「大切なのは、どれも、一つの同じ数を、誤解の心配なく表すことができているという点だ」

「それはそうだね。どの国の人がどの言語で2048を書いても2048は2048だ」

「そう。人間以外の動物でも、数という概念を持っている動物はいるらしい。でも数って何なんだろうね」


話しながら藍は風呂の準備をしている。お湯を貯めて、寝巻とバスタオルを用意する。湾もそれに従う。


「数とは何か…ものを数えるための概念、かな」

「それはうまくいかない。1.5や√2はものを数えてはいない」

「じゃあ、ものを計るための概念、かな」

「それはある意味うまくいくけど、2i+4のような複素数は数だろうか、という点が曖昧だ」

「計算できるもの、とか」

「それもとても数に求めたい性質だけど、数とはいえないようなものも計算できる。たとえば、集合同士に和集合という計算を考えたり、ベクトルに和や積を考えることができる。関数同士も計算できる」

「あれ?ベクトルは数でもよくない?」

「たしかにベクトルは数のようには使えるね。でもあまり数とは見ないんじゃないかな」

「藍は数の定義を知っているの?」

「知らない。より正確に言うと、数の定義は難しい、あるいは定義できない、と思っている」

「定義できない?」

「自然数は定義できる。整数も定義できる。有理数も実数も複素数も四元数も…いろいろあるけれど、それぞれ定義できる。ただ、どこまで数か、と言われるとそれはもう数学の範囲ではないのかもしれない」

「でも、数学って数を扱う学問なんだよね」


二人は話しながら浴室に向かう。


「数学は数を扱う学問なのだろうか。私はそうは思わない。数や図形を扱う学問として発展したけれど、いま数学の扱う領域は膨大だ。Mathematicsという言葉には数という意味はなく、単純に"学ぶべきこと"という意味しかないしね」

「そうなのか。どうしても数のイメージがあるけどね」

「人によって数学の定義は違うかもしれないが、私は"演繹的推論えんえきてきすいろんのみを用いて思考する研究"とでも定義しようかな」

「演繹的推論?」

「演繹というのは、仮定と推論の規則を決めることによって、絶対的に正しい方法で議論を進めていくこと」

「例えば?」

「例外を一切認めないので日常の例は持ち出しにくい。対義語に相当するのは帰納きのうだ」

「帰納って、数学的帰納法の帰納かな」

「注意が必要なのは数学的帰納法は演繹だということだけどね。帰納はたとえば、水を-10℃の部屋に置いておくといずれ凍る、という現象が100回起きたから、101回目も起きるだろう、というような推論の仕方だ」


二人は浴槽に浸かりながら話し続ける。


「それはたとえば科学かな」

「そう。科学は帰納による研究。実験と考察を繰り返して仮説を立てて実証し、あるいは反証されて進んでいく」

「なるほどね。さっき仮定と推論の規則って言ったけど、具体的にどんなものなの?」

「そうだな、明日は何にも予定が無いって言ったっけ」

「そうだよ。額縁を買いに行くんじゃなかった?」

「そうだったね。じゃあ、明日、ペアノ算術の話でもしてみようか」

「ペアノ算術?」

「仮定と推論の規則を使って遊ぶ格好の材料かな」

「また論理式?」

「もちろん!」

「もうずっと日常が論理式になったね」

「まだ二日しか経ってないよ。今日は体流してあげるからね。昨日みたいに突然抜け出すと寂しい」

「ああ…、ごめんね」

「またやったら今度から湾の名前はアルキメデスだ。ただし"エウレカ!"と叫ぶこと」

「何の話?」

「なんでもない。今日はね、この会のために昼から買い出しに行ってね。そしたらいい感じのバターを見つけて、これを使った料理にしてみようと思って…」


藍は突然論理式の話をすっかりやめて、楽しそうに準備の経緯を話し始めた。一方で湾は聞いたこともない用語に不安と期待を覚える。


ペアノ算術って、なんだろう?

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