第9章 古劇場の歌姫

第121話 騎士団寮

 翌日、仕事は定休日だったけれど、私は屋敷の御者さんに頼んで騎士団本部に連れてきてもらった。雨はすっかり止んで、道にはところどころに水たまりができている。


 私は騎士団本部の前で馬車から降ろしてもらったものの、本部には立ち寄らずにそのまま建物に沿ってしばらく進み、木々の間の小道を抜ける。するとやがて目の前に二階建ての大きな木造の建物が見えてくる。


 これが、騎士団寮。騎士団に所属しているけれど、王都に家をもっていない団員さんたちが暮らしているんだ。


 入り口のところに立っている守衛さんに挨拶して、昨夜遅くにフランツが来なかったか尋ねようとした。

 だけどそれを口にするより早く、守衛さんは「ああ、西方の金庫番のカエデだね。君が来たら、案内するように言われてる」と付いてくるように言われた。


 連れて行かれたのは二階の一室。守衛さんに礼を言って別れると、一呼吸してからトントンとドアをノックした。


「はい、どうぞ」


 中から返ってきた声は、フランツの声ではなかった。あれ? でも聞き覚えのある声だなと思いながらも「失礼します」とドアを開けると、目に飛び込んで来たのは床で腕立て伏せをしているフランツと、横のベッドに腰掛けて静かに難しそうな本を読んでいるクロードの姿だった。


 ついでにいうと、フランツは上半身裸だ。


「きゃっ、ご、ごめんなさいっ」


 慌ててドアを閉める。すると、ドアの向こうでドタバタと騒がしい音がしたあと、ガチャリと再びドアが開いた。


「ごめん、カエデ。トレーニングしてたら、暑くて服脱いじゃって」


 バツが悪そうに笑うフランツは、もう上にシャツを着ていた。

 それに運動したあとだからか、どこかさっぱりした表情をしている彼に内心少しほっとする。昨日のあの様子だと相当落ち込んでるんじゃないかって心配だったから。


「ううん。元気そうで良かった。ここって、クロードの部屋なの?」


「ああ、そうなんだ。いまどこも空いてなくてさ。とりあえず、クロードの部屋に居候させてもらってたんだ。どうぞ」


 改めて部屋に入れてもらうと、どうやらここは本来一人部屋のようだった。


 奥に小さなデスクがあって、その左側にベッド。手前に置かれた本棚には魔道書らしき本がぎっしりとつまっていた。給料のほとんどを魔道書に費やしてしまうクロードらしいといえる。


 部屋の右側には、遠征のときによく見かけた簡易ベッドが置かれていた。これは、フランツが倉庫から持ち出してきて組み立てたものだろう。


 フランツが簡易ベッドに腰を降ろしたので、私もその横に座る。


「あのあと、風邪引いたりしなかった?」


 昨日、外套を着ているとはいえ土砂降りの中を出て行ったから、風邪でも引いてないか心配だったんだ。


「ああ、大丈夫だよ。心配かけちゃったね。……あのとき、頭に血が上ってたから、雨で冷やされてちょうど良かった」


 フランツは弱く笑う。でもやっぱり、いつものような朗らかさがなくて、どことなく声に元気がないようにも感じられた。


「それで、これからどうするつもりなんだ?」


 クロードが読みふけっていた本から視線をあげて尋ねる。


「とりあえず、父さんには手紙を書くよ。昨日も話そうとしたんだけど、俺と話すことはないって会ってはもらえなかった」


 フランツの声には悔しさが滲んでいた。膝の上に置いた拳は強く握られ、わずかに震えているのがわかる。


 昨日の報告はショックだったけれど、それはフランツも同じこと。


 ううん、私は唖然とはしたけれど、サブリナ様も動いてくれるというし、そもそも私にエリックさんと結婚する気持ちはないんだから、そんな未来が来ることはないって心のどこかでは確信してる。


 でも、フランツの心情はもっと複雑なんだろうな。実の親に勝手にそんなことをされたら怒りもするし、失望も大きいだろう。


 私はフランツの手に、そっと自分の手を重ねた。ハッとこちらを見たフランツと目が合う。彼を少しでも安心させたくて小さく笑って返すと、彼の瞳がわずかに揺らぐのがわかった。


「……カエデ。もし父さんが折れてくれなかったら、最悪、家を出ないとカエデとは一緒にいられないかもしれない……」


 今も既に家を出ているけど、短期間家出するのとは違うのよね、きっと。

 それは、ハノーヴァー家を捨てるということなのだろうとすぐにわかった。わかったけれど、どうにも私にはそれがどれほど大変なことなのかいまいちピンとこない。


「それでも、私は別に構わないわよ。フランツがそばにいてくれるんなら」


 小首を傾げてそう返すと、フランツは驚いたように目を見張った。


「もしそうなったら、俺が継ぐはずだった財産とか地位とかそういうものもなくなるけど……」


「でも、騎士団の仕事はなくならないんでしょ?」


「う、うん。それは、まぁ……」


 いまだって、騎士団からは自分一人で生活していくのには充分なお給料をもらっているもの。フランツは危険な職だから私よりももっとずっとお給料はいいしね。遠征が終わったあとにみんなに半年分の給料を支払ったばかりだから、だいたいの給料の額は覚えている。


「だったら、二人の収入を合わせれば、王都のどこかに家を買うなり借りるなりして暮らすのは全然問題ないと思うのだけど。私、フランツと結婚したからって、金庫番の仕事を辞めることなんて考えてなかったし、何も問題ないんじゃないの?」


 元々、前の世界にいたときだって、結婚するにしてもきっと一生共働きなんだろうなぁってうすうす思ってたから、私にとってそれは特段変なことではなかった。


 でもフランツはまだびっくりしたように私を見ている。そして何か口を開こうとするものの、思い直してまた口をつぐんだりを繰り返した。


 そのとき、吹き出す声が聞こえて、見るとクロードが肩を震わせて笑っていた。笑いをこらえようとするけど、こらえきれずに声が出てしまったみたい。


「いや、すまない……。ほら、フランツ。言ったとおりだっただろ? カエデは、いままでお前に言い寄ってきてた貴族のお嬢さんたちとは違うって」


 そう言われたフランツは、小さくハァと息を吐く。


「昨日、あのあとクロードにも話を聞いてもらったんだ。んで、言われたよ。カエデは頭の中で、お前が思ってるよりずっと堅実な将来像を描いてるはずだぞって。だから……そうだよな。俺が父さんと縁を切ってしまえばもう、父さんの言動に振り回されずに済むんだよな」


 そして私に視線を向けると、柔らかな目で微笑んだ。


「ありがとう。カエデのおかげで、なんか随分気持ちが楽になったよ。俺たちにとって何が一番大切なのかを考えて行動すればいいだけなんだよな」


 フランツは私の手を取り、包み込むように握り返してくれる。その顔にはもう、いつもの元気の良さが戻っていた。

 よかった。と、ほっと胸をなで下ろしたそのとき。


 コンコンと、ドアをノックする音が聞こえた。


 クロードも、誰だろう? といぶかしげにしながら「はい。どうぞ」とドアの向こうに声をかける。


「失礼するよ。ここにフランツがいるって聞いて来たんだけど」


 ドアを開けて顔を覗かせたのは、フランツのお兄さん。

 エリックさんだった。

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