第16話 無限小数の収束先

「ちょっと冷静になって思うけどさ」

湾が抱きついたままの藍に話しかける。

「数学って、ものすごい感情を揺さぶるよね」

「というと?」

「さっきまで自分で"数列の停止"を定義できて、有頂天になってた。それこそ立ち上がれなくなるくらい。でも今は論理式が全然思ったように書けなくて恐怖にも近いじれったさを感じてる。数学ってもっと無味乾燥で、機械的で、パズル的なものだと思ってたな」

「私も、もともと数学のパズル的な要素が好きだったけど、何度も涙を流すくらいの感動を覚えてきたよ」

「例えば?」

「有名なところでは、オイラーの等式。それからゼータ関数の解析接続。楕円曲線が群をなすこと。ガロア理論。まだまだたくさん」

「高校数学までの範囲にはないよね」

「たぶん高校数学までの範囲にもあるんだ。三角関数の加法定理、これはとんでもなく綺麗な定理だし、ベクトルの内積の二つの計算の一致も綺麗だ。中学の範囲でも、三平方の定理、方べきの定理…いくらでも楽しくて感動的な定理はある。でもね…」

藍は言葉を選んでから言った。

「なかなか大勢の授業では感動を得られにくいんだ。それに先生が生徒に感動しろといっても感動するものじゃない。でもね、一人になって見直すと、一つの定理の後ろにたくさんの歴史と構想が詰まっていて、そしてそれと長い時間をかけて全身全霊で向き合うことができる。その時に初めて数学で感動が得られるんだと思う」

「でも、同時に数学には恐怖もあるよね」

「数学恐怖症にもいろいろある。数学と聞くだけで試験の思い出がよみがえって逃げ出したくなる人。それから、自分が理解したと自信を持った後に何度も間違いを指摘されてしまって恐怖を覚える人。ひとつの問題のために人生をかけて、結局解決できなかった数学者もたくさんいるし、その数学者たちが感じてた恐怖はとてつもないものだろう。でも、美しいもの、感動するものは、やっぱりただで手に入るものじゃない。この恐怖を乗り越えた先には、この世の何よりも美しい世界を展望できる」

藍は何か迷ったように言葉を切る。

そして藍はもとの位置に戻って一呼吸してから言う。

「そう、私は思ってる」


「さて、無限小数の正体に迫ろう。さっき私たちは無限小数の数列について考えた。そして、すでにみたように、有限の数列を有限小数に直す方法も知っている。並べてみよう」


数列{aₙ}が無限小数の数列であるとは、以下の論理式を満たすことである

∀m∈ℕ(aₘ∈ℤ∧(m≧1→0≦aₘ≦9))


小数点第t桁までの項が与えられている数列から実数に直す式

∑[k=0→t]aₖ0.1ᵏ


「ちょっとシグマのほうは書き直したけどね」

「待って、藍」

「ん?」

「少し待って、なんか違和感を感じてたんだ」

「なに?」

「あのさ、-3.2と、3.2の"2"が表すことって、実はちょっと違うよね」

「というと?」

「この2って、3.2のときは、3+0.2の+0.2を表してる。でも、-3.2のほうは、-3-0.2の、-0.2を表してるよね。ちょっと違くない?」

「あっ…、これは私のミスだ。良く気付いたね」

「だから、これ、∑にそのまま入れると少し違う気がする」

「その通りだよ、このように書き換えよう」


a₀≧0のとき、

∑[k=0→t]aₖ0.1ᵏ

a₀<0のとき、

-∑[k=0→t]|aₖ0.1ᵏ|


「これで良い。さて、∑のほうの式のtに関する極限を考えることによって、次のように書きなおすと、無限小数を扱えるようになる」


無限小数の数列から実数に直す式

a₀≧0のとき、

∑[k=0→∞]aₖ0.1ᵏ

a₀<0のとき、

-∑[k=0→∞]|aₖ0.1ᵏ|


「さて、ここで、limのときに見た記号、無限"∞"が登場する。この記号はいつでも、ε-N論法が隠れている」

「ちょっと、藍、飛ばし過ぎだよ。全然ついて行けてない」

「ごめんごめん、大切なことを一つ言おう。

無限小数の定義はすでに人類共通の了解になっているから、私たちが勝手に定義するわけにはいかない。だから、人類が長い歴史の中で得た無限小数の定義…、を私たちの見てきた方法で述べてみて、それを解釈する、という形で見ていこう。整理すると、こうなる」


数列{aₙ}が以下の式をみたすとき、この数列を"無限小数表記"といい、

a₀を"整数部分"、m≧1のときのaₘを"小数第m位"という。

∀m∈ℕ(aₘ∈ℤ∧(m≧1→0≦aₘ≦9))

この数列{aₙ}、すなわち無限小数表記に対して、

a₀≧0のとき、

∑[k=0→∞]aₖ0.1ᵏ

a₀<0のとき、

-∑[k=0→∞]|aₖ0.1ᵏ|

この値を、"無限小数表記{aₙ}の値"という。


「わお」

「そして、これを付け加えよう」


ただし、

∑[k=0→∞]f(k)=r :↔

∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-∑[k=0→m]f(k)|<ε)


「こ、これは…」

「そう、見てわかる通り、ε-N論法だね」

「ちょっと…ちょっと待ってくれ」

「うん、これで書きたいことは書ききった。そして、湾はこれをもう読めるはず」

「あんまりそんな気がしないんだけど」

「大丈夫。ここからはゆっくりだよ。ゆっくりと、見ていこう。でも、その前に頭をまずクリアにしよう。ここから、またイチから考えるつもりで見ていきたい。一旦紅茶を淹れかえよう」


「さて、数学で難しい文章を読むときの方法の一つは、一行ずつ読むことだ。そして、

行を読んでその主張を理解すること

次の行になぜいけるのかを考えること

という順番で理解していくとよい」


…論理A… ←①この内容を理解

  ↓③この接続を理解

…論理B… ←②この内容を理解


「もちろん、なぜこの論理を進めたいのか、という目的も忘れてはいけないけど、とにかく、この方法が理解の第一歩だ。早速見返してみるよ。行に番号を振りながら、さっきの文を丸写しできる?」

「やってみよう」

藍にペンを渡された湾は丁寧に写していった。


①数列{aₙ}が以下の式をみたすとき、この数列を"無限小数表記"といい、

②a₀を"整数部分"、m≧1のときのaₘを"小数第m位"という。

③∀m∈ℕ(aₘ∈ℤ∧(m≧1→0≦aₘ≦9))

④この数列{aₙ}、すなわち無限小数表記に対して、

⑤a₀≧0のとき、

⑥∑[k=0→∞]aₖ0.1ᵏ

⑦a₀<0のとき、

⑧-∑[k=0→∞]|aₖ0.1ᵏ|

⑨この値を、"無限小数表記{aₙ}の値"という。

⑩ただし、

⑪∑[k=0→∞]f(k)=r :↔

⑫∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-∑[k=0→m]f(k)|<ε)


「よし!12個の行と、その行と行の接続11個を理解したら勝ちだ。そして、湾はすでにほとんどの部分を理解できてるはずだ」

「さっき全体を見た時は目を塞ぎたくなる見た目だったけど、今こうやって写すとかなり書きなれたものばっかりだったね、確かに。一つ一つはそんなに難しく無さそう」

「ならよかった。書き写すのはいつでも最高の勉強方法だね。まず、①はわかる?」


①数列{aₙ}が以下の式をみたすとき、この数列を"無限小数表記"といい、


「これはわかる。3,1,4,1,5,…という数列は、3.1415…という無限小数表記だよ、ってことだね。そして、次から無限小数表記になる条件を言うんだね。数列と小数だと少し書き方が違うのが気になるけど」

「書き方は違うけど、無限小数は数列を同一視していいよ、ってこと」

「それは今までさんざんやってきたからね、OKだよ」

「よし、次いこう」


②a₀を"整数部分"、m≧1のときのaₘを"小数第m位"という。


「これはどう?」

「これもわかる。0番目の項、例えば、さっきの3,1,4,1,5,…の例では3が整数部分で、それ以降のm桁目は小数第m位だから、たとえば2番目、0から数えるから3番目に見えるけど、この4は小数第2位ってことだね」

「①と②の関係は良い?」

「いいよ。数列や項に名前を付けてるだけだよね」

「よし。次いくよ」


③∀m∈ℕ(aₘ∈ℤ∧(m≧1→0≦aₘ≦9))


「これはさっき散々やったからまあわかるよ。時間をおいてみると難しそうだけど、つまり、0項目は整数だったらなんでもよくて、それ以降は0から9までの整数ならいい」

「完璧。①②と③の関係は?」

「こういう数列なら"無限小数表記"って呼んでいいよってことだね」

「よし。次行こう」


④この数列{aₙ}、すなわち無限小数表記に対して、


「これは大した意味はなさそうだね」

「うん。次と一緒に見よう」


⑤a₀≧0のとき、


「これも条件で本体がまだだね。これは第0項、つまり整数部分が0以上だったら、ってことだね。これは正の実数を意味したいのかな」

「正の実数と、あと0も含むけど、まあそこまでわかってれば良い。0と正の場合、負の場合、で場合分けをしたいんだ」


⑥∑[k=0→∞]aₖ0.1ᵏ


「これはどう?」

「これは無限小数表記を実数に復元する式だよね。∑の中に無限が入っているのが気になるけど」

「そう。そして、それはまだ定義されていなくて⑩~⑫を見ないといけない。こういう論理構造になると難しいけど、今は無限小数表記をこの式で実数に復元しますよ、ということだけ抑えておこう」

「わかった」


⑦a₀<0のとき、


「これはどう?」

「これは第0項が負の整数のときだね。実数が負になるときを想定しているんだと思う」

「よし、次」


⑧-∑[k=0→∞]|aₖ0.1ᵏ|


「これはまた無限が出てくるから定義されていないね。後回しにしていいのかな」

「そうだね。⑥と⑧が今回の肝だ」


⑨この値を、"無限小数表記{aₙ}の値"という。


「これはどう?」

「⑥と⑧の式でおそらく実数が出てくるから、数列を実数に復元できた。これを無限小数表記{aₙ}の値、というってだけだよね」

「そういうこと。数列は実数じゃないけど、実数に直せるよ、という話だ」


⑩ただし、


「これはどう?」

「意味ないんじゃない?」

「まあそうだけど、⑥と⑧について未定義があったので述べますよ、という意味はあるね」

「確かに」


⑪∑[k=0→∞]f(k)=r :↔


「これはどう?」

「これは⑥と⑧で∞の記号があって未定義だったから⑫で定義します、って意味だね」

「なにか難しいところはある?」

「rって何だろう?」

「いいところに気づいた。実は⑪と⑫で

∀r∈ℝ

が省略されている。ただ、∑の計算の結果がrになってそのrとは⑫の論理式を満たすrのこと、だと言いたい」

「kは何?」

「ただの記号。∑の中で使われている記号で、∑の束縛変数って言ったりする。∑のなかで完結している記号だから、∑の外から定義する必要はない」

「ちょっと難しい」

「そうだね。とりあえず、kは∑の中だけで使う記号。そして、k=0、k=1、と変化していくことを想定している」

「つまり、やりたいことはこうだね」


∑[k=0→∞]f(k)=f(0)+f(1)+f(2)+f(3)+…


「そういうこと。これは無限に足し算しているんだけど、実際に無限回足すことはできないからε-N論法を使う。さて、最後だ」


⑫∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-∑[k=0→m]f(k)|<ε)


「あれ?もう最後か、スムーズだったね」

「なにしろ、今日やってきたことは全部このだったんだから。そして、この⑫も実は簡単。なぜなら、ε-N論法そのものだから。ただ難しいのは∑だけだから、∑を少し書き換えよう」


数列{sₙ}を次のように定義する

sₙ=∑[k=0→n]f(k)


「さて、この意味はともかく、これを論理式に代入するとこうなる」


∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-sₘ|<ε)


「あっ」

「さて、ε-N論法の式と比較しよう」


∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-aₘ|<ε)


「もはや全く同じだね」

「違いは?」

「sₘかaₘか」

「そういうこと。そして、今回の数列{sₙ}はこういう数列なんだ」


s₀=∑[k=0→0]f(k)=f(0)

s₁=∑[k=0→1]f(k)=f(0)+f(1)

s₂=∑[k=0→2]f(k)=f(0)+f(1)+f(2)

s₃=∑[k=0→3]f(k)=f(0)+f(1)+f(2)+f(3)


「fだとわかりにくいから、今考えている無限小数でいうと、こういうことだ」


無限小数表記{aₙ}を

a₀=0

a₁=9

a₂=9

a₃=9

(以降ずっと9、∀m∈ℕ(m≧1→aₘ=9)と書くのも良い)


「としてみよう。このとき


∑[k=0→∞]aₖ0.1ᵏ


これは次のような数列の極限だ」


s₀=∑[k=0→0]aₖ0.1ᵏ=0

s₁=∑[k=0→1]aₖ0.1ᵏ=0+0.9

s₂=∑[k=0→2]aₖ0.1ᵏ=0+0.9+0.09

s₃=∑[k=0→3]aₖ0.1ᵏ=0+0.9+0.09+0.009


「つまりこれはこういう数列の極限だ」


0

0.9

0.99

0.999


「この極限はずばりなんだろう?」

「1だね。1との誤差はいくらでも小さくできるから」

「その通り。つまり、無限小数表記0,9,9,9…、つまり、0.999…これは1を表していることがわかった。さて、ゴールしよう」


数列{aₙ}が以下の式をみたすとき、この数列を"無限小数表記"といい、

a₀を"整数部分"、m≧1のときのaₘを"小数第m位"という。

∀m∈ℕ(aₘ∈ℤ∧(m≧1→0≦aₘ≦9))

この数列{aₙ}、すなわち無限小数表記に対して、

a₀≧0のとき、

∑[k=0→∞]aₖ0.1ᵏ

a₀<0のとき、

-∑[k=0→∞]|aₖ0.1ᵏ|

この値を、"無限小数表記{aₙ}の値"という。

ただし、

∑[k=0→∞]f(k)=r :↔

∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-∑[k=0→m]f(k)|<ε)


ここで、0.999…を例にとると、


数列{aₙ}: 0,9,9,9,… は以下の式を満たすので、この数列は無限小数表記といい、

初項の0を整数部分、m番めの9を小数第m位の9という。

∀m∈ℕ(aₘ∈ℤ∧(m≧1→0≦aₘ≦9))

この数列0,9,9,9,…に対して、a₀≧0なので、

∑[k=0→∞]aₖ0.1ᵏ

この値が0.999…の値である。

ただし、

∑[k=0→∞]aₖ0.1ᵏの極限とは、

0

0.9

0.99

0.999

という数列の極限である。この極限は1に等しいので、0.999…=1


「…長かった」

「まだ整数部分が負の時の確認が残ってるけどね…でももう時間も遅くなっちゃったから、ここまでにしようか」

時計を見るとすでに12時である。

「結局これは、小数の位を増やしていった時の極限が無限小数の値だってことだね」

「そう。それをとても難しく、しかし厳密に言っただけだ」

「さて、次の式をもう一回見て、どう思う?」


0.999…=1


「うーん、これは当たり前に見える。そりゃそうでしょ、っていう感じ」

「そう。論理式に従うと、これは当たり前の式に見える。けれども、この論理を知らなかったらいつまでたっても納得できなかったり、頓智で納得しようとしてしまったりする」

「頓智?」

「1/3=0.333…だから、この3倍は0.999…、とかね」

「なるほど、これはどこがいけない?」

「1/3=0.333…を無条件に納得しているけど、これもε-N論法でしっかり述べないといけないところだ。人によっては1/3のほうが大きく見えるからね」

「なるほどねえ」

「今晩はとても長くなったけど、とりあえずε-N記念日、これにて閉幕だ」

「うん…途中からかなり大変だったけど、でも楽しかったよ」

「ならよかった。数学の世界から帰還して、日常に戻ろう」

「どういうこと?」

「食器の後片付け。お風呂に入って寝る準備」

「日常だね」

「数学をやっていると、今自分がどこにいるかも忘れてしまうからね。しっかり戻ってこよう」

「よし!ただいま日常!」

湾が高らかに宣言すると、続いて藍も言った。

「ただいま日常!」


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