第44話 褒めてんじゃねぇよ
一年生の実力試しも終え、夏に向けた練習を本格的にスタートさせた千町高校。
ある晴れた日の放課後。
シートノックを受け終え、ベンチに左利き用のグラブを置く上田。
水分補給をしながら、タオルで汗を拭う。
そこへ、ピッチング練習を終えた大智がやってきて声をかけた。
「随分と様になってきたんじゃないか?」
「あん?」
「左投げでのファースト。日に日に動きもよくなってんじゃねぇか?」
「一年間、毎日のようにノック受けてんだ。そりゃ、多少はマシな動きにもなんだろ」
上田は淡々と話す。
「これなら、もう十分試合でも通用するんじゃねぇか?」
「どうかな?」
「あん?」
「ノックの球と試合の打球は全く別物だからな。いくらノックの球が捕れるようになったからって、試合でも同じように捕れるとは限らねぇよ。甲子園に行くようなチームとの試合ならなおさらな」
「そりゃ、まぁ、そうだが……」
「俺らが目指してんのは甲子園なんだろ?」
「あぁ、勿論」
「だったら、こんくらいのことで褒めてんじゃねぇよ」
上田は持っていたタオルを置いてその場から立ち去る。
その背中に向けて、大智は帽子を脱いで一礼した。
「一歩目が遅い! 足が動いてないよ! 捕ってからもっと速く! 打倒港東!」
グラウンドに紅寧の声が響き渡る。
グラウンドでは紅寧によってノックが行われていた。
「なぁ、おい、春野」
バックネット裏から練習の様子を見ていた藤原が近くを通りかかった大智に声をかけた。
「何です?」
大智が藤原の許へ来る。
すると藤原は、ノックを打つ紅寧を指差して、大智に訊いた。
「マジで彼女何者?」
「上手いでしょ? ノック」
大智が嬉しそうに言う。
「上手いってもんじゃねぇよ。捕れるかどうかギリギリの所を狙って打てるし、打球のバリエーションも豊富。それに加えて、指摘まで的確。彼女、俺よりいい指導者なんじゃ……?」
「えぇ。間違いなく」
笑顔の大智。
そんな大智を藤原はじろっと睨む。
それに気が付いた大智は咄嗟に口元を抑えて、藤原から顔を背けた。
「ま、それは一先ず置いといて。ほんと大したもんだよ。一人で十人をスカウトして、そのデータをまとめて。かと思えば、ノックも打てるし、指導までできる。もはや、マネージャーというより、コーチだな」
藤原は紅寧の働きを振り返りながら、冷汗を垂らしていた。
「だから言ったでしょ? 来年のヘッドコーチだって」
「そう言えばそうだったな。正直、あの時は冗談くらいにしか思ってなかったんだよ。けど、今ならあの時の言葉を素直に受け入れられるよ」
藤原はグラウンドを眺めながらふっと笑う。
「ま、あの時なら冗談だと思うのも、無理もないですけどね。ここまでやるなんて、誰も思いませんから。まぁ、これを言うと、紅寧は怒りますけど」
「みたいだな。この前、怒られたよ。何でこれくらいのことで驚くんだってな」
藤原は紅寧怒られた時のことを思い出しながらふっと笑った。
「これだけやれたら普通は驚きますけどね」
「だよな!」
突然、藤原が声を大きくしながら大智に顔を近づけた。
「え、えぇ」
藤原の勢いに大智は後退った。
「いや~、良かった。俺が彼女を過小評価し過ぎてるんじゃないかと心配になってたんだよ」
藤原がホッとした様子を見せる。
「そこ! 何、ぼーっとしてるんですか! 監督、暇なら変わってください。大にっ……、じゃなかった。春野先輩! ピッチング練習終わったんなら、走りに行きますよ!」
「は、はい」
藤原と大智は背筋をピンッと伸ばして返事をした。
「あ、待って、大に……、じゃない。春野先輩~」
練習を終え、解散後、部室へ戻る大智を紅寧が呼び止める。
紅寧に呼び止められた大智は部室へ戻る足を止め、踵を返すと、紅寧の許へ戻って来た。
「やっぱり、慣れねぇな、その呼び方」
「私も~。つい大兄って呼んじゃう」
紅寧は肩の力を抜くように、はぁ~っと息を漏らした。
「でも慣れるしかねぇよな。幼馴染とは言え、一応、先輩後輩なわけだし」
「まぁね。周りの目もあるもんね」
「だな。で、何で呼び止めたんだ?」
大智が問いかけると、紅寧は急に思い出したように背筋をピンッと伸ばした。
「そう! 大兄、ユニホーム着替えないでね」
「は?」
「あ、正確にはユニホームの上に制服を着るだけの状態で出て来てね」
「え? いや、何で?」
紅寧からの唐突な指示に戸惑いを見せる大智。
そんな大智を他所に紅寧は自分のペースで続ける。
「それは後のお楽しみ。着替えたら校門の前集合ね。絶対先に帰らないでよ」
紅寧はそれだけ告げると、足早にその場を去って行く。
その背中を呆然と見つめる大智。
紅寧の姿が見えなくなってから、ようやくハッと我に返る。
「やばっ! 早よ、着替えんと」
大智は急いで部室へと向かった。
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