第2話 景気づけに

 三月の末。青空の昼下がり。

 卒業式を終えた大智、剣都、愛莉の三人は校庭にある一本の桜の木の下にいた。

 三人は、蕾を付け、花を咲かせるタイミングを静かに待ち続ける桜の木の枝をじっと見つめていた。

「いよいよだな」

 静寂の空間に大智の声が響き渡る。

「あぁ」

 剣都は桜の木を見上げたままで大智の声に答えた。

「だね」

 愛莉も桜の木を見つめたまま、剣都に続くようにして大智の声に反応した。

 愛莉が声を発した後は誰も声を発さない。静かな時間が再び三人の間に流れた。

「愛ちゃん!」

 静寂を保っていた三人の許に愛莉を呼ぶ声が届く。

「ん?」

 名前を呼ばれた愛莉が真っ先にその声に反応する。

 他の二人も愛莉に続いて声のする方に視線を向けた。

 三人の視線の先には、もの凄い勢いで走ってくる紅寧の姿があった。

 紅寧はその勢いのまま、真っすぐ愛莉の許へと向かい、愛莉に抱き着いた。

「わっ!」

 あまりの勢いに、紅寧に抱き着かれた愛莉は、驚きの声を漏らした。

「愛ちゃん、卒業おめでとう」

 紅寧が愛莉の顔を見つめながら満面の笑みで言う。

 紅寧は同年代の中でも小柄なので必然的に上目遣いになる。

「ありがとう」

 愛莉は嬉しそうにニコッと笑っていた。

「大兄も卒業おめでとう」

 紅寧は愛莉にくっ付いたまま、顔を大智の方に向けて言った。

 その顔には愛莉に向けられたものと同じ、満面の笑みが浮かべられていた。

「ありがとな、紅寧」

 大智も嬉しそうに紅寧に笑顔を向けた。

「みんなで何してたの?」

 紅寧は主に愛莉と大智を見ながら言った。

「いや、俺は!?」

 一人だけ紅寧にお祝いの言葉を言われていない剣都が声を上げる。

「あ、剣兄もおめでと~」

 紅寧は明らかに興味のなさそうな顔を浮かべ、適当にあしらうように言った。

「俺はついでかよ……」

 実の妹に適当にあしらわれた剣都は肩を落とすようにして沈んでいた。

「どんまい、剣都」

 大智が剣都の肩を叩いて励ます。

 だが、その顔には勝ちを誇るような笑みが浮かべられていた。

「ただ桜の木を見てただけよ。桜の木を見ながら、いよいよだねって話をしてたところ」

 愛莉が紅寧に説明する。

 それを聞いた紅寧はさきほどまでの勢いを落ち着け、しみじみとした表情に変わった。

「そっか……。いよいよ、始まるんだね」

 紅寧も桜の木の枝に視線を向けて言った。

「うん」

 愛莉も紅寧に続いて再び桜の木の枝に視線を向けた。

「そうだ! ねぇ、大兄。キャッチボールしよ?」

 紅寧は抱き着いたままだった愛莉の許から離れながら大智に向けて言った。

「キャッチボール? そりゃあ、かまわんけど、今は道具持ってないぞ?」

 大智がそう言うと、紅寧は肩にかけていたエナメルバッグを降ろし、バッグの中からグラブを二つ取り出し、片方を大智に渡した。

「はい、大兄」

「準備がいいな」

 大智がグラブを受け取りながら言う。

「だって、もうなかなか会えなくなるんだもん。だから、最後にキャッチボールしたいなって思って準備してたの」

 紅寧は俯き気味になって言った。

「そっか……」

 大智は紅寧の頭に手を置き、紅寧の頭を撫でながら、しみじみとした表情を浮かべていた。

「うしっ! じゃあ、いっちょやるか!」

 紅寧の頭から手を離しながら大智が言う。

「うん」

 それを聞いた紅寧は満面の笑みを大智に向けて返事をした。

 大智と紅寧は剣都と愛莉をその場に残して、グラウンドへと向かった。

「相変わらず仲が良いね、あの二人」

 桜の木の下から離れて行く大智と紅寧の背中を見つめながら愛莉が言う。

「だな。あのまま大智と紅寧がくっ付いてくれれば、愛莉は俺のものなのにな~」

「剣都!」

 愛莉はムッとした表情を剣都に向けていた。

「冗談だよ、冗談」

 剣都が慌てて釈明しようとする。

「もう……」

 先ほどよりも表情は和らいでいるが、愛莉の顔にはまだ怒りの感情が浮かんでいた。

「でも、もし本当に紅寧の相手が大智なら安心なんだけどなぁ。あ、勘違いするなよ。ライバルがいなくなるからってことじゃないからな。これは紅寧の兄としての気持ちだからな」

 剣都が真面目な表情になって言う。

「わかってる。でも、もしそうなったら、大智が剣都の義弟になっちゃうよ?」

「あ~、それは嫌だな。……いや。逆にそれはそれで面白いかもな~。あいつが俺のことをお義兄さんって呼ぶところ見てみたいな」

 そう言うと剣都はニヤリと笑って愛莉に顔を向けた。

「絶対、言わないでしょ」

 愛莉が剣都に真顔を向けて言った。

「まぁ、言わないだろうな」

 剣都もそう言いながら真顔になり、二人は真顔のまま、互いの顔を見つめていた。

 だが、すぐさま耐え切れなくなって笑ってしまう。

 二人はそのまましばしの間、笑い続けた。

 ある程度のところで落ち着きを取り戻した二人は、自然と一緒に桜の木の枝に目を向けていた。

「でも、まさか大智が千町に行くなんてね。私、びっくりしちゃった」

「いやいや、愛莉。俺はお前が千町に行くことの方がびっくりだったんだからな」

 剣都は桜の木から愛莉に視線を移して言った。

「……だよね。正直、自分でも未だにびっくりしてる」

 愛莉は地面に視線を移して言った。

「大智が、行くからか?」

「どうなのかな……。何で自分が千町を選んだのか、本当にわからないの。ただ、高校を決める時、気が付いたら千町って書いてた……」

 愛莉はずっと下を向いたままだった。

「そうか……」

 剣都はそれだけ言うと桜の木を見上げた。

「でも大丈夫だよ。ちゃんと剣都の応援にも行くし、二人とも応援するから」

 愛莉は少し慌てたように剣都に目を向けると、剣都にそう告げた。

「ありがとう」

 剣都が愛莉に微笑む。

 しかし、すぐに表情を真剣な表情に変えて続けた。

「でも、俺たちが試合をするってなったら、愛莉はどうする?」

「それは……」

 愛莉が俯く。愛莉はそのまましばらく考え込んでいた。

「今は……、わからない」

 愛莉は俯いたまま、細々とした声で剣都に言った。

 愛莉の答えを聞いた剣都は空を見上げ「そっか……」と短くそう答えるだけだった。

「悪かったな。意地悪なこと訊いて」

 剣都は愛莉に視線を戻して謝った。

「ううん。でもいつかはそういう日が来るかもしれないんだよね……」

「あぁ。必ずな」

 剣都がそう言い切る。

「必ず? 必ずってことはないでしょ?」

 愛莉は剣都の顔を見ながら首を傾げていた。

「必ずだよ。大智は必ず俺のところまで来る。必ずな。そして、俺もあいつが来るまで絶対に負けない」

 剣都は真っすぐな目で愛莉の目を見つめながら言った。

「だから、愛莉。これだけは約束してほしい。俺らが戦うことになったら、その時は絶対に最後まで目を逸らさずに勝負を見届けて欲しい。お願いできるか?」

「……うん」

 一度は目を逸らした愛莉だったが、その後、視線を剣都へと戻し、ちゃんと剣都の目を見ながら返事をした。

「ありがとう」

 剣都が微笑みを浮かべる。

「じゃあ、あいつらのとこにでも行ってみるか?」

「うん」

 そうして二人は、桜の木を後にし、グラウンドにいる大智と紅寧の許へと向かった。


「お~い、剣都」

 剣都と愛莉の姿に気が付いた大智が声をかける。

 大智はマウンドの上に立っていた。紅寧はホームベースの後ろに屈んでグラブを構えている。

「なんだ、ピッチングしてたのか?」

 大智の近くまで来た剣都が訊く。

「紅寧がどうしても受けたいって言うからな」

 大智は投球モーションに入りながら剣都に向けて言った。

「でもお前それ軟球だろ? せっかく硬球に慣らしてたのに大丈夫なのか?」

 剣都は眉間にしわを寄せながら大智に訊いた。

「大丈夫だよ。軽く流す程度だしな。それより、どうだ? 景気づけにいっちょ勝負でもしないか?」

 大智はそう言うと剣都を見ながらニヤリと笑った。

「軟球でか?」

 剣都は少し困惑した様子で大智に訊いた。

「校舎前にネットがないここで硬球を使うわけにはいかないだろ?」

「そりゃそうだ。でも本気で投げられないお前となら勝負する気はないぞ?」

「大丈夫だよ。もう十分慣らしたから」

「調子に乗って高校入る前に肩痛めるなよ?」

「わかってるよ。それとも何か? 打つ自信がないか?」

 大智が剣都を挑発する。

「ふん。相変わらず子供染みた挑発だな。でも忘れるなよ。お前は俺に全く勝ち越せてないんだからな」

「半年前までは、だろ? 今までの俺と同じだと思うなよ」

 大智が不敵な笑みを浮かべる。

「ふん、いいぜ。来いよ。返り討ちにしてやんよ」

 剣都はそう言って、バッターボックスへと向かった。

「はい、剣兄」

 紅寧が剣都にバットを渡す。

「あぁ」

 剣都は紅寧からバットを受け取り、代わりに脱いだ学ランの上着を紅寧に渡した。

 キャッチャー防具までは用意していなかった紅寧は危険回避の為、その場を離れ、愛莉と共に一塁側のベンチに並んで座った。

 剣都が数回の素振りを行った後、バッターボックスに入る。剣都の目は完全に勝負モードに切り替わっていた。

 マウンド上の大智とバッターボックスの剣都が互いに睨み合う。

 張り詰めた空気が、二人の間に流れ始めた。

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