第278話 忌まわしい記憶とともに

 大成は前に立ちはだかるかつての妹へと目を向ける。その距離は十メートルほど。その姿を見るたびに思い出されるのは、偽りであることは確実であるにも関わらず、それを否定しきることができない記憶。


 その記憶自体が不愉快なわけではない。偽りであったと思えないほどリアルな記憶が自身の手を鈍らせるのだ。竜たちによって、自身に否定できないほど強く植えつけられた偽りの記憶。


 いままで戦ってきた相手を考えると、わずかでも手を鈍らせるのは致命的になり得ることは充分承知している。奴はこちらが植えつけられた偽りの記憶を担っていた存在だ。自身を脅かす敵であることは疑いようがない。


 だが、それがわかっていても、記憶を否定できなかった。ずきずきと頭が痛む。偽りの記憶は自身の記憶と区別ができないほど強固なものなのだろう。


「…………」


 大成は無言のまま歯を食いしばり、偽りの記憶を振り払おうとする。いま目の前にいる存在は自分とは一切関わりのない存在であることを強く言い聞かせた。


 強くそう思ってもなお、偽りの記憶を否定することは叶わなかった。目の前にいる敵との捏造された数々の記憶が頭を過ぎる。


「いや、実にいい顔をしているね。くだらない仕事だと思っていたが、わからんものだ。そう思わないかね、兄さん?」


 妹だったものは偽りの記憶と同じ笑みを見せた。


「偽りの記憶を仕立てて洗脳というのは、手段としてはそれなりに有用なのかもな。お前ほどの手間をかけなくても、こちらの望むとおりに誘導することも不可能ではなさそうだ。よかったな異世界人。お前のおかげで我々はまた一つ上へ手を伸ばすことができたのだ。お前の苦しみは、我々の糧となるだろう」


「……黙れ」


 かつての妹の言葉を否定しながら、大成は直剣を伸ばして刺突を放った。伸びた刀身がかつての妹の頭部に迫る。


 しかし、かつての妹はそれをなんなく回避。二歩横に回り込んだ。


「怒っているのか。まあそうだろうな。これだけいいように扱われていたのだ。怒るのも当然と言えるだろう」


 伸ばした直剣を回避して距離を取ったかつての妹は悠然とした様子で言う。


「だが、貴様は同時に私たちが植えつけた偽りの記憶を否定しきることができないのもまた事実。偽りであるとはいえ、それは貴様にとってみれば間違いなく本当に体験したものと変わらないのだから。それを否定することは自身の崩壊を起こしかねない。苦しませて愉悦に浸ることにそこまで愉悦を感じるほうではないが、実に興味深いことは否定しきれないな」


 かつての妹の声を聞くたびに、脳が揺さぶられるような感覚に襲われる。


 奴が言う通り、植えつけられた偽りの記憶は本物とほとんど区別ができないほど精巧であった。そこまで精巧に捏造されたそれを否定するのは、自身の過去を否定することに等しかった。偽りであることをはっきりと認識していながら、それを否定するのはとてつもなく強力な猛毒に脳を破壊されているかのようであった。


『……落ち着け』


 狂騒に襲われつつあったところに、ブラドーの冷静な声が響き渡る。


『お前にとってそれは偽物だ。強く刻まれたそれを本物と見分けがつかないものであるだろうが、それが偽物であることは間違いない。偽の記憶を本物と混同するな。奴はそれがわかっていて、あの姿でいるのだ。その術中に嵌まる必要などどこにもない』


『……そう言われても』


 強くはっきりと刻まれた偽りの記憶が、自身が持つ本来の記憶と区別がつけられないことはどうしようもなかった。記憶というのはとてつもなく強力だ。時にそれは自身を縛る重い枷となる。


 この場で、偽りの記憶だけを消す、あるいは忘れるなんて都合のいいことができるはずもなかった。


 頭が痛い。それはきっと、自分のものとしか思えない偽りの記憶を否定しようとした結果発生した拒否反応のようなものなのだろう。


 直剣を握る手が強まる。嫌な汗が滲み、息が荒くなっていく。


『なにも考えるな――と言いたいところだが、お前が人である以上、それは難しいだろう。お前が意識と知性を持っている以上、一切考えないというのは不可能に等しい。だが、お前に植えつけられた記憶の強固さを考えると、それ以外対策の仕様がないというのもまた事実。お前の偽りの記憶の否定に俺も協力しよう。どこまでできるかはわからん。できる限り手を尽くすが、過度な期待はするな』


『……ありがとう。助かる』


 こうやって限りなく近い場所に信頼できる相手がいるというのはなによりも心強かった。ブラドーがいなかったら、偽りの記憶に呑み込まれて、どうにかなってしまっていただろう。


 大成はかつての妹へと目を向ける。


 そこにいるのは、いまでもはっきりと思い出せるかつての妹の姿。目に入るたびに、それが偽物であるとわかっていても否定しきることは叶わなかった。


 だが、ここを生き延びるのであればこれも乗り越えなければならないのは明らかである。それが、自身の否定に繋がりかねないものであったとしても。


 自身の否定に堪えながら、偽りの記憶を否定しながら大成は直剣を構え直す。短く息を吐き、一度だけ直剣を握る手を強めたのちに前へと踏み出した。直剣を間合いでかつての妹を捉える。


「ほう、まだ折れないか。そうこなくてはな」


 かつての妹は生み出した錆を硬化させた刃を創り出し、大成が振るった直剣を防いだ。なんとも言えない柔らかい感触が両手に伝わる。錆はずぶずぶと音を立てるようにして、直剣を構成する呪われた血を侵食していく。


 幾度か打ち合ったのちに、大成は後ろへと飛ぶ。自身の血を硬化して創り出した直剣の刃は錆によって蝕まれていた。やはり、打ち合うのは分が悪いか――


『いや、そうでもない』


 そこで響くブラドーの声。それを聞き、大成は『どうしてだ?』と疑問の言葉を返した。


『奴の錆がこちらに影響するように、こちらの呪いも奴の錆へ影響を及ぼす。である以上、奴もこちらの血に触れるのは極力避けたいはずだ。生み出した錆がすでに自身から切り離され、本体への影響が限りなく小さくなっていたとしても、能力で発生させた錆そのものに及ぶ影響力をも無効化できるわけではないからな』


 淡々とした調子でブラドーは言葉を紡いだ。


『こちらの呪いが媒介になるものが自分の身体に流れる血である以上、単純な耐久戦となれば劣勢となることは間違いないがね。だとしても、徐々に削られていくというのは相手にすると気持ちのいいものではない』


 こちらが厳しいと感じているときは、相手だってそれほど変わりはしないのだ、とブラドーは言う。


 確かにその通りである。敵は強大だが、無限でもなければ完全でもない。である以上、目に見えてわかるくらいに削られていくのは決して無視できないプレッシャーとなる。戦いという場面においても、相手がどのように感じているのか推し量るのは重要であるらしい。


 とはいっても、耐久戦となれば不利なのはこちらである。である以上、この状況を打開しうるなんらかの手立てが必要であるが――


 しかし、それは未だに見えてこない。


 忌まわしき記憶を巡る戦いは、さらに進んでいく。

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