どうせなら厳密なほうがいい
えのき
第1話 ゼロ
人混み。
雑踏。
もう何年もこんな風景のなかにずっといる。無限に続く日常。終わりが来ることなんて想像もできない。
いつものこと。別になにか事件を期待しているわけでもないし、そもそも現在に不満があるわけでもない。飽きているわけでもない。幸福の絶頂かというとそういうわけでもないが。
「ゼロってなんだ?」
湾は藍に聞いた。
「何にもないことじゃない?」
とくに目を合わせるわけでもなく、藍は答えた。
「それもそうか」
とくに感動もなく返事をする湾。
ただ、このまま別の話題に移るのも話を持たせる自信がないので、あえてつっかかってみることにした。
「だけどさ、0℃って0だけど、そこにエネルギーがあるよな。0dBだって、マグニチュード0だって」
「まあ、そんなこと言ったら、10と100は違う数だから0が何もないっていうのは言い過ぎたかもね」
「0にはいくつか種類があるってことか」
湾がそうつぶやくと、信号待ちで二人の足は止まった。
「0には、無の0、基準の0、空位の0、があるね。これで満足?」
「ん、何もない0、0℃のようにひとつの基準を表す0、100のように位取りを表す0ってことか。まあ、そんなところだろうな」
「無の0についてなら今は話す気になるかも」
藍はぶっきらぼうに言ったが、ここで初めて二人の目があった。
湾と藍は付き合って3年経つ。付き合い始めのころは世界で一番幸福なカップルである自信があった。今はどうだろう。まあ、普通か。
「無の0…か」
湾も自分の出した話題はしっかり回収しよう、という気になった。
「じゃあ、フォン・ノイマン構成の自然数の0の定義がいいか」
藍は淡々と言った。
「フォン・ノイマン構成?」
「順序数…まあ、特に自然数の作り方だね」
「どんな感じ?」
「ある自然数nはn未満の自然数全体の集合である。ただし0も自然数に含む」
「ん…たとえば、5は、5未満の自然数、0,1,2,3,4の集合{0,1,2,3,4}ってことか」
「そう。要素の個数が5個だから、たしかに5にふさわしい、って気はするね」
「そんなものか。ってことは0はどうなる?」
「自分で考えなよ。湾は脳持ってるでしょ」
藍はどことなく冷たいが、そんな感じは湾の望むところでもある。こういう関係だからこそ長く続いているのかもしれない。
「0は0未満の自然数全体の集合…だけど、0は最小の自然数だから空集合∅だね」
「そういうこと」
「なんか自然数の定義を自然数って言葉でして、しかも未満とか怪しいことば使ってるから変な感じだけど」
「別にこれはイメージだし」
「厳密な方がいい」
「ふーん…自然数0の定義はこうだ。
すべての集合xに対し、xは0の要素ではない
これで満足?」
「満足、といいたいところだけど、紙に書いてほしい。言葉じゃわからん」
「ふー、仕方ないな、ならそこの喫茶店に入ろう」
そして、二人は喫茶店ブラザーズに入った。
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