冒険する魔訶迦葉
増田朋美
第一章
冒険する魔訶迦葉
第一章
その日、アリスは他の妊婦さんの相談があるとか言って、外出していたため、蘭は一人で昼食を食べることにした。まあ、そういうことは、よくあることだから、蘭は別に寂しいという事は感じなかったが、それでも、一人で誰にも会わないでぼさーっとしているのも、何だかなあと感じてしまうのだった。蘭が、カップラーメンにお湯を入れて、さて、そろそろ三分たったかな、と、考えていると、
「おーい、蘭ちゃんいる?いるならちょっと、出てきてくれないかなあ。」
と、玄関先から、聞き覚えのある男性の声がした。
「こんな時に誰だろう。」
と、蘭がちょっと呟くと、
「ああ、あの、すみません。蘭さんのお宅はここでよろしいんでしょうか?」
と、別の男性の声も聞こえる。蘭は今時誰かなと思って、急いで玄関先に行くと、お客さんはガチャっと、ドアを開けて入ってきた。
「ほら、もうこのうちはもう家族のようなものだから、どんどん入ってくれていいんだよ。甥っ子の蘭ちゃんの家だから。」
と、なれなれしく入ってくるお客さん。蘭も、そのお客さんの顔を見て、
「あ、喜恵おじさん!」
と、ちょっと驚いた顔をした。
「ははは。偶然近くを通りかかったものでね。蘭ちゃんが、どんな生活しているか、見たくなったんだよ。蘭ちゃん、元気かい?」
喜恵おじさんは、どんどん上がり込んできて、一緒にいた若い男性にもほら入れ、と、入るように言った。お邪魔しますと言って、彼も蘭の家に入ってきた。
「いや、毎日カップラーメンばかりの生活では、体にもよくないぞ。せめて、コンビニの弁当に切り替えたらどうだ?」
と、テーブルの上に置いたカップラーメンを見て、喜恵おじさんはにこやかに笑った。こういう時、亭主をほっぽらかしにして、嫌な女房だなと言わないところが、蘭にはありがたかった。
「それより、喜恵おじさん、今日は何のようがあってうちへ来たんですか?」
蘭は、喜恵おじさんにちょっと嫌そうな顔をしていった。
「いやな。先週から、伊東学園高校にボランティアで行くことになっててさ。」
「伊東学園高校?」
ちょっと、なんだか個性的な響きがあった。伊東学園と言えば、最近できたばかりの通信制の高校だったはずだ。
「そうだよ、伊東学園高校。今、新作小説を書いていてね。その参考のために、生徒さんのお話し相手をするという、ボランティアをしているんだよ。幸い、伊東学園では、地域のお年寄り何かが生徒さんの話を聞いてやる、というのはよくあるんだよな。」
「そうですか。最近の学校は、地域のお年寄りを、ボランティアで雇うんですか。」
おじさんの話に、蘭は、ちょっとびっくりした。
「そうそう。生徒さんたちも、僕の話をちゃんと聞いてくれるし、返って、全日制の高校よりもいい子が多いくらいだ。最も、僕は教員免許を持っているわけではないので、僕の事を、先生とは呼ばないでもらいたいんだが、それだけはどうしても治らないようで、、、。」
喜恵おじさんは頭をかじった。
「まあ確かにそうでしょうよ、そういう子だったら、僕に対しても、先生って呼ぶと思いますよ。多少派手な服装をしていても、頭ではちゃんと、大人の汚さをわかって、自暴自棄になっているんですから。そこから引っ張ってあげられるのは、今は学校の先生じゃないような気がしますよ。」
蘭が、そういう愚痴を言うと、喜恵おじさんと一緒にやってきた、例の若い男性が、ちょっと悲しそうに涙を流した。
「おじさん、もうそれ以上言うのはやめたらどうですか。あんまり学校の事を悪く言うと、この方に傷がつきますよ。」
蘭はそう考慮して言うと、
「いいや、それではだめだ。教師をやっていくという事は、そういう事なんだから。こういう周りの悪口に、耐えるという事もしないといけないですよ。はっはっは。」
喜恵おじさんは、へんなかおをして笑った。
「お望みなら、この青年の背中を預けてもらって、思いっきり青龍でも描いてもらいたいところだよ。でも、教師が絵を描くのはちょっとねエ。」
「学校の先生なんですか。それじゃあやめた方がいいですよ。学校の先生が、刺青をするなんて、保護者が許さないでしょ。」
「いやいや、そのくらい覚悟をしないとね、学校の先生は務まらないよ。それに、伊東学園は、一度ほかの学校で傷ついてる生徒さんばかりいるんだから、もしかしたら、絵を描いた先生のほうが、話しやすいかも知れないよ。」
「喜恵おじさん、、、。確かにそうなんだけどさあ。」
蘭は、喜恵おじさんの話に、申し訳なさそうな顔をして、その青年を見た。
「すみません。僕の伯父は、こういう事ばっかり言うので、困るでしょうが、伯父の悪い癖だと思って、聞き逃してください。」
「いいえ、そんなことありません。檜山先生と一緒に学校にいると、檜山先生が的確に指示を出してくれますので、大丈夫です。」
と、若い青年は言った。蘭は、申し訳なさそうな顔をして、
「すみません。僕の伯父さんは、時々こういう事をいうモノですから。僕が代わりに謝っておきます。」
と、言った。
「いえいえ、大丈夫です。気にしないでください。」
とにこやかに言う青年。
「所で、君の名前、なんていうの?」
と、蘭は、好奇心から彼の名前を聞いた。
「ええ、植松直紀と言います。伊東学園高校で、数学の教師をしています。」
と、植松が答える。蘭は、ずいぶん意外な職業だなあと思った。数学の先生なんて、とてもそんな職業は似合いそうもない、繊細そうな顔の青年である。
「へえ、先生ですか。何だか意外だな。誰かにあこがれて教師を目指したんですか?」
「まあ、人に教えるのは好きだったので。初めは、全日制の教師になったんですが、なんだか砂を噛むような光景ばかりで、結局鬱になって辞めて、今は、伊東学園で教師をすることになりました。でも、こっちに居たほうが、教師をしているっていう気がするので、意外に充実しているんですがね。確かに生徒さんは、一筋縄ではいかない生徒さんばかりですが。」
と、植松は正直に答えた。
「そうですか。でも、なんだか、覇気がないですね。学校で何か問題でもあったんですか?まあ、確かに、学校で、問題のない学校なんて、今はどこにもないと思いますけど。」
と、蘭はそういってみる。確かに植松の顔は、覇気がないというか、力が抜けてしまったような顔だ。
「ええ、そうなんだよ、蘭ちゃん。だからこそ君に会わせたくて、ここに連れてきたんだ。ほら、悩んでいること、言ってごらん。」
喜恵おじさんが、そういうことを言った。という事はやっぱり、植松の勤めている伊東学園で大問題が起きているのだろう。
「確かにさ、伊東学園みたいなところはさ、みんなからバカの行く高校って言われてて、確かに掃溜めのように扱われてきた生徒ばかりだけどな。」
と、喜恵おじさんが、一寸、彼に助け舟を出す。
「はい。じゃあ、本当の事を話します。実は、僕の受け持っている生徒が、ある作文を書いて、提出したんです。その作文のテーマは、T4作戦についての考察を書くものだったようですが、その中に、命は大切である、でも理解ができない、とその男子生徒が書いて、、、。」
と、植松は、学校の問題を話し始めた。
「T4作戦?ああ、あの、障害者を大量に集めて殺したという、ナチスドイツの作戦ですか。」
と、蘭はそういった。確かにT4作戦は、良く学校教材にもなる歴史的な事例である。
「それと、どう関係があるんです?その男子生徒さんが書いた言葉とは?」
「ほらあ、しっかり話してみなさい。君が受けた衝撃は、確かに大きいと思うけど、ちゃんと話せないと、問題がしっかりつかめないままになってしまう。」
蘭の質問に、喜恵おじさんもそう付け加えた。どうやら植松という人は、問題を提起するのが苦手らしい。理系の先生によくあることだが、文系の先生ほど、口がうまくないという事であった。
「一体、その作文は誰が書いたんですか?その生徒は、なにか学習態度や、家庭環境に問題があったのでしょうか?」
「ええ、朝原信夫という男子生徒なんです。」
蘭が聞くと、植松は答えた。
「前任高校で、校内暴力をふるって退学になり、他の高校に編入したくても、たらいまわしにされて、結局、伊東学園で引き取るという事で決着がついたんです。ですが、もうすでに、ほかの大人から嫌われているってことがわかっていたんでしょうね。授業を受ける気はまるでなさそうです。きっと、ものすごく傷ついているんでしょうね。その生徒が、命は大切である事は分かるが、しかし、理解できないという、作文を書いたんですよ。」
「そうですか、、、。確かに、僕のところに来てくれるお客さんにも、たまにそういうことを言う人がいました。なんだか、誰かがそういうことを教えてくれなかったのか、と思ってしまうこともあります。でも、きっと、その人もその家族も、そうするしかできなかったんだろうなと思って、僕は、そういう子たちの背に観音様を彫り、観音様が守ってくれるから、精いっぱい生きてくれと、約束してもらうんです。そういうことは、本来誰かがしてくれるものですが、それをしてもらえなかった人たちには、せめて、神様や観音様が、自分を守ってくれるのではないかと思ってくれることで、何とか生きてもらうようにしてほしいと願いを込めて。」
植松の話に、蘭は静かに刺青師としての体験を語った。
「おい、蘭ちゃん、学校の先生に刺青の話をしちゃだめだろう。」
喜恵おじさんはそういっているが、植松は何かを感じとってくれたようだ。
「という事は、誰かがいてくれるという存在になれば、朝原はそういう作文を書くのをやめてくれますでしょうか?」
「やめるという言い方は、しないほうがいいんじゃありませんか?僕はそういう時はね、やめるという言い方は、させないほうがいいと思うんですよ。そうじゃなくて、やめるのではなく、さようならをするというのかな。ほら、偉い人は、世界を変えたければ、自分を変えることなんて言いますけど、それって変われるほど余裕がある人は、かえって幸せなんですよね。大体の人は、そんなこと、考えている余裕もありませんよ。だから、画像を体に彫りこみに来るんですよね。」
蘭は、ちょっと困った顔で言った。そういう事を作った元凶は、大体、学校であることが多いのだが、植松君にこんなことを言ったら、彼自身も傷ついてしまう気がして。
「まあねえ、学校というところは、今は何をするところ何だか、わからなくなってしまったよなあ。勉強は、塾でもできるし、しつけは親にさせてればいいし。ウーン、なんの役に立つんだろう。」
喜恵おじさんは、そんなことを言っている。もし、杉ちゃんだったら、すぐに、こういうことを聞くと、学校は百害あって一利なしと言って、大笑いするだろうなと蘭は思うが、其れは口にしないで置いた。
「そうだなあ。学校は、いろんな人がいるんだよってことを、一番初めに教えてあげる場所なんじゃないですか。僕は本来は、そういう事だと思っているですけれどもね。でも、今はだんだん、それがうまくできなくなってきていますよね。」
杉ちゃんの代わりに蘭は、こう答えを出した。
「では、その朝原に対して、なんと言ってあげればいいでしょうか。」
と、また問いかける植松君。
「そうですね。こんな答えを出して何やっているんだ!なんて怒るのは一番いけないと思いますよ。其れよりも、命ってのが何なのか、一緒に考えてやることじゃないかな。それを実感できさえすれば、きっと彼もすぐに立ち直ると思いますよ。そんなに、ひどい家庭で育った奴でなければ、しっかり話せばわかってくれると思います。」
蘭は、植松君に静かに言った。
「まあねエ、全日制とちがって、なかなかクラス一丸で何かしようとか、そういう事も少ないですから、クラスメイトに影響を受けるということも少ないでしょうしね。だったら、個人的にどうかしてやるしかないでしょう。」
「そうそう。そういう事、そういう事。教えるってのは、ただ学問をどうのこうのという事がすべてではない。」
喜恵おじさんもそういう事を続ける。
「何もできないとか、そういう憂鬱な気持ちになってないで、とにかく具体的に動こうと考えて下さい。医学的な援助が必要なのであれば、影浦先生もいてくれるし、周りに味方は居てくれますから、あんまり一人で抱え込むことはやめてくださいね。」
蘭は、まだ悩んでいる顔をしている植松に、にこやかに言ったのだが、まだ落ち込んでしまっているようだった。
「植松さん。僕もよくお客さんに言い聞かせているのですが、絶対に一人で抱え込むことは、やめてくださいよ。僕たちは、ちゃんとここにいますし、影浦先生だって、しっかりいてくれますから。」
「おいおい蘭ちゃん、僕を忘れないでくれよ、僕も仲間に入れてもらえないかな。」
喜恵おじさんが、蘭にいうので笑い話になってしまったが、ここでやっと植松はほっとしてくれた様だった。
「ありがとうございます。今日は聞いてくださって、有難うございました。」
蘭はここで初めて、テーブルの上のカップラーメンが、もう冷めてしまっていることに気が付いた。これで、昼飯も台無しか、と、思っていると、
「よし、丁度こっちへ来たんだし、おじさんがお寿司を出前してあげようね。」
と、喜恵おじさんが言ったので、今日はなんていい日だろう、と思い直す蘭であった。喜恵おじさんが、スマートフォンを出して、寿司屋に電話をかけ始めた。
「ありがとうございます。本当に、今日はお二人に聞いてもらえてうれかったです。これから、また教師として、やっていけそうだと思います。」
と言ってくれる植松に、蘭は、いいことをしたと思う。この仕事をしていると、やくざの親分と付き合いがあるのではないかと、レッテルを張られてしまうのであるが、ときに、その刺青というモノの特性から、こういう相談を持ち掛けらることがある。そうすると、なんていいことをしたんだろうって、蘭は思うのだ。
その日は、喜恵おじさんが出前を取ってくれた寿司を食べて、今の教育について語ったりして過ごした。蘭と喜恵おじさんの話は、ちょっと難しい教育用語の話も出て、植松にはちょっとわからない所もあった。でも、その場に居合わせることができて、楽しいと思うことができた時間だった。
そして、その日の翌日。
多分、人生というものはそうなっているんだと思う。きっとそうなっていると思う。昨日、あれだけ話を聞いてもらって、蘭さんや、檜山先生にそうやって励ましてもらって、さあ、やろう!という気持ちになった時、もっと大きな雷が落ちるという事である。その雷は、今まで落ちてきた雷以上に、すごく大きな雷になるのであった。
「え?そんなことを書いたんですか?あの、朝原信夫と同じ内容の作文を?」
と、思わずポカンと口を開けてしまう植松であった。
「へえ、鮫島さんが!」
他の先生もそういうことを言っている。
「ちょっとまってくださいよ。鮫島徳子さんと言えば、東大確実と言える優等生でしょ?」
「それに、あたし達も、彼女には期待しているとさんざん言い聞かせたじゃありませんか。その彼女が、命は大切であり、理解できないなんて作文を書くでしょうか?鮫島徳子と言えば、さほど貧困家庭という訳でもないですし、両親からだって、十分愛されていると思われる子ですよ。そんな子がそんな作文を書くなんて、一寸信じられませんね。」
女の先生たちは、そういうことを言っている。女性が話すと、いつまでも結論が出ず、話がまとまらないで、終わってしまうことがほとんどなのだ。
「しかしこれは、鮫島の筆跡で間違いありませんね。それはきっと確かではありませんか?」
漢字に詳しい国語の男性教師が、そういうことを言った。
「まあ、たぶん、鮫島の事ですから、ちょっとなにか悩んでいただけの話ではないですかね。この前、鮫島の家を訪問した時も、父親も母親も、ちゃんと彼女のほうを向いて話してくれましたし、金銭的に不自由なところがあるとか、そういうような事は何も在りませんでしたよ。あの年の子ですから、ちょっと親に叱られたとか、その程度だと思います。」
と、ちょっとベテラン教師と言われる、男性教師がそういう事を言うと、確かに、そうだとほかの先生たちが、確かにそうだと頷きあった。
「まあ、あのですね。此間の座間事件のような、ああいう悪質な人に、引っかからなければいいんですけどね、、、。」
と、若い女の先生はそういっている。
「ええ、だけど、鮫島の場合は、親御さんがちゃんとそばについていられるほど、余裕がある家庭であることは間違いありませんから、多少彼女が変になったとしても、親御さんがちゃんと捕まえてくれるでしょう。だから、私どもはちゃんと、彼女が第一志望の大学へ行けるように指導してあげる事じゃないですか。」
先ほどのベテラン男性教師が、そういうことを言った。他の教師も、そうよねえ、そうよねえ、と言い合っている。
「其れはどうでしょうか。」
急に、一人の男性教師が発言した。
「何ですか。金本先生。また年寄りの冷や水ですか?」
この金本先生は、おじいちゃん先生として、生徒からの人気はあるが、ほかの教師からは嫌われていた。
「いや、年寄りの冷や水というか、彼女もある程度は傷ついているんじゃないでしょうかな。あんな優等生で、一見すると何もないように見える生徒こそ、実は、裏で大問題を抱えていることもありますよ。」
「傷つくって、金本先生、彼女が傷つくようなきっかけってあるんですか?家は裕福だし、クラスでも、友達が多くてしたわれている生徒ですよ?」
さっきのベテランの先生が、そういうことを言う。金本先生は、どうですかねえと言って笑うだけだった。植松はこのやり取りを黙って聞いているだけしかできなかったのだが、、、。
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